鉄仮面のマティアス
その中を見たジョゼットは目眩がしそうだった。リリアーヌなら気絶するだろう。つんと鼻についた嫌な臭いが充満していた。そして天井高く組まれた棚という棚には本が並び、床は書類が足の踏み場も無いほど散乱しているのだ。それから亡霊のように生気なく動く男達の目は真赤に充血していた。
「うわーやっぱり何度見ても此処は酷いなぁー」
ジェラールが嫌な顔をして言った。
「手伝いもしない貴方に言われたくありませんね」
ジョゼットは真後ろからした声に驚いて振向いた。
整った顔立ちだが神経質そうな感じで、いかにも身分が高そうな人物が立っていたのだ。無表情だったが緑がかった青色の瞳は冷たく王子を見ていた。その視線が振向いたジョゼットへと移った。
「まさか彼がリリアーヌの言っていた者と言うのではないでしょうね?」
淡々とした口調だったが不満そうな感じが声音に滲んでいた。ジョゼットは馬鹿にされたみたいでむっとしたが、王子は気にすること無くジョゼットを紹介しだした。
「そう、彼がジョゼ・アルトー。奇跡の少年だよ」
マティアスは上から下まで不躾にジョゼットを見渡した。
ジョゼットは内心冷々して生きた心地がしなかった。彼は物静かな雰囲気はするが全てを見透かすような眼光には迫力あった。
「――子供とは思いませんでした。子供には此処は無理でしょう。リリアーヌには申し訳無いですが早々に引き取って貰って下さい」
ジョゼットはまたむっときた。女を馬鹿にし子供も同様だと思っているのは腹が立った。子供だって貧しければ大人のようにちゃんと働いているのだ。そういう子供達を沢山知っている。それを見た目だけで判断するこの男が許せなかった。
(王族かなんだか知らないけれど頭にきた!)
ジョゼットはきっ、とマティアスを睨んだ。
「お言葉ですが、使ってもいないのにそういう風に言われるのは心外です!それとも子供に出来た仕事が今まで滞っていたと思われるのが嫌なんですか!」
ジェラールは吹き出し、マティアスは珍しく驚いた感じで瞳を大きく見開いた。彼ら王族にとって面と向って文句を言われる経験はそう無いのだろう。
「ぷくくくっ…マティアス、お前の負けだ。この子の言う通り、使って無いのにそういう言い方は無いだろう?」
マティアスは笑う王子を冷ややかに見た。
「この子はかなりお気に入りという訳ですか…知りませんよ。貴方が言うように此処は〝魔の資料室〟ですからね。大の大人が帰りたいと泣く場所なんですから」
「わた…僕は泣くもんか!絶対使って良かったって言わせてみせる!」
ジェラールがそのジョゼットの挑むような言葉を聞いて再び笑い出した。
マティアスはまた冷ややかに王子を見たが、その視線をジョゼットへ流した。彼女も負けずそれを睨み返す。
マティアスは表情にこそ出さないが気分は最悪だった。本来の仕事もあるのに更に課せられたこの仕事は、誰も今までしたくなかったのも頷けるものだったのだ。しかしいずれはしなければならないもので必要なものだというのは十分わかっている。しかしそれは人材不足で遅々として進まず、しまいにはこんな子供を押し付けようと言うのだから…だがジェラールは言い出したら引かない。一度受けて早々に追い出すしかないと決断した。
「分かりました。それ程自信があるなら結構です。やっていただきましょう。では王子、貴方はお引取りください。邪魔ですから」
ジャラールは肩をすくめて、頑張れよ、と言うようにジョゼットに片目を瞑った。
ジョゼットは頷いてマティアスがさっさと行く後を付いて行ったのだった。
内容的にはかなり細かく分類した内容別に陳列していく仕事らしい。そこで内容の把握も必要なのだが量が多すぎる為に大変なようだった。マティアスは政務官僚なので通常の仕事をこなしつつこの場所にはまっていた。そして自分がこの場所を離れる時は、指示をして行くのが主な毎日だった。
マティアスは他の部下にこの子供を預けても負担になるだろうと、自分が直接指示をする事にした。どうせすぐに根をあげるだろうから、そんなに時間はとらないと思ったのだ。早速指示をだして様子を見た。すると意外と早く仕上げて持って来たのだ。顔を見れば、出来ただろうと言わんばかりの表情だった。そして何か言葉を待っている感じだ。
「こんな事が出来たぐらいで褒めないといけませんか?一々言ってさしあげる暇などありません。それを期待しているのならさっさと出て行ってください。邪魔ですから」
マティアスは冷たく言うと自分の書類に視線を落とした。
ジョゼットは真赤になって、鉄仮面のマティアスを睨んだ。
「貴方に褒めて貰おうなんて思っていません!次の指示を下さい!」
マティアスは驚きと共に、さっと顔を上げ次の仕事を渡したのだった。
その後、リリアーヌの前評判は大げさでは無い事が直ぐに判明した。マティアスは自分でも記憶力にはかなり自信があったが、ジョゼはそれを遥かに上回るものだったのだ。言ったものは直ぐに取って来るし、言いつけたものは通常の何倍もの速さできちんと分類してくる。それからの毎日は驚きの連続だった。
マティアスも安心して自分の仕事に出て行ける日が来ようとは思ってもいなかった。そしてその日は午後には戻ると言って出て行った。
ジョゼットはマティアスがいなくなると、ほっとして背伸びをした。啖呵を切って居座った以上、絶対に見返してやろうと思っていたから必死だったのだ。それと今日は絶対にしようと思っていた事があった。言われた仕事を急いで済ませると、冊子になっていない資料は重しをのせてまわっていた。
「ジョゼ、何をしているんだい?」
一緒に働いている一人のレジスが言った。この〝魔の資料室〟で唯一長く勤めている優秀な青年だ。しかし疲労の色は濃いのは皆と共通だった。
「窓を開けて空気を入れ替えるんだよ。こんなに天気が良いんだからたまにはそうしないと身体までカビが生えそうだからね」
「窓は駄目だよ!大事な資料が外にでも飛んだら大変だろう?」
「大丈夫だって!重しをしているから」
そう言ってジョゼットは大きな窓を次から次へと開け放った。澄んだ空気の風が墓場のような室内を清めてくれるようだった。その風に気持ち良さそうに顔を向けながら明るく笑うジョゼットに、レジスはもちろん他の仲間達は思わずドキリとした。
「さあ、鉄仮面の司令官がいない間にもう一つやって来るから、ちょっと待っていてね」
「シャブリエ閣下をそう呼ぶのはジョゼだけだな。怖いもの知らずだね」
つい最近来たばかりのジョゼットをマティアスの部下達はお気に入りだった。当然だがマティアスに是と言っても否と言う事を許されない立場の彼らには、ジョゼットの言いたい事をハッキリ言う姿に拍手を送っていた。そして何よりも明るい笑顔はほっとして忙しい中にも潤いを感じていたのだ。
「女の子だったらもっと良かったのになぁ~」
「ははは…可愛いから女の子と変わらないんじゃないか?」
「それもそうだなぁ~そう思っとこう」
と、言う会話も時々あるようだ。
ジョゼットは資料室を抜け出し、届いた荷物を取りに行った。それはリリアーヌに頼んでいたものだった。ジョゼットは部外者なので一応決まりとして外への連絡関係は禁止となっていた。だからこの連絡は世話係になってくれたフェリシテに頼んだものだった。
ジョゼットはフェリシテを初めて見た時、女の自分が嫌になるくらい呆然としてしまった。あの誰もが褒め称える美貌の王子の顔が、しまり無くにやけるのが分かる気がしたのだ。しかも綺麗だけでなく優しかった。
ジョゼットは戻りながら思い出しているとそのフェリシテを見かけた。声をかけようとしたところで思わず身を隠してしまった。彼女と一緒にいたのはマティアスだったからだ。いつも鉄の仮面のように無表情な顔しか見た事無いのに笑っていたのだ。その顔にジョゼットはドクンと胸が鳴ったような気がした。
(何あれ?あんな顔もするんだ…)
次は何だか、ムカムカして来た。
「何、こっそり見ているんだい?ジョゼ?」
急に後から声をかけられて心臓が飛び出しそうだった。後ろを振向くと、
「お、王子!」
「しっ!あ~浮気現場発見かぁ~」
ジョゼットはジェラールに後から口を塞がれて身動きが取れなかった。それでももがいてその手から逃れると小さな声で言った。
「何を言っているのですか?浮気って!」
「冗談だよ。でもマティアスの奴は未練あったりして」
「未練って?」
ジョゼットは何故かドキドキしながら質問した。
「ああ、リリアーヌから聞いて無い?叔父上もそうだったけれど、マティアスも彼女の夫候補だったから当初みんな本気でフェリシテを口説いていたんだよ」
その話しはリリアーヌからはオベール公についてだけは聞いていた。候補が何人かいたとは聞いていたが彼もそうだったのだ。
「うーむ。やっぱりむかつくから邪魔しに行こう。なあジョゼ?あれ?ジョゼ?」
ジェラールが気付いた時にはジョゼットはくるりと背を向けていた。そして走って去って行った。変な奴だとジェラールは思いながら隠れていた茂みから出て、二人の邪魔をしに行ったのだった。
走り去ったジョゼットは動悸がしてたまらなかった。
(あんな奴でも好きな女の前ではあんな顔をするんだ!なんだろう?何で悔しいと思うんだろう?いつも嫌味を言うし鉄仮面だし…本当に嫌な奴なのに…でも…)
でもマティアスが仕事に対して誇りを持ってやっているのが良く分かっていた。それにかなり優秀な事も分かっている。他人にも厳しいが自分にはもっと厳しいことも…部下にさせる事の倍は自分でやっていた。そういうところは見直していたのだ。
ジョゼットは息せき切って資料室へ飛び込んだ。
「どうしたんだい?ジョゼ?」
ジョゼの様子にレジスが驚いて言った。
「な、何でも無い…」
「何でも無いって…ん?何かいい匂いがするけど?」
レジスはジョゼットが持っていた箱を指さした。それはリリアーヌに頼んだ焼き菓子だった。疲れているみんなに甘いものを差し入れして貰ったのだ。リリアーヌは喜んで協力してくれた。
「あっ、そう、そう!これ差し入れ。お茶淹れるし、ちょっと休憩しようよ」
〝休憩〟と言う言葉にみんなが、ほわ~っと夢を見るような顔をした。そんな言葉があったのかと言う感じだ。男ばかりでそんな気を遣うものなんかいないのが現状だった。ジョゼットも此処は休憩禁止なのかと思って様子を窺っていたが我慢出来なくなったのだ。
「い、いいのかなぁ」
「そうだな。閣下に見られたら嫌味言われるかも…」
「大丈夫!鉄仮面の司令官も外で美女といちゃいちゃしていたから!」
ジョゼットはむっとして言った。
「美女?もしかしてフェリシテ様?うわ~いいよなぁ」
みんながざわめいた。驚くのもいないから公認らしい。羨ましいと騒ぐ男達にもジョゼットはむっときたが、フェリシテなら仕方が無いと思い直した。
そして子供のようにはしゃぐ男達にお茶とお菓子を配ってまわった。
「うまい!ああぁー目が覚めるようだ」
「本当だ!菓子なんか女子供が食べるもんだって思っていたが疲れた時は酒よりいいな」
「ジョゼ、これどうしたんだ?」
ジョゼットはお茶のお代わりを淹れてやりながら笑った。
「知り合いの差し入れなんだ。しかもとても可愛い貴婦人の手作りだよ」
それを聞いた男達はいっそう喜んだが、ジョゼットは心の中で(人妻だけどね)と付け加えていた。嬉しそうに食べる彼らを見るとリリアーヌの気持ちが分かったような気がしてきた。まだそれを見た事は無いが、彼女はいつも言っていた〝ギスラン様のお菓子を食べる姿が可愛らしい〟と―――
マティアスは資料室の扉の前で足を止めた。中が騒がしいからだ。どうしたのかと扉を開くとその扉はいつもより重く感じた。しかし開けた途端、清清しい風が吹きぬけたのだ。淡黄色の束ねた長い髪がその風に踊った。
(窓を開けている?資料は?)
何を考えているのかとマティアスは思い中を見れば、もっと驚いてしまった。
部下達が嬉しそうに笑って茶を飲んでいるからだ。いつも亡霊のようにしている彼らだったのに?その中心にいたのはやはりと言うかジョゼだった。
若草色の瞳を輝かせて、黄色いひな鳥のような色の頭が光りを弾いていた。そしてその笑顔はつられて微笑んでしまうように、人懐っこくとても楽しそうに笑うのだ。
マティアスは無意識に魅入ってしまっていた。最初の出会いから険悪だったから仕方が無いがジョゼはマティアスに対してあんな風に笑わない。しかし他の皆には笑顔の大盤振る舞いだった。マティアスから指示を受けている時は苦虫を潰したかのような顔をして、横から声がかかればそちらにだけ、にっこり笑いかけていた。マティアスはそれを見ると、無償に苛立つ感じがして自分でも何故なのか説明がつかなかった―――
それで今まさに苛立ってきたところだ。周りからは鉄仮面のマティアスとか囁かれるほど自分を律していた彼だが、このところそうなっていなかった。感情が表に出る事はまれだったのにジョゼと話しをすると剥きになっている自分がいた。子供なのだからと自分には言ってきかせるのだが成功しなかった。とても相性が悪いのだろうと最近では思うようになったぐらいだ。
「楽しそうですね。皆さん」
マティアスの冷ややかな声に、ぴたっと皆の笑い声が止まった。恐る恐る出入り口を見ればマティアスが腕を組んで立っていた。その冷たい瞳は細められ唇は冷笑を刻み、見るからに怒っている―――