(十四)
(十四)
赤く濡れた剣を、男は挑発的に投げて寄こした。ラウレルの血で穢れた剣は、身構えて並ぶ側近達の足元に落ちる。
床に敷き詰められた石と、鍛え上げた鉄がぶつかり、刺す様な鋭い音を立てた。瞬間、黒衣に包まれた男の姿が、視界から消えた。
その事に気付いたのは、私だけだったのだろうか?
ラウレルが用意した私兵達は、彼が死んだ事にも動揺を見せない。剣先をこちらに向けたまま、距離を詰めてにじり寄る。
アサレアは手を振り上げ、非情な合図を味方に送った。天井近くの小窓から、さっと構えられた矢が覗く。幾つも切られた小窓の全てに、兵が身を潜めて部屋の中を狙っているのだ。
……いや、違う。非情なのは、私だ。この様に兵を配したのは、私だった。
「矢を放て!」
どちらに取っても、これが契機となった。
一斉に、混沌で満たされる。矢は雨の様に無数にきらめき、敵兵の体に降り注いだ。苦痛に呻く声と、矢尻の弾かれる高い音。側近達は盾となり、矢の雨を潜り抜けて辿り着いた敵達と激しく競り合って剣を交わした。
けれども私の注意を惹いたのは、その内のどれでもなかった。
見失っていた黒い影が、サディオと袖を摺り合わせそうな間近に現れたのだ。全身の血が凍る気がした。
同時に、私の隣にも黒い人影があった。いつの間にと、思うだけ無駄だ。小柄な少女は、一石の腕輪。恐らく、アサレアの予想は正しい。一石は運び屋。人を運ぶのは、きっと主だった仕事の内だ。
だが、私なら。
もし自分が他国の王なら、この混乱の内に黒い風を手に入れるだけでなく、紺碧の盾を殺す。インヴィオ軍は、殆ど彼を信奉している。だからこそ、サディオを失えばきっと脆いに違いない。三石は、そのために雇われたのではないか。
私の頭には、その不安しかなかったのに。
「サディオ!」
「下がれ」
焦りと恐怖に、声が上擦る。だがサディオは、不思議に落ち着き払っていた。二人いる死の商人を素早く見比べ、そして迷う事なく自分を狙う暗殺者に背を向けた。
命を捨てたのだ。一瞬の逡巡もなく。
自分の体で庇おうとでも言うのか、サディオの腕がこちらに伸びる。
恐ろしいを通り越すと、腹が立つのだと初めて知った。小さく叫ぶ。
「馬鹿じゃないの!」
その手を擦り抜け、私はくるりと回って彼の背中側に飛び出した。
心臓が、ギクリと跳ねる。影に隠れた男の顔が、呼気を感じるほど傍にあるのだ。
けれども驚いたのは、あちらも一緒だったらしい。目深に被ったフードのために、表情は影に沈んでいる。だが極めて近くにあるせいで、それが少しだけ見て取れた。
狂気染みている訳でもなく、鳶色の眼は血に酔ったふうでもない。ただこちらを見る瞳が、驚きに見開かれているだけだ。
そうしていたのは数秒だったか、それとももっと短い間の事だったのか。
顔を歪めて舌打ちし、男は素手で私の肩を突き飛ばした。何、と思う間もない。私と黒衣の男の間で、何かが起こっていたのは確かだ。水面に石を投げ入れた様に、ぐにゃりと空間が歪んで見えた。
波紋の端が、私の胴にわずかに触れる。触れた途端に、体の内から赤く焼けた鉄を押し当てられる様な激しい痛みに襲われた。
「……ッあぁ!」
言葉にならない苦痛に耐え兼ね、丸まって崩れようとする私の体を誰かの腕が背後から抱き止める。
私とたなびく黒衣の間を、セタの剣が一閃して掻く。
剣先に裂かれるよりも一瞬速く退いた体を、しかし暗殺者は持て余して片膝を突いた。溺れる様に咳き込んで、口元から離した手が血で濡れている。
あの一瞬、私に触れたのはわずかだった。だがその波紋の様なものの本体は、私の手間で跳ね返る様な動きを見せて暗殺者の胸へ戻ったのだ。わずかに触れてこれほどの苦しみならば、本体を食らって無事のはずがない。
セタが私達を背中で押して下がらせるのと、視界の端から飛び出した黒い塊が三石の男に跳び付くのは、ほぼ同時だった。
はっとして、一石の少女と対していたはずのサディオを探す。だが少しばかり動こうとするだけで増す痛みに、呻き声を上げてしまった。と、背後から私を抱き止める腕がそっと位置を変え、上向きに顎を取られた。
青い瞳が不機嫌そうに、こちらを覗き込む。
「運がよかっただけだぞ」
私の命が取られなかったのは。
そしてサディオが言ったのは、こう言う意味だったと思う。深海の眼は再び離れ、黒衣の二人を見遣っていた。
剣を彼らに向けたまま、セタが口を開く。
「術を途中で止めたのでしょう。以前、一度だけ、ああして死んだ死の商人を見た事があります」
振り下ろした剣を止めるのが容易でない様に、あの不思議な力を止める事も簡単ではないのかも知れない。理屈はやはり、よく解らないが。
三石の暗殺者は、あの、サディオが背を向けた一瞬で彼を殺すはずだったのだ。
不思議な力が標的に届く前に、しかし私が割って入った。黒い風を殺してはならないとでも、命じられていたかも知れない。そのために止めた自らの力が、暗殺者の身を蝕んでいると言う事か。
黒衣の暗殺者はおびただしい血を吐いて、呼吸すらままならない。苦しみながら男は、自分を心配する少女を力任せに突き放す。だが何度床に突き倒されても、少女は男の傍から離れようとはしなかった。
何度か目に倒されて、外れたフードが少女の外套の肩に落ちる。そうして露わになった顔に、息を呑んだ。
似ていると思ったのだ。三石の男と、少女の持つ鳶色の眼が。
その眼からぼろぼろと涙を零して、取り縋る少女は男の何だ。年齢から考えれば、妹と見るのが近いだろうか。
胸を突かれた。
どうしてこんな簡単な事も、私には解らない。
眼を転じれば、ほぼ勝負は付き掛けていた。インヴィオの側には増援が駆け付け、ラウレルの招き入れた私兵達を殺し尽くそうとする所だ。
屍から流れ出た血が、床に刻まれた模様を鮮やかに浮び上がらせる。敷石のそれは、血抜きのための溝だ。足元を血で溢れさせないため、施された工夫なのだ。
その理由は知っていても、実際に眼にするのとはまるで違う。知らなかった。美しくさえあるその図柄が、隅々にまで血を通わせるとこれほど陰惨な姿に変わるとは。
まるで物の様に、折り重なった死体達。その一人一人に名前があると、忘れてはいなかったか。
それらは全て、誰かに取っては、大事な誰か。
なのに駒で争うゲームの様に、遣り取りした命の数を覚えてもいない。
解ってはいなかった。
守るつもりで、殺したのは私ではないか。
叫びたいのに、喉が張り付いた様に声が出ない。視界一杯を埋め尽くす死体が、ただその存在だけで私を打ちのめした。
「予を恨め」
すぐ傍で、兄の声。
「これを招いたのは、予だ。アルセの才を利用し、罪を負わせたのもね」
だから忘れてしまえばいいと、アサレアの姿が視界を塞ぐ。そして、思い出した。
鼻を衝く粘ついた血の臭いも、断末魔の混じる戦いの音も。十一年前に体験した反乱で、私は知っていた。けれども、眼にしてはいなかったのだ。
思い出せるのは、美しい絹の文目だけ。
いつだってこうして、守られていたからだ。私はただ兄の腕の中、胸に眼を伏せていただけだった。
生きるため。
戦わなければ、兄も私も死んでいた。そして私にできたのは剣を取る事でなく、多くの敵を殺すために作戦を立てる事だった。
十一年経って、大きな失敗を犯している事に私達は気付いた。人は財産。振り向けば今すぐそこにある、王座に刻まれた一文を受け継ぎ損ねた。
代わりに、兄と私は叔父の始めた殺戮の歴史を継いだのではないか。
黒い風が軍事的な意味で国力の象徴となって、この国は屍の上に成り立つ国になってしまった。父の頃には、人を守り育てる国だったはずが。
この流れを絶つには、一度壊してしまわなければならなかった。故国と、そこに住まう人の意識を。
そのために、今回の戦乱を始めたのだ。
――けれどもきっと、兄には違った。
命を奪う。その意味さえ本当には知らない私を。罪に気付く前に、遠ざけようとしたのだ。
兄が国を壊す決意をしたのは、私を自由にするためだった。