(二)
(二)
この時点で既に、私はあらゆる危機を切り抜けたと言える。
だが実は当初の問題、川原で遭難している状況だけはまだ脱せずにいたのだ。
足を挫き、ガラの悪そうな男達に襲われかけ、獣を前に死を覚悟した。獣がどんなつもりだったか、真意は判じられないが。
とにかく、これだけの事があったのだ。
残るはもう、助けられるくらいのものだろう。そう油断した自分を、責めるつもりはない。
「……動けないのか」
「はいっ、すいません」
その人物を見上げながら、私は反射的に謝罪した。妙な緊張に、胃が縮む。
やっと見付けて貰えたのが、この人とは……。
西の空は、まだ仄かに明るい。だが太陽は地面の下に隠れてしまい、辺りは薄闇の中にある。そのため殆ど輪郭だけの影の塊が動き、細かな砂利に片膝を突いた。
うずくまる私の真横まで下りてきて、やっと見えたその顔は不機嫌そうに厳めしい。しかし、この人の機嫌が本当に悪いのかどうか、私には判断が付かなかった。二日前、インヴィオ軍を率いてこの城に入った時から、始終こんな顔だからだ。
「持ち上げるぞ」
「えっ?」
男は短く言って肩に手を回し、もう一方の腕で膝裏をすくい上げる。そうして、私を抱えて一気に立ち上がった。
その振動はわずかに揺られた程度だったが、痛めた足には痺れる様な痛みが走る。思わず身を竦め、男の肩に掛かる青い衣を握り締めた。
さすがに腕の中の事だから、自分がしがみ付かれていると解っただろう。何となく居心地悪げな顔に見えたが、咎めはしない。彼はそのまま、黙々と城に向って足を進めた。
足に痛みはあったが、腕の中に慣れてくれば余裕も出る。
そっと視線を上げれば、すぐそこに横顔があるのだ。やがて私は、自分を抱えた人物への興味を押さえ切れなくなった。
この人を、サディオ・ラブレと言う。
我が国の平定を一手に任された若き俊英で、王の血を引く者。そして武勇で名高いインヴィオ第二師団、師団長。
通称を、紺碧の盾。
この異名は、常にサディオが傍に置く側近兵に由来している。インヴィオ軍において、青に染めた革張りの鎧を着用するのは彼の側近五人だけだ。元はそれらを指したものが、いつしか主のサディオを示す名に転じた。
もちろん、武功には事欠かない。私の知る限り、紺碧の盾を打ち破った国はないはずだ。
しかもサディオは、インヴィオ現王の実子だ。
そんな身分にありながら、軍に飛び込んだ。しかも実際、稀有な豪傑なのだ。これほどの人物が、王の血筋から出るのは奇跡に近い。
誰だって、少なからず興味をそそられるに違いない。だから実は、ずっと前からどんな男か見てみたかった。
密かな願いが叶った、二日前。
この城に入ったサディオは、その風貌で我が国の重臣たちにいきなり眉をひそめさせた。
その最たる要因が、頬の辺りで毛先を揺らすこの銀髪だ。
色が問題なのではない。民草の短髪は珍しくないが、貴族や王族など身分ある男性は基本的に長髪だ。サディオの様に結えないほどに切った頭は、品がないと年寄り連中には評判が悪い。
だが個人的な事を言えば、私は、なるほど、と思った。今もそうだが動くたびに揺れる毛先が輝いて、まるで光に包まれている様だ。
これは、見る者の眼を奪う。インヴィオの軍人達に絶大な支持を受ける秘密は、この神秘性にもあるのではないかと納得した。
けれども同時に、私はこの人が苦手だとも思った。
敵国の人間を何も好きになる必要はないのだが、どうも、サディオの持つ王族然とした雰囲気には慣れないのだ。近寄り難いと言うよりも、傍に寄るのを許さない様な。
もちろん、我がトルトゥガリスタにも王族はいる。だが私の知るそれらの人々はどこまでも大らかで、尽くユルかった。
遥かな高みから余人をじっと見下ろす様な、そんな王族には免疫がない。
――……そのはず、だったのに。
どうして、こんな事になるのだろう。
二人分の体重を載せたサディオの靴音が、石畳に響く。しばらく前に幾つかの戸を潜り、中庭を抜けた。ここはすでに城内だ。だが私を抱えた人は、一向に足を止める気配すらない。
それも建物には入らず、庭に面した回廊をぐるりと回る。これではどこへ行くにも遠回りになるが、もしかすると人目を避けるためかと思い当たる。
それはこちらにも、有り難い配慮だ。雑用係と大差ない下女が、一軍を率いる師団長に抱きかかえられている。この状況を、どう説明しろと言うのか。改めてそれに気付くと、つい周囲に人目はないかと窺ってしまう。
城内とは言え、人の少ない場所は灯される明りも少ない。回廊は長いが、灯火はわずかにその角ごとに置かれているだけだ。だから姿を隠すつもりなら、それはた易いに違いない。
腕の中でそわそわし始めた私には全く構おうとせず、硬い足音は変化なく進む。明りの一つが近付き、そして過ぎた。
刹那、サディオの肩に掛かる衣の下で、銀色の鎧に反射した光が私の眼を射る。
はっとした。
そこに、狼を象る紋章が刻み込まれていたからだ。
この瞬間、何かが繋がった気がした。
「サディオ様、あの狼はあなたがお連れになったのですか?」
疑問が、口をついて出る。そうしてしまうと、これが本当の様な気になった。
うっかりしていた。白い狼は、インヴィオ王家の紋章だ。そしてかの国の兵士は必ず、守り神として白や銀色で象った狼を身に付けている。だから師団長ほどの人なら、本物の白い狼を戦場に従えていても不思議はないのではないか。
サディオは足を止め、私を見詰めた。それから何か得心した様に一人頷き、顔を背けて前を向いた。
「おかしな女だと思ったが……。それで、あんな事ができたのか。獣でも、人に慣れているなら害はないと?」
「い……いつから見てらしたんですか」
衝動のまま狼に抱き付いた姿を、見られていたらしい。それを思うと、私は無性に恥ずかしくなった。頬が熱い。慌てて、しどろもどろの言い訳をする。
「あれは、違います。あの時は、本当に……。あんな綺麗なものになら、命を取られても構わないと思ったのです」
全てを奪われてしまいたかった。
こんな感情があるのだと、初めて知る。
あの白金に輝く美しい獣に、喉笛を引き裂かれて死んでしまいたい。あの生き物の鼓動と共に、血肉となって命になりたい。
本当に、そう思ったのだ。
歩き出そうとしていた足が、再び止まる。今度は、驚きを滲ませた眼で見詰められた。
「――……どうかしている」
「すいません……」
結局、狼については何も教えて貰えなかった。
サディオがいつも通りのしかめ面で、黙々と前を見詰めて歩き出したからだ。その様子に話し掛けるのをためらう内に、目的地らしい部屋に到着した。
「これは、お珍しい」
「黙れ」
そんな会話で私達を迎え入れてくれたのは、インヴィオに従軍するネウト医師だった。
医師と言うと、陽に当らないひょろひょろのもやしか、それとも運動不足でたっぷりと脂肪に包まれた丸いお腹の印象しかない。
が、ネウトはそのどちらでもなかった。細身ではあるが思いの他に上背があり、サディオの腕から受け取った私を実に柔らかな動作で診察台に置いた。
少しひやりとした手で足を診て、やがて人好きのする笑顔をこちらに向ける。
「足首を捻挫している様ですが、骨は大丈夫でしょう。貼り薬をお出ししましょうね」
「すいません」
「構いませんよ。いつも、むさくるしい軍人ばかりに囲まれていますからね。女性がいて下さると、それだけで楽しいですし」
くすくすと笑って、医師は同意を求める様にサディオへと視線を移した。
「師団長の特別な方ともなれば、尚更です」
ド天然。
生まれて初めて兄以外の人間に、この言葉を悪態の意味で思い浮かべた。
案の定、サディオからは刺す様な冷たい空気が漂っている。そして音もなくネウトに忍び寄ったかと思うと、その胸倉を掴んで低く脅した。
「誤解だ。広めるなよ」
「えー、誤解って。そうかな? これが特別じゃなくて、何なんだい?」
私はかなり意外な心持ちで、この光景を見た。
後で知った事だが、ネウト医師はサディオとは父方の従兄弟と言う関係になるそうだ。つまり限りなく、王族に近しい。実はこの事実を知るまで、少し彼の命を心配した。こう言った慣れ合いを、許す相手だとは思えなかったからだ。
だがこの認識は、すぐに揺らぐ。
「ネウト先生、賄い手伝ってたら指切っ……」
「サディオが女の子を抱いてくるなんて、奇跡的じゃないか?」
第三の男が一人、無遠慮に戸を開ける。不服げなネウトが、サディオに問い掛けた正にそのタイミングで。
まるで雷に撃たれた様にその場で立ち尽くした兵士は、胸の辺りを狼の形に染め抜いた青い鎧を身に付けていた。では彼は、サディオの側近なのだろう。
次の瞬間、師団長の傍に控える精鋭に相応しく、厳しい訓練を思わせる無駄のない動きで兵士は素早く部屋を飛び出した。サディオですら、それを止める事は叶わない。
「待てっ、ギサンテ!」
主の制止を背中で聞きながら、ギサンテと呼ばれた兵士は叫ぶ。
「事件だ!」
完全に笑いを含んだその声は、尾ひれを付けながら瞬く間に城内を駆け巡ったそうだ。