(五)
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「悪気はないんですよ、多分」
私の手を取って歩きながら、実に頼りないフォローをしたのはガルバと言う青い鎧の男だった。
ギサンテとコルロハが逃亡し、サディオがそれを追ってしまったので、私を主な職場である厨房まで送ろうと申し出たのだ。
大人しく、それに従う。正直な所は、一人になりたい気分だったが。
キス。
自分がそれをされたのだと理解したのは、本能的に目の前の男をひっぱたいた後だった。
頭の中が茹だった様に熱を持って、どうしていいか解らない。そうした張本人のくせに、サディオはむしろ自分の方が戸惑っている様な顔で私を見た。
意外な事に、ある意味でこの場を救ったのは聞き覚えのある爆笑だった。
「ギサンテ!」
ドアではない。窓に向かってサディオが怒鳴ると、涙を浮かべて笑うギサンテがガラスの向うに姿を現した。
「本気なんですね、サディオ師団長」
ついでに、サディオの背後からもそう声がする。ギクリと振り返る肩越しに、薄く開いたドアの隙間からコルロハの顔が覗くのが見えた。こちらの顔も笑っていたが、種類が違う。思わず、何か企んでいるに違いないと疑いたくなる、そんな人の悪い笑みだ。
ほんの一瞬。
どちらを先に捕らえるか、サディオが迷った。その一瞬を突いて、二人は同時に、逆方向へと走り出す。こうされると、追う方は更にもう一瞬判断が遅れる。
結局サディオはギサンテを追い、窓から飛び出して行った。だが、追い着くのは難しいだろう。チームワークの勝利だ。
何だか嵐が去った様な気分でぼうっとしていると、開きっ放しになった戸口を背後を気にしながら通り掛かる男がいた。ガルバだ。
彼は執務室の机に置き去りにされた私を見付け、再び自分が今通ってきた方を振り返り、もう一度私を見て「ああ」と手を打つ。
何を納得したのかは解らないが、私を慎重に机から降ろした上、ちゃんと送らせてくれと言い出した。察するに、ここまでくる途中、逃亡するコルロハ辺りと擦れ違ったのに違いない。そして私を見付け、きっと身内が迷惑を掛けたと確信したのだろう。
何かがあったのには違いないが、それが何かは解らない。だからガルバは言葉少なで、どうしても自信がなさそうだった。
別に、サディオから「口を利くな」と言われた事を気にした訳ではないが、私も何となく黙り込んだ。
二人して口を開かず歩いていると、ほぼ同時に名前を呼ばれた。
「アイレ」
「ガルバ」
驚いてそちらを見ると、むしろ呼んだ方が驚いていた。
「どうした?」
と、強く問うのは眉をひそめたパパ。
「もう浮気かい?」
決め付けたのは、珍しく呆れ顔のアサレアだった。
「違います!」
悲鳴の様な声を上げて、ガルバは身の潔白を証明する様に私の手を振り払った。
これは予測できたので、バランスを失わずに済んだ。片足で立ちながら、二人に説明する。
「杖をなくしたので、送って下さっていたんですよ」
「何だ。詰まらない」
とても冗談に聞こえない口調で言いながら、アサレアはこちらに手を伸ばした。ちょうど手を繋ぐ格好で、それに掴まる。
と、パパがそれを見、わずかに眼を細めた気がした。
「……幽閉って、部屋で大人しくしているものではないんですか?」
「ん? あぁ。そうだね。でも、窓からラウレルの姿が見えたから。挨拶でもと思って」
へらへら笑うアサレアを、複雑な気持ちで見る。いいのだろうか?
挨拶と言っても、王と重臣が顔を合わせるなんて許されるのか。もの問いたげな私の視線を受けて、パパが短く息を吐く。
「存外、強引な人でね」
押し切られたらしい。
「陛下、わがままもいい加減に……」
「黒い風について、訊かれたそうだよ」
しまった。
とっさにそう思ったのは、電流の様なものが私の全身をくまなく撫でて行った後だ。
肩は震えなかったか? 手は? 唇は? 眼にした者に不審を抱かす表情が、この顔を通り過ぎはしなかったか?
黒い風。
この名前は、私を少なからず動揺させた。
「予も、尋ねられた。サディオ殿がこの城に入ってすぐにね。よほど、関心があると見える」
「しかし、黒い風は……もう」
「我が国とは関わりない。だから災いが降りかからぬ様、願うばかりだよ」
「はい、陛下」
サディオが自ら王に尋ね、自邸に押し込めた重臣を呼び出してまで探ろうとしている。その事を覚えておけと、アサレアは釘を刺すためにこの話題に触れた様だった。
「アイレ殿も、黒い風をご存じか」
注意深く、パパが問う。返答次第では私にも、疑いの眼を向けねばならないと言うふうに。
アサレアが、賢君と呼ばれる理由。
それはわずかに十四歳で即位した少年が、以降十一年で国土をほぼ二倍にした事。
そして、それを実現させたのが黒い風だ。
兄が王座に着くと同時に現れた、トルトゥガリスタの天才軍師。この十一年における我が国の治世と繁栄を、黒い風を抜きにして語る事はできない。
ただし、物事には必ずと言っていいほど表と裏があるものだ。それほどの功労者でありながら、黒い風の正体は味方でも片手で数えられる者しか知らない。明かせないのだ。
私はなるべく困って見える表情を選んで、顔に浮かべる。
「この国の民で、その呼び名を知らぬ者はいません」
「……なるほど」
とても納得したとは言い難い様子で、しかしパパはただ一言呟いただけだった。
夜になって、彼があっさり引き下がった訳を知る。
「一応、何をしてらっしゃるかお尋ねした方がいいですか?」
厨房の後片付けを手伝っていたら、すっかり夜更けになってしまった。
手燭に灯した蝋燭を頼りに、部屋へと戻る。だが自室の前まで辿り着くと、ドアの下から明りが漏れているのに気付いた。一人部屋だ。中には誰もいるはずがない。
逡巡。だが私が手足を動かすより先に、中からドアが開かれた。
そこにいたのはガルバだ。その向こうにパパが立ち、私の粗末なベッドにはサディオが足を組んで腰掛けていた。
三人とも、それぞれに難しい顔をしている。思わず逃げ出したい気持ちになったが、彼らから逃げおおせるのは不可能だろう。
そして、先ほどの質問をぶつける事になったのだ。
「入れ」
サディオは問いに答えず、短く命じる。
つい、あなたの部屋ではないでしょう、と言いたくなる。しかしここは呑み込んで、大人しく従った。
手燭と杖をガルバに預け、促されるままサディオの隣に腰掛ける。その膝の上に赤い本が差し出された。昨日、アサレアがパパに言付けた童話集だ。
「読め」
「はい?」
二度目は言葉ではなく、胸元に本を押付けて催促された。赤い表紙と銀髪に飾られた顔を見比べて、知らず口からため息が零れる。
読むしかなさそうだ。
「――もういい」
人魚が姿を消す辺りで、サディオは大きな手の平で本を隠した。
取り上げたそれに自分でも少し眼を這わせた後、私を見る。視線が合うと急に距離が近付いた気がして、ドキリとした。
「アイレ。歳は幾つだ」
「二十一です」
答えると「そうか」と頷き、サディオは壁際に控える側近二人と眼で会話した。口を開いたのはパパだ。
「アサレア陛下の妹姫と、同じ歳ですね」
ああ、と思う。
そう言う話か。
「何が仰りたいのでしょう」
「お前が本人なのだな、アルセ姫」
とぼけても無駄らしい。
サディオがやけに確信めいて本名を呼ぶものだから、そう思ってしまった。
肩から力が抜けて行く。そうなって初めて、余計な力が入っていたのだと気が付いた。
「困りましたね」
「否定はしないが、認めもしない?」
苦笑が漏れる。重ねて問う様子からすると、パパは明言させたいらしい。
「最初に私を疑ったのは、あなたですか? パパ」
「そうです」
「何故?」
質問で返すと、どこか言い難そうに一瞬の空白を置く。それでも諦めた様に、本心と思えるものを吐き出した。
「そうであって欲しかった。気を付けておられたかも知れないが、あなたとアサレア陛下は親しげだ。恋人なら我々は苦しい選択を迫られるが、もし妹姫ならそうしなくていい」
「何だか、不純な動機ですね」
それではまるで、理由と行動の順序が逆だ。その結果を期待して、疑い始めるとは。
「いや、しかし切っ掛けはそれです」
「本?」
パパが示し、先ほど朗読を強要された童話集に視線が集まる。
でも、どうしてこれが?
「アサレア陛下は当然の様に贈り、あなたも何でもないふうに受け取られた。だが貴族に仕える侍女ならともかく、文字の読める下女など、自分は知らない」
文字が読めたから、私が身分ある者だと考えたと言うのか。
余りの事に、私は呆気に取られた。
「運の強い人ですね」
そしてやっと口から零れ出たのは、正直な感想だ。
本当に、運が強い。