(十一)
(十一)
「サディオ……!」
血の匂い。
敵に背を向けた一瞬を逃さず、黒衣の少女が短剣を放つ。それは吸い込まれる様に、鎧の途切れた肩口を裂いた。
傷を受けながら咄嗟にサディオは私を抱き締め、倒れる様に床に伏せた。一呼吸前まで自分の体があった壁に、次々と短剣が刺さるのを見た。その視界が、銀色と深海に似た青い瞳に塞がれる。
手が、確かめる様に私の頬に触れた。そして、刹那。見詰め、離れた。
「パパ、頼む」
飛んでくる短剣を叩き落しながら、パパは自分の陰に私を入れる。その横を擦り抜け、サディオは身を低く駆け出した。傷を負ったのは、利き手の肩だ。あれでは剣を振るえはしない。武器もなく敵に向って行く姿は、私を酷く混乱させた。
何が起こったか、理解できなかった。
彼は肩の青い衣を解き、鎧を固定するベルトを外す。次の瞬間、床に崩れた。消えたと言ってもいい。サディオの身を包む一切の物が床に落ち、その中からまるで水銀の様に輝く何かがグニャリと現れ、形を成した。
美しい、狼の。
それは何よりも速く駆け、眼は途中から血の足跡を追うほどだった。寄り添う二つの人影に難なく迫り、踊り懸かる。白い牙が男の喉笛を捉え、――しかし、引き裂く事はできなかった。
狼の体は男の目前で雷に撃たれた様に痙攣し、手も触れず床に叩き付けられた。
その不可解さに、私は怯む。だが狼は諦めず、すぐさま立ち上がって再び黒衣の男目掛けて跳躍した。
今度は、刃物が獣の腹を裂いた。男の背後から、少女が短剣を突き出したのだ。血に染まる白金の体が、彼らの外套を揺らして足元に落ちる。力なく。けれど前脚は、なおも立ち上がろうと床を掻いた。
どうして。
強く思う。
夢を見ているのだろうか。だとしたら悪夢だ。目の前の光景を、頭が信じる事を拒んでいる。鉄が溶け、別の形に変わる様に。
その様に、サディオが狼に姿を変えたと言うのか。
そうして、死に掛けているのか。
命を賭けるべきものは、ここには何一つだってない。どうして、こんな。
自らの身と引き換えに、まるで私を守る様な。
唇を噛んで駆け出す私を、パパが止めた。
「離して!」
「行っては駄目だ!」
「このまま、死なせるつもりなの? 許さない。そんなの、絶対に許さない!」
涙が、私を掴んだ腕に落ちた。そうして初めて、自分が泣いているのだと知った。
ふと、黒衣の少女が男の黒い袖を引く。
眼の端にそれを捉え、パパはわずかに眉をひそめた。手が緩む。私は半ば突き飛ばす様にして、捕らわれた腕から飛び出した。
パパははっと息を呑んだが、私がサディオへと辿り着くまでに黒衣の二人は後ろに数歩身を退いた。それを追おうと身を捩る狼を、体全部で抱き止める。
青い鎧が間に割って入るまでのわずかな間に、黒い男は私を見下ろして言った。
「自らの役割を、思い出すがいい」
その意味を質す前に、激しい勢いで扉が開かれる。
何人もの兵士が部屋の中になだれ込み、先頭のギサンテは状況を見るや舌打ちした。あっと言う間に私とサディオは背を向けた兵士達に守られたが、その時にはもう黒い外套の男達は影も残さず消え去っていた。
血に汚れた白金の狼を、急いで軍医であるネウト医師の元へと運ぶ。
私も促され、その後に続いた。その時初めて自分の体に眼を落とし、思わず小さな悲鳴を上げた。ドレスの胸や膝が、べっとりと血に染まっていたのだ。
余りに、流した血が多い。サディオの血だ。これでは本当に、死んでしまう。ガタガタと震え出す手足を、止められなかった。
見兼ねての事だろうか。暖かな手が背を支え、頭を撫でる。
左右から青い鎧が私を挟み、手を伸ばしていた。
耳打ちと目配せで、側近達は情報を共有する。これまでの様には、行かない。
「聞いたのでしょう。私が、黒い風だと」
「ああ。道理で、賢い訳だ」
ギサンテは苦く笑って、もう一度私の頭を乱暴に撫でた。
泣きたい様な、恐い様な。悲しい様な、怒りの様な。あらゆるものが、私の中で渦巻いていた。
世界の果てに倒れ伏して、声が出なくなるまで叫びたい。
何よりも、サディオが死に掛けている。私のために。私のせいで。
もう、滅茶苦茶だ。
「お会いになりますか?」
どのくらいそうしていたか、解らない。処置室のドアの前で、ベンチに座って組んだ指を唇に押し当てて。
祈る様な格好で待つ私に、声を掛けたのはネウト医師だ。いつ、陽が暮れたのだろう。診察室のあちこちに灯された灯火が、チロチロと揺れてその姿を照らしていた。
白い上着と、手を拭う布が真っ赤な血を吸っていた。ずっとサディオに付いて処置室に籠もっていたその人を、縋る様な眼で見上げる。ネウトは戸惑う様な、困った様な微笑みを浮かべて言った。
「サディオは重症ですが、落ち着いて眠っています。大丈夫だから、会う前に着替えていらっしゃい」
「構いません、そんな事」
赤黒く血の乾いたドレスを、私はまだ改めていない。この際、そんな事が大した問題とは思えなかったのだ。
優しげなその人は、ふと顔から笑みを消す。そして何かを見極める様に、しばらくじっと私を見詰めてからこう言った。
「有難う。サディオのために」
ネウトの胸にあったものを、まだ知らない。
医師は処置室に私を招き入れると、サディオの眠るベッドの傍に座れと勧める。
「構いませんよ。手を握っても」
ベッドの上に向けた眼を驚いて移すと、脇に立ってネウト医師はからかうでもなく微笑んでいた。
「彼はもっと、誰かに触れた方がいい」
「誰か?」
「大切な人なら、一番いい。あなたがそうなって下さったら……」
「でも、私は」
大切にされるべき人間ではない。
私の周りを取り巻くのは、死体だけだ。
「関係ない」
何も聞かずにピシャリと決め付け、すぐに温和な口調に戻って問う。
「重要なのは、どう思うかです。サディオはとっくに、あなたを望んでいます。アルセ姫、あなたは?」
「でも、そんな事は一言だって」
ベッドの上で、枕に載った銀髪に眼を向ける。そうだ、それに。思い出す。
「今朝だって、私は見ても貰えませんでした。これは、拒絶でしょう? なのに何故、私を望んでいると?」
「彼は、大切な事を隠し過ぎる。……そうですね。あなたには全て、知って頂かなくては」
すると心を決める様に何度か小さく頷いて、医師は手近の椅子を引き寄せて腰を下ろした。そして真剣な顔で、私と向き合う。
「神の落とし子と言う言葉を、知っていますか?」
どうしてだか、ギクリとした。
それはさっき、黒衣の暗殺者から聞かされたためか。
「いいえ、意味までは」
「インヴィオ王家の血筋の中に、稀に生まれる者を指します」
稀に生まれる者。
ネウトはゆるやかに、サディオに向けた眼を戻す。
「インヴィオに伝わる神話を、ご存知でしょうか。取り分け、王家の起こりに纏わるものを」
「少しだけ。確か、インヴィオの緑豊かな土地を愛された神が、領土を清く守るために神獣を下されたのが王家の始まりだと」
「その通りです。故に、王家には神獣の血が流れ、稀に神の祝福を色濃く受けた御子が生まれると伝えられています」
「……サディオの様に?」
話の行く先を読んで、私が言葉を継いだ。ネウトはただ、静かに頷く。
「彼は、獣の姿で生まれたそうです」
だが私の胸には、釈然としないものが残る。
「王家が、始祖を神話で飾るのは……」
「よくある話です。本当かどうかは、解りません」
そうなのだ。いかにも王家に都合のいい、怪しげな神話をでっちあげる事はよくある。
だが、王家に近しい者が、こうもはっきり自国の成り立ちを否定するのには驚かされた。
こちらの内心を知っての上か、ネウトは淡々と語るのを止めない。
「ですがともかく、人と獣の姿を行き来する者を神話と重ね合わせ、インヴィオでは神の落とし子と呼ぶのです」
「インヴィオには、多いのですか?」
「神の落とし子が? いいえ。サディオの前は、二百年近く前の文献に記述が残っているだけです。ですから、大切にされるのです。神の祝福を、……常ならば」
ネウトの言い方は、そうではなかったと言っている。
「サディオの母君は、インヴィオの民ではありませんでした。王がご寵愛の余り、特に後宮へお召し上げになった旅の踊り子で」
その先が見える様で、私は手の平を自分の口元に押し付けた。
「生まれたばかりの我が子を一目見るなり母君は卒倒され、以来一度も胸に抱こうとなさらなかった。それどころか、目の届く場所にさえお近付けにならなかったそうです」
「王家の神話に馴染みの薄い他国の民なら、尚の事……ですね」
「侍従や臣下はサディオを大切に育てたが、恐れもしました。天からの預りものである神の落とし子は、父君である王ですら親子である前に畏怖すべき存在だったのです」
泣いては、いけないと思った。これはサディオのものだから。何も解りやしないくせに、見せ掛けの同情なんて意味がない。
けれども、ではどうすればいいのだろう。
息もできないほど一杯に、この胸を苦しめる気持ちを。
「では誰が、愛したのですか」
だから、問わずにはいられなかった。
誰が抱き締め、誰が愛しさを宿した瞳で見詰めたの。誰が、恐いほど静かな夜、眠る前の心細さを暖かに包んだの。
誰が。
「誰も」
「大人になってからは?」
「余り、変わらなかったかなあ。軍に飛び込んだのは、そのせいもあったかも知れません。王宮には事情を知り過ぎた貴族だけですが、兵士はそうではありませんから」
「ギサンテも、その様な事を。ですが、気詰まりでないと言うだけで、彼らを側近に選んだとは私には思えません」
「もちろん、そうです。しかし彼らもまた、サディオを敬い命を預けるが、受け止められはしないでしょう」
「女性は? 恋人はいなかったのですか?」
答える前に、ネウトは少し意味ありげに笑った。
「わたしの知る限り、自分からアプローチした相手はいませんね。――今までは」
「余計な……、話をするな」
私とネウトは一瞬顔を見合わせ、それから跳ねる様にベッドを振り向いた。
億劫そうに深くゆっくりと息を吐いて、サディオの青い眼が私達を見る。ネウトが枕元に寄り、脈や眼の中を確かめて問う。
「具合は?」
「痛い」
「薬を用意するよ」
笑って、私に小さく頷くとネウトは隣の部屋へ足を向ける。ドアは閉じられなかった。そのため私はベッドの枕元に口を近付け、小さな声で囁いた。
「ごめんなさい」
「何が」
秘密と、嘘と。
血に塗れた私の罪と。
「構わない。変わった女なのは、知っていた」
どうしてだろう。
自分の中に広がる感覚に戸惑って、唇を噛みながら俯いた。誰かが見れば、困った顔だと思うかも知れない。
ただ私を、知っていると言っただけだ。
なのにどうして、許された思いがするのだろう。胸の中をくすぐられた様に、甘く、柔らかなものが込み上げてくるのか。
解らなかった。