(十)
(十)
腰掛けた椅子から自室の出窓に頬杖を突き、格好だけは景色を眺める。
この二階の窓からでは、庭や城壁が見えるだけだ。変化に乏しく、飽きるほど見慣れたそれを、しかし私はいつまでも眺めた。
実際は、何も見てなどいなかったからだ。ただぼうっと、サディオについて考えている。いや。本当は、考えてもいない。答えなど、出るはずがない。
恐らく、あちらも理解されたいとは思っていないだろう。拒んだのは、サディオだ。
なのに、頭の中にあるのはただそれだけ。
「姫、昼食の準備が」
ノックに応じ、ドアを開いたセタが呼ぶ。
眼をやれば、剣も鎧も身に着けない非武装兵がテーブルに食器を並べている。一応の捕虜となってから、給仕を担当するのはインヴィオの兵士だ。
今朝の事があったからか、そんな些細な部分にさえ何か事情が見える気がする。
よく考えれば、そうなのだ。監視もただの兵士で充分なのに、サディオはわざわざ側近を手放し、私や兄に付けている。
何かあると感じるのは、穿ち過ぎだろうか。
ふっと、息を零す。
だから、どうだと言うのだ。私にできる事など、もうありはしないのに。
セタの呼び声に応えるため、自分のドレスに視線を落とし、手の平で皺を直して立ち上がる。それから、テーブルの方向へ眼を戻す。
咄嗟には、驚く事さえできなかった。
トレイに載った食器を、テーブルに移す兵士。その斜め前にセタ。
彼らから、すぐ傍だ。
私が着くべき椅子の背に手を掛けて、黒い外套の男が立つ。深く被ったフードのせいで、顔は深い影の中だ。
いつ、どこから。この男はどうやって、ここに入り込めたのだろう。目の前なのだ。セタが、気付かぬはずがない。
そこまで思い到り、はっと息を呑んだ。何故、セタは何も言わないのか。そして二人の兵士を注意深く窺えば、彼らは呼吸の有無すら疑うほどに身じろぎ一つしていない。
息を詰める私の様子に、男は口元だけで薄く笑む。足の先をこちらに向けると踝までの外套を揺らし、あっと言う間に距離を詰めた。
「控えなさい!」
大きな声で撥ね付けると、男はその場でピタリと止まって膝を折る。外套が、黒い裾を床に広げた。
「……お初に」
左手を胸に当て、頭を下げる。その腕に、細く編んだ革紐が巻き付くのに気付いた。
頭がめまぐるしく回転を始めたが、それを気取られぬ様に注意して、口を開く。
「何者ですか」
「姫様の身をお案じ申し上げる主より、遣わされた者にございます」
「主とは?」
「今は、何卒ご容赦を」
「心配せず、明かしなさい。真に私の味方ならば、こちらも真心を込めて褒美を与えねば」
「そのお言葉だけで、身に余る誉れかと」
「慎み深い事です」
私は身を屈め、男の肩に軽く触れると頭を上げさせた。眼の中にお気に入りの臣に向ける色を浮かべ、にっこりと笑う。
「それで、どうやって私を助けて下さるの」
我が意を得たと言わんばかりに、それから男は饒舌に語った。
曰く、「インヴィオは、姫様を謀っているのです。信用はなりません。様子がおかしと、お感じにはなりませんでしたか?
それもそのはず。この混乱に乗じ、隣国が兄上様の王位を奪おうと画策しております。しかしあれらは関わりなき事と決め付けて、国に戻ろうとしているのです。全てを承知した上で、見捨てようと。
……姫様、兄上様とこの国をお守りになれるのは、あなた様しかおられません。どうぞ、覚悟をお決め下さい」
妙に冷えた心持ちで、私はこれを聞いた。
再び深く頭を下げた黒衣の男に、戸惑いを滲ませた声で疑問を投げる。
「けれど、何ができるでしょう。私の様な、無力な者に」
「簒奪者は、兄上様を亡き者にせんと兵を集めております。数はおよそ二千」
顔を上げ、こちらを見上げる。影に隠れたその中に、不気味に光る瞳を見た。
「どうか姫様の知略を尽くし、兄上様の窮地をお救い下さいませ」
思わず、ぎゅっと固く瞼を閉じた。
知っているのだ、この男は。
次に、込み上げたのは嘲笑だ。火が付いた様に奇矯な声で、私は笑った。よろめきながら窓を離れ、テーブルに近付く。
強張って動かない兵士の手からグラスを取り上げ、デキャンタのワインを乱暴に注ぐ。一気に飲み干し、その場で床にへたりこんだ。
兵士の編み上げ靴を目の前に見ながら、装飾が施されたテーブルの脚に縋り付く。乱れた息を何度も呑んで、震え出しそうな動揺を抑えた。
「姫様、お気を確かに」
間近に片膝を突き、男が声を掛ける。そちらへ手を伸ばすと、黒い外套の中から手が現れてそれを握った。
右手だった。私はわざと、左手を出した。
撫でる様に手を滑らせ、その手首を握る。そうして男を掴まえると、素早く伸ばした逆の手で兵士の編み上げ靴を探った。賭けに出たのだ。
指先に、柄が触れる。勘が当たった。腰に剣を帯びない兵士は、こうして膝まで隠す靴の中に短剣を隠す事がある。私はそれを抜き払い、男に向けた。
無防備そうな、首筋を狙って。
男は咄嗟に、掴まれたのと逆の腕で身を守った。私の走らせた切っ先は、その左腕を引っ掻いたに過ぎない。
だが足元には、革を編んだ腕輪が落ちる。石が三つ、編み込まれていた。
腕輪をさっと拾い上げると、窓に駆け寄る。勢いのまま椅子を振り上げ、窓に叩き付けた。大きな音と共に砕け散るガラスの隙間から、腕輪を外へ放り出す。
それが指先を離れたか、どうか。
背後から肩を捕らわれ、壁に叩き付けられる。逃れる間もなく男は片腕で頚を掴み、私を壁に押し付けた。
「話の通り、小賢しい女だ」
ぼそりと呟く。そこには最早、先ほどまでの味方を気取る色はない。
ぞっとする声。足の下でボロボロと崩れる崖の下を、覗き込んでしまった様な気分だ。
何とか絞り出した自分の声は、どうしようもなく震えていた。
「誰が、話を?」
「明かすとでも?」
「いいえ。でも、構わない。誰が私を売ったかは、もう解ってる。解らないのは、お前だけ」
何を思ったか、男は喉の奥をクックッと鳴らす。もしかすると、笑ったのだろうか。
「ただの使いさ」
「暗殺者を伝令に? 豪気な話です」
「殺さないと、誰が言った」
「そのつもりがあるのなら、とっくに私は死んでいるでしょう」
私の考えが合っていれば、この男はプロの暗殺者だ。ならば、無駄な遊びはしない。姿すら見せず、命を奪って去る事もできるのだ。
奇妙に思うのは、それだけではない。
さっき、窓を割った。この騒ぎは、下にも伝わっているだろう。いつ、兵が駆け付けるか解らないと言う事だ。
なのにどうして、落ち着いていられる。
「代われ」
唐突な言葉は、私に向けられたものではなかった。
私達しかいないのに? だがそれは、間違いだった。男の言葉に従って、どこからともなく人影が現れたのだ。男と同じ黒い外套を纏っていたが、背丈は私ほどしかない。男の手が私の頚から離れると、もう一人は素早い動作で同じ部分に刃物で触れた。
冷たい感触は恐ろしさを呼び起こし、体の動きを制限する。首を回す事さえできず、私は男の姿を眼で追った。
テラスの傍で、男はさっと黒衣の中に身を埋める。次の瞬間、その上に砕けたガラスが飛び散った。誰かが、外からガラス戸を蹴り開けたのだ。
誰が?
「……どうして」
その声がどんな色を含んでいたか、自分でも解らない。
剣を手に飛び込んできたのは、サディオだった。その顔を、私は今まで見た事がない。燃え立つ様な激しい何かを眼の中に宿らせて、見る者の肌をビリビリと刺す。これは誰?
「師団長!」
わずかに遅れ、テラスをよじ登ったパパが叫ぶ。だが、止まらない。
サディオは剣を力任せに横に払い、黒衣の男はそれを避けて飛びずさる。しかしそれには眼もくれず、空いた隙間を擦り抜けてあっと言う間にこちらに迫った。
けれども、私の頚には刃物が突き付けられている。パパが、息を呑むのがはっきりと聞こえた。
喉を裂かれる。他人事の様にそう思ったが、床に滴る温い血は、私の物ではなかった。
判断させる暇を与えず、サディオは素早く短剣とそれを握る手を諸共に捉えた。私の喉元から強引に刃物を引き剥がし、黒衣に包まれた腹を蹴って退けたのだ。
小さな悲鳴を上げ、小柄な人影は壁際まで蹴り飛ばされた。その悲鳴の声の幼さに、ぞっとする。これではまるで、少女ではないか。
だが小柄なそれは即座に跳ね起き、離れる瞬間にサディオの手の平を裂いた短剣を拾い上げる。雛が親の羽に隠れるのに似て、大きな男の背後にさっと隠れた。
今は私も、同じ様にサディオの背に庇われている。その位置から、血を滴らせる左手にハンカチを握らせた。
ぴったりと張り付く背中が、振り返らず問う。
「怪我は」
「ありません」
駆け付けたパパと肩を並べ、黒衣の二人に剣先を向けて警戒する。あの恐ろしい様な表情を、まだ浮かべているのだろうか。
「面妖な話だ」
クックッと、影に沈んだ内から笑う。
「神の落とし子が、血塗れの姫を守るとは!」
「何……」
目の前にある銀髪が、声に合わせてわずかに揺れた。
血の気が引く。
「紺碧の盾が、黒い風を!」
男の声が、止めを刺した。
サディオが今、守っているのは?
――私。
なら、黒い風は。
青い瞳が、私を捉える。振り返ったその顔は、まるで絶望の様だと思った。