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(一)

戦闘などにおける流血等の描写が含まれます。

ご一読頂ける場合は、どうぞご了承下さいますようお願い致します。

   (一)


 終わり、そして始まると言う事だ。

 だが国を失うと言うのは、こんなにのん気なものだったろうか。

 橋の上を忙しそうに人々が行き交い、野菜や穀物を満載にした馬車がそれらを掻き分けて走る。私は川原にうずくまったまま、少し遠いその光景をぼんやりと眺めた。

 今回の戦は、我がトルトゥガリスタの完全降伏と言う形で終止符が打たれた。敵方であるインヴィオに王都を明け渡したのは、たった二日前の事だ。

 私達は、国を失った。

 それもまだ、日が浅い。

 けれども、どうだ。街は今も活気に溢れ、人々の表情は明るかった。とてもじゃないが、彼らが亡国の民とは信じ難い。

 しかしこれは、どこまでも緊張感のない国王が原因だ。

「何とかなる」が口癖の楽観主義者であると同時に、客観的にだけ見れば歴代の中でも優れた王なのだ。

 だから民は、期待した。ロクに抵抗もせず、まるで客の様にインヴィオ軍を迎える王に。何か深い考えが、あるのだろうと。

 だがあの男に、そんなものがあってたまるか。

 それから、もう一つ。

 城下が活気付いているのは、街に散らばった兵士達が宿屋や酒場に金を落としている事も大きい。

 どうしてそうなったか、理由は単純。平和的に王都へ入ったインヴィオ軍が予想よりも大所帯で、城に納まり切らなかったのだ。

 逆に言うと、城は城で定員以上の人間が詰め込まれていると言う事だ。すなわち、城内の下働きにとっては地獄の様な忙しさに見舞われる状況を意味している。例えば、城の下女になってたった三日の私でさえも。

 そう、私は忙しい。こんな所でのんびりと、市井の現状について考察している場合ではないのだ。

 ならばさっさと用事を済ませて城に戻ればよさそうなものだが、そうも行かない。

 元々、人と一緒に大量増殖した汚れ物が井戸近くの洗濯場だけでは処理し切れず、仕方なく山ほどのシーツを抱えて川原に下りてきたのだ。

 普段ならしない。ここがポイント。

 城のすぐ脇を流れる川ではあるが、城内には立派な井戸が幾つもある。だから誰も、わざわざ川原に下りたりしない。そのため道があるのかないのか解らない土手を、両手一杯に洗濯物を抱え、下りた。

 案の定、足を挫いて今に至る。

 地面に広がって余計に汚れたシーツの中で、動けなくなってから既に一時間近く経っている。その内、誰か私の不在に気が付くだろうと思っていたが、どうも期待は薄そうだ。

 陽も傾き掛けて途方に暮れていた私の耳に、川原の砂利を踏む足音が聞こえた。

 天の助けかと振り返る。と、そこにいたのは明らかにガラの悪い男達。

 現在この王都を占拠するインヴィオ国軍は、その国民性か、末端の兵士までが驚くほどに礼儀正しい。洗濯物を抱えて歩いていたら、ドアを開けてくれるくらいだ。

 ただし、それが通用するのは国軍兵士まで。

 ざくざくと砂利を踏み締めて、すぐ傍に迫る男達を見上げた。人を見掛けで判断して申し訳ないが、このくたびれた鎧や剣は、どう見ても国軍兵士と言う出で立ちではない。

 戦争があれば、戦力を増やすためにどこの国も傭兵を雇う。だからこの時代、女、特に若い娘は決して傭兵に近付かぬように教え込まれているものだ。戦争と略奪がワンセットと勘違いしている傭兵に、人間性は期待できない。中には例外もいるかも知れないが、残念ながら私は今までその例外には会った事がない。

 男が一人、私の腕を掴む。不愉快だったが、それをどこか他人事の様に感じた。

 脳裏に、とぼけた顔の兄が浮かぶ。

「皆と一緒に逃げないのかい?」

 この国が負けると決まった時、そう問う兄に私は答えた。

「ご安心を。命を惜しむつもりはありません」

「でも君、女の子だからねぇ。ただ殺してくれるなら、親切だけどねぇ」

 のんびり口調の、物騒な言葉を思い出す。あれは、こう言う意味も含んでいたか。

 腕を捉えて、ご丁寧に口まで塞いで、男達は私を手近な茂みに連れ込もうとする。これでは声を上げる事もできず、痛めた足を引き摺られるたび呻き声を洩らすのが精々だ。

 どこかに国軍所属の兵士がいれば助けてくれるのだろうが、あいにく周辺に自分達以外の人影は見当たらなかった。少し頚を巡らせば、橋にはまだ人通りが多い。しかし距離がある事と傾いた太陽が災いして、気付いて貰うのは無理そうだ。

 一応、男達の手から逃れようと暴れながら、頭の中ではそんな事を冷静に考える。可愛げがないとは、物心が付いてから言われ続けた言葉だ。

 しかし、これは拙い。何とか逃げなくてはと焦るが、相手は仮にも兵士。力で敵うはずがない。しかもこの痛めた足では走るどころか、歩けるかも怪しかった。残っているのは冷静さだけだったが、冷静に考えれば考えるほど状況は絶望的だ。

 なす術もない中で、ある一瞬、空気が変わった。

 ――唸り声。

 はっと息を呑む気配。

 男達の意識が弾かれる様に私から離れ、一点に集中した。何事かと訝りながら視線でそれを辿り、私もまた息を呑む。

 眼に飛び込んできたのは、朱い狼。

 燃える様な色の大きな獣が、すぐそこから真っ直ぐこちらに敵意を向けていた。鋭い牙を見せ付けて、地の底を這う様な唸り声を上げている。

 こんなものを前にしたら、ちょっと動けない。恐いと感じる余裕もない。ああ、もう死ぬのだと、何だか納得してしまう。そんなふうに、気圧される何かがあった。

 私との間は、わずかに三歩。狼なら、一瞬で駆けられる距離だろう。

 なのに、それはわざわざゆっくりと一歩を踏み出した。警告の様に。

 ジャリ、と。

 鋭い爪が、川原の細かな石を掻く。その冷たげな音が耳に届くや、私は狼に向けて突き飛ばされた。

 視界の端に、逃げて行く男達が見える。

 ああ、囮か。

 砂利の上に倒れながら、理解した。狼が私を食べてくれれば、その間に男達は逃げる事ができる。彼らはそう判断したに違いない。

 倒れた拍子に、痛めた部分を打ち付けたらしい。足全体に痺れる様な痛みを覚え、ついそのまま倒れ伏してしまいたくなった。

 だが、乱れた呼吸に紛れ込む川原特有の石の匂いに、自分の状況を思い出す。慌てて顔を上げると、驚くほどすぐ傍に狼の顔があった。しかし私は恐いと思うより先に、またも圧倒されてしまった。

 獣の眼とは、どれもこんなに美しいのだろうか。

 どこまでも深い青。なのに暗い訳ではなく、不思議に輝く深海の様な色をしている。

 こちらを見詰め返す瞳の中に、思慮深い光が宿ってはいないか?

 ふと、私はその体に触れてみたくなった。

 理由ならある。燃える様だったその毛皮が、少し色を変化させた様に思われたからだ。それは何故かと、不思議でたまらない。

 そっと手を伸ばすと、驚いた事に、狼がわずかに身を引いた。

 すっかり好奇心をくすぐられた私は、何としても触りたくなって再び手を伸ばした。一瞬、忘れていたのだ。膝を進めようとして、すぐに思い出す。挫いた足は、動かすべきではないと。

「ぅぎゃッ!」

 踏まれた蛙の様な悲鳴を上げ、私は体勢を崩した。近距離だっただけに、避け様がない。例によって妙に醒めた頭の端で、自分に潰されるであろう狼を気の毒に思った。

 だが、それは全くの杞憂と言うものだった。自分がどうなったのか理解する暇もなく、あっと思った頃には背中に細かな砂利の感触、胸に大きな前脚の重みを感じていた。

 引き倒されたのだ。

 獣に?

 納得と疑問が同時に湧き上がり、そして消えた。いや、どうでもよくなった。と言うのが、恐らく正しい。

 自分の体を踏み付けにする獣の姿を、私は真下から見上げている。そこまでの至近距離で、やっと毛色の秘密を知った。

 大人の男ほどもある大きな狼は、その全身を美しく繊細な白金の毛で飾られていた。その輝きを持った白い毛皮に、燃える様な夕陽を受けて朱く色付いて見えたのだ。

 先ほどよりも太陽は傾きを増し、光の色は褪せている。そのために、今の狼は夜気の滲み出した寂しげな色を帯びていた。

 どきどきと、自分の心臓が早鐘の様に鳴るのを感じる。

 この胸を踏む狼の脚にも、それは伝わっているだろう。けれども、鼓動を早めるのは恐怖ではなかった。最も近い言葉を探せば、これはきっと恋慕に似ている。

 ……残念だ。

 恐らく私は、このまま死ぬ。この狼の鋭い牙に、喉を裂かれて。なのに、もっと見ていたい。

 夕陽を受けて輝く姿は美しく、夜気に染まる姿も愛しい。けれども例えば、これが月の光に浮かび上がる姿は、神々しいほどに違いない。

 見てみたかった。

 それだけが、残念だ。

 白金の毛先を指の腹に感じながら、そっと、しかし素早く腕を伸ばす。刹那、深い海の様な狼の瞳が、心を映してわずかに揺れた。構わずぎゅっと頚に抱き付き、ふかふかの胸元に顔を埋める。

 意外な事に、鼻腔をくすぐる匂いはまるで獣らしくなかった。香水とまでは行かないが、昼下がりに紅茶を嗜む貴族に似た香りをさせていたのだ。

 この体験に、私は胸が詰まった。触れる事すら到底許されないほど峻厳な生き物の、胸の中にいる。それがただただ、嬉しかった。

 この獣になら、殺されても構わない。

 偽りなく、そう思った。

 ――だが私は、すぐに激しい自己嫌悪に襲われる事になる。

 逃げ出したのだ。

 私が、ではない。

 狼が、だ。

 ほんの少しの間抱き付いたままでいたのだが、ある瞬間、狼はやっと正気にでも返った様に私を振り払った。そして二、三歩飛びずさり、しばらくこちらを警戒した後、くるりと踵を返して一目散に走り去ってしまった。

 これには酷く、衝撃を受ける。

 何故なら、走り去る姿はまるで、しつこい女から逃げ出す男そのものに見えたからだ。この場合、しつこい女は間違いなく私だ。

 立ち直る自信は、ちょっとない。

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