(四)
(四)
幸い足は軽症だったので、一日休みを貰った後、ネウト医師から借りた杖を伴って職場復帰を果たした。
さすがにまだ屈んだり重い物を運ぶのは無理だったが、その心配は無用だった。
インヴィオの兵士が私を見掛けると、何かしら手を貸そうとしてくれるからだ。そして今、占領軍によって人口密度が飽和状態のこの城において、インヴィオ兵士のいない場所は皆無に近い。
結局全ての仕事を取られた私は、何もする事がなく、それどころか何だか日当たりのよい辺りに運ばれてしまった。快適過ぎて、眠い。でもここで寝たら、きっと負けだ。
人知れずそんな葛藤を繰り広げながら、ふらふら戦っていると肩を叩かれた。
「お暇そうですな」
「ラウレル卿! 兄と一緒みたいに言わないで下さい」
その人物を見上げて、眠気が一気に吹き飛んだ。嬉しさでだ。
ラウレル卿は王であるアサレアが最も信を置く人物であり、腹心の臣であり、父である先王が亡くなってから私にはその代わりでもあった。
そして昨日、例の噂に祝いの品を贈らなかった数少ない分別を持った人だ。
会えて嬉しい。だがしかし、と頚を傾げる。
我が国の重臣達はその多くが忠義とやらのために国に留まったが、この城に占領軍を迎え入れて以降はそれぞれが自邸での軟禁を命じられていたはずだ。ラウレル卿も例外ではない。
どうしてここにと問う前に、卿のゴツゴツした手が肩から移動し、私の頭をわしゃわしゃと撫でた。そしてすぐ隣に座ると、白髪混じりの口髭の下で薄く笑って見せる。
「インヴィオの民は総じて親切ではあるが、あなたには特にそうですな」
悪戯っぽい眼で、こちらを覗き込む。
「これはお祝いを贈り損ねて、失敗したかも知れませんな」
「ラウレル卿まで、そんな戯言を……」
「何じゃ。やはり出鱈目か」
「当たり前でしょう」
素っ気無い返事に、卿はほっとした様な、がっかりした様な表情を見せる。この人までが信じ掛けるなんて、根も葉もないとは言え、噂の影響力とは侮れないものだ。
と、ラウレル卿がすっと寄って耳元に囁いた。
「まさかとは思うたが、姫のなさる事ですからな。万が一がないとも言えぬ」
これには、返す言葉に詰まった。現在は王の妹と言う立場で、王の娘であった頃ほど政治的に強い駒ではない。だが仮にも一国の姫なのだから、せめてもう少しだけでも大人しくしてくれと、乳母にはよく泣き付かれたものだ。
つまり、何をやらかしても不思議はない。ラウレルはそう言っている。しかも実際、今だって下女になりすましてここにいる。本来なら、国を明け渡す前に国外へ逃がされているはずだったのだ。
これは実に真っ当な指摘だったので、私は尖らせた唇で誰にも聞こえないくらいの反論をぶつぶつと零した。その頭の上に、追い討ちが掛けられる。
「しかし、悪い話でもありませぬ。あなた次第で、トルトゥガリスタは属国ではなくインヴィオと同盟を結べるやも」
「まさか! 同盟だなんて、冗談でしょう?」
強い非難の様になった。
軽口のつもりだっただろうか。当のラウレルは驚きを隠さず、私の真意を見付けようとでもする様にまじまじと視線を注ぐ。
頬でそれを感じたが、もう口を開く気にはなれなかった。
誰にも理解できない。だからこれは、二人だけの秘密だった。
駄目なのだ。それでは。
同盟では、兄と私の計画が狂ってしまう。
手近に放り出した杖を拾って立ち上がろうとすると、ラウレルがそれを助けた。
「ごめんなさい。用を思い出しました」
いつでも、見返りなく仕えてきた人なのだ。それを裏切った。忠節篤い臣への罪悪感に、この場に留まる事ができず、逃げた。
明るい庭を抜けて隠れる様に屋内に入ると、とにかく杖と足を動かす。俯いたまま幾つ目かの角を曲がると、すぐそこに人がいた。
そうだと解ったのは、ぶつかってからだ。かなり強く衝突したはずだが、相手は微動だにせず、よろけた私をがっしり捉まえる余裕さえ見せた。
ああ、どうもすいません。と謝るべく顔を上げると、見覚えのある顔があった。
「あっ、ギサンテ!」
元凶! と同義の名前を呼び捨てて、私は目の前の男を指さした。
よくよく考えれば、相手は要職にある軍人だ。ただの下女だと思っている女に呼び捨てられて、無礼討ちとまでは言わなくても、腹を立てて当然の事態と言える。
だがギサンテは私をまっすぐに立たせると、自分と同じ鎧を身に着けて隣に並んだ男に話し掛けた。
「聞いたか? コルロハ。未来の師団長夫人に覚えがめでたいぜ、オレ」
「とても好意的には見えないけどね」
瞬時に真理を見抜いたコルロハと言う男にこそ、私は好感を持ち掛けた。
が、続けて向けられた言葉には思わずがっくりと肩を落とす。
「サディオ師団長をお探しですか?」
「誤解です」
「じゃあ何の用だ?」
そう不思議がられて、やっと自分がどこにいるのかに思い当たった。
この通路にも屋根はあったが壁は片側にしかなく、それも途中から柱だけになっている。ほぼ屋外だ。無心で歩き回っている内に、建物を通り抜けてしまったらしい。
そして城のこちら側は、鍛練場になっている。本来は自国軍のための場所だが、今はインヴィオ兵の姿しかない。こんな所に自分からくれば、インヴィオ軍の誰かに用があると思われて当然だ。
そして今は、タイミングが悪い。誰もが、私とサディオを関連付けたがっている。
一秒でも早く、この場を離れた方がいい。瞬時にそう判断したが、できない。私が倒れない様に支えたまま、ギサンテが手を離さないからだ。
「あの、離……」
「まあそう言うなよ。茶くらい出すぜえ」
「いえ、あの、結構です」
「そうだよギサンテ。待って貰うにしても、今日はちょっと時間が掛かるかも知れない」
いや、待ちません。用もありません。
「ごめんね。サディオ師団長は、ちょっと用事で席を外しているんです」
「別に待たすつもりじゃねーよ。ただオレと茶ァ飲むんだよ。な?」
な? と言われても。
ギサンテは元より、意外と話を聞いてないコルロハのペースに巻き込まれ、一瞬自分を見失いそうになる。
どうしよう、と思っていると、死角から伸びた手がギサンテの腕を掴み、私から引き剥がした。死角、つまり背後に誰かがいる。
「何をしている」
振り返るより先に、答えが耳を打った。サディオの声だ。
腕を掴まれ、悪戯がばれた子供の様なギサンテの隣から、コルロハが問う。
「まだ掛かると思ったのに。どうでした? ラウレル卿は」
思わぬ所で知った名を耳にして、心臓が跳ねる。そうか。ラウレルが今日城にいたのは、サディオが呼んだためだったのか。
少しだけ、好奇心が頭をもたげる。わざわざ城から追い出した重臣を呼び付けるほどとは、何の用があったのだろう。
だが口を開くより、その姿を見ようとするより前に、私は背後から太い腕に抱え上げられていた。
ただし、これでは荷物扱いだ。サディオは胴に回した腕一本で、ジャガイモの袋でも運ぶ様に私を脇に抱えて歩き出した。
「えっ」
「サディオ師団長」
「黙れ」
反射的に声を上げたのは、私とコルロハだった。だがサディオの制止は、恐らくギサンテに向けられていた。本人が目の前にいた時はさすがに我慢していたらしいが、一つ目の角を曲がって私達の姿が見えなくなった途端、弾ける様な彼の爆笑が後を追ってきたからだ。
でも確かに、笑いたくなる気持ちも解る。
この人は、何がしたいんだろう。荷物扱いされながら窺うが、この角度からでは表情はよく解らない。
「あの。……あのう」
自分で歩けると言おうとして、口を噤む。手の中に杖がない。どうやら、置いてきてしまったらしい。
なら戻らなければと再び口を開き掛けたが、サディオは止める間もなく手近な部屋に滑り込み、後ろ手にドアを閉めてしまった。
官の執務室だったらしい。そう広くはない部屋中に、本や書類が所狭しと積み上げられている。
「何をしていた」
本来なら、部屋の主が書類仕事を行なうための机だろう。その上の物を床に落とし、無理矢理作ったスペースに私を座らせる。
そして一言、こう問うたのだった。
私は返答に困る。別に何も、とは言い難い空気だったからだ。
「あいつらとは、話すな」
いつもの不機嫌そうな顔だ。表情と同じくらいに解り難いが、あいつらとは、側近達と言う意味だろう。
「話してません」
「口を利くなと言っている」
「はあ……」
これが、言いたかったのだろうか?
それきり口を閉じたまま、しかし部屋を出ようともしない。私の右手にある窓際の壁に背中を預け、腕組みをしてこちらを見ているだけだ。
沈黙が下りると、自分の中にじわじわと不満が湧いてくるのを感じた。
私が誰と話そうと、自由ではないか。何故それを、勝手に制限されなくてはならないのだろう。不都合だと言うなら、自分が部下に命令でもすればいい。
「なら私は、あなたにお聞きするしかありません」
「何をだ」
「あの狼の事をです」
わざと言った。
事実、知りたい事ではあった。だが何となく、この話題は嫌がるだろうと予想していた。
そして思った通り、サディオの表情に苦いものが混ざる。
「何を拘わる。あんなものに」
「あんなもの?」
思わず聞き返す。言葉の中に、ただ話題にしたくない以上の、まるで吐き捨てるのに近い何かを感じ取ったからだ。
「白い狼は、インヴィオの守り神では? それを、そんな……」
「あれは鎖に繋がれた、ただの犬だ」
思わず、息を呑んだ。
この言い種は、どうだろう。冷たいよりも、酷く寂しい。私は、踏み込んではいけない場所にまろび出た様な、そんな心細さを感じていた。
胸がざわつく。
「どうしてそんな仰り方をなさるのですか」
「事実だ」
「いいえ。あんなに美しい生き物はいません。例えあなたが主でも、その様に吐き捨ててよいはずはないのです」
ガタン、と。床が鳴った。
サディオの足が、何かに当ったらしい。だが彼はそれには構わず私の目の前に足を進め、机の両側に手を突いた。その重みに、机が軋む。
「あれに、命を取られても構わないと言ったな」
「はい」
あの獣を間近に見て、圧倒されながら私は心底そう思った。
「あれほど忌わしいものは、他にない。お前は、何も知らないだろう。知らぬから、そう言えるだけだ」
「……そうかも知れません」
鼻の先が触れそうなくらい、互いの顔が傍にある。黒だとばかり思っていたのに、今初めてその眼の色が深い青だと知った。
「ですが、初めてでした。あの白金の獣を見て、心奪われるとはこう言う事なのだと。私は、生まれて初めて知りました」
すぐそこにある男の顔が、歪む。けれどもそれは、どこか無防備なふうに思われた。
「俺は、あれが嫌いだ」
「そうですか。でも、私は好きです」
どうしてだか解らない。
解らないまま私は強く抱き締められて、唇に人の体温を感じていた。