ターゲット
「……眠い」
学校の昇降口に到着したタイミングで、仁はくわっと欠伸をした。
コスチュームのデザインが思ったより難航して、四時間ほどしか寝ていないのだ。
それでもコスチュームは完成していないので、授業中や昼休みにも進める必要があるだろう
「根を詰めるのは結構だけど、睡眠はちゃんと摂りなさいよね。戦ってる途中に寝落ちしたら目も当てられないわよ?」
呆れ顔で言うブランカだが、こればかりは完膚なきまでに正論だ。
かく言う彼女も、寝たのは仁と同じ時間帯だったはずだが、寝不足とは思えないくらい健康的である。
「あたしは三時間くらい寝れば充分なのよ」
「なんかズルいなそれ」
最低でも六時間は寝ないと調子がよくない仁としては羨ましい限りだ。
「人間と単純に比べてもね――」
靴箱に手をかけた瞬間、
「――っ」
ぴくりと、動きが止まった。
「どうかした?」
「別に。蠅が飛んでいただけよ」
ブランカはそう言いながら、靴箱を開けて、それに触れた手の平を見る。
まるでカッターで切ったような傷口から、血が流れていた。
「へえ……」
靴箱の裏にはカッターの刃がセロハンテープで貼り付けられていた。
明らかに人為的に取り付けられたものだ。
まあ、この程度の傷はどうということはない。
肉体自体は黛流歌の――つまりは人間のものだが、ブランカの一部が入っていることで再生能力は常人のそれを軽く上回る。
ブランカの手の傷は、あっと言う間に修復された。
仁に知らせるべきかという考えが一瞬頭をよぎったが、黛流歌の記憶を参照してそれは諦めた。
余計なことをする未来しか見えなかったからだ。
教室に入った瞬間、敵意を隠さないような視線がぶつけられる。
その中にはおそらく、カッターの刃を仕込んだ連中もいるだろう。
ここまであからさまだといっそ清々しいが、本当に殺したいのであれば、殺意は隠した方がいい。
「……」
それに気付いたのは自分だけではないらしく、仁も不審げに眉を潜めながら教室を見回している。
「どうしたの?」
すっとぼけて、そんな疑問を口にする。
「気のせいかな……結構空気が悪いなと思って」
腐っても元戦士と言うべきか、自分には向けられていないのにもかかわらず、仁はこの教室に存在する殺意を敏感に感じ取っていた。
「ま、いいんじゃない? 直接手を出してこない限りは問題ないでしょ」
「それはそうなんだけどさ……やっぱり、昨日のことがかなり影響してるみたいだ。なるべく、一人で行動するなよ」
「なんであんたに指図されなきゃいけないのよ。あたしがあんな奴らに後れをとるとでも思ってるワケ?」
「そういう意味じゃないんだけどな……」
「じゃあどんな意味なのよ」
「言うのはやめとく。キレそうだし」
「その言葉だけでギルティよ」
「お願いだからここで騒ぎを起こさないでくれ。自衛のためならやむをえないけど、それでもやり過ぎは絶対にNGだ」
「何度言うのよそれ。一度聞けば充分だっての」
どうやら仁は、自分の事を聞き分けのない奴だと思っているらしいが非常に心外だ。
聞きたくないことは聞かないだけである。
「でも妙ね。そこまであたし変なことした覚えがないのだけど」
「おまえの感覚からしたらそうかもしれないけど、端から見たら違うってことだよ」
「ふーん」
まあブランカからしたらどうでもいいことだ。
不躾な視線も、カッターの刃も、ロッカーの中で無残に切り刻まれた教科書達も。
授業はいつも通り特に問題無く――少なくともブランカにとっては――終了した。
教科書が切り刻まれて使い物にならなくなってはいたものの、内容は昨日のうちにすべて頭に入れてあるので問題はない。
一方仁は、授業中もこっそりコスチュームのデザインを描いたり、腕をつねったりして睡眠の誘惑に抗っていた。
たかだかコスチュームとやらを作るのにそこまで熱中することを、ブランカは正直理解できない。
仁の表情が妙に楽しげだったので、まあ彼にとっては娯楽になり得るのだろうと勝手に納得することにした。
そんな仁は現在チャイムが鳴るのと同時に限界を迎え、電源が切れたように夢の世界にいざなわれた。
「お腹空いたんですけど」
ぽつりと文句をこぼしてみたが、小声で言ったのとテレパシーを使わなかったこともあって、仁には届いていないようだった。
さっさと自分だけ食べてしまえば問題ないはずなのだが、そんな気分にはならない。
栄養摂取という観点から言えばなんら問題はないはずだが……
「いや、逆にこれは恩を売ってやるチャンスじゃない?」
購買で自分と仁の分の昼食を買ってやるのだ。
黛流歌の財布にはそれなりにまとまった額が入っていたので、これを活用すれば資金面は問題無い。
睡魔に蹂躙された仁の頭では、『昼の戦場』という異名が付けられた購買争奪戦の戦力にはならないだろう。
無論人間如きに後れを取るほどブランカは間抜けではない。
昼食を購入し凱旋すれば、仁に大きな恩が売れることは想像に難くない
これからの力関係をさらに盤石なものに出来るのだ。
「ふっ、我ながら完璧な作戦だわ」
清々しいまでに自画自賛しながら教室を出て、購買という名の戦場へ馳せ参じようとした矢先のことだった。
「ねえ」
振り向くと、そこには四人ほどの女子生徒が立っていた。
四人共制服を少し着崩して、派手めなメイクをしている。
「ちょっと、一緒に来てくれない?」
教室の外を顎で示す。
拒否権はないと言わんばかりの高圧的な声。
黛流歌の記憶から名前を探すが見つからない。
どうやら彼女にとっては、この連中はそこまで優先度が高くない存在だったらしい。
ちらりと教室の方を見る。
恐らく今から起こることは、彼が恐れていたことだろう。
「……」
であるならば話は簡単だ。
仁に気付かれないように、処理すればいい。
「黛さ、最近調子乗ってない?」
どうやらあっちはこちらの名前を覚えていたらしい。
嫌いな相手であれば名前を覚えるのすら嫌なはずだが、ご苦労なことである。
ブランカはそんなことを考えながら、周囲の状況を見渡す。
校舎の裏。
教師すらも寄りつかないこの場所は、彼女達がこれからするであろう事を考えればうってつけの場所だ。
「ホントホント」
「空気読めって話よねー」
「ありえないから、マジで」
ニヤニヤと薄っぺらい笑みを浮かべながら同調の声を上げる取り巻き達。
一番目に声を上げた女子生徒がリーダー格らしい。
リーダー格が何かを言って、取り巻きが同調する。
この群のお決まりのやり方らしい。
「急に髪染めるし、制服着崩すとか色気づいちゃってさあ。ヤッて垢抜けました~って? 草部とつるんでいい気になってんの?」
改めて自分の姿を見下ろす。
正直着崩しているのはお互い様だし、メイクは薄いどころか何もしていない。
仁と性行為はしていないし、そもそも黛流歌の体には他者と性行為をした痕跡はない。
もっと言ってしまえば、この国の美的感覚から言えば目の前の女子生徒達より、黛流歌の方が『美人』と認識されるはずなのだが――まあ、彼女達からしてみればそんな細かいことはどうだっていいのだろう。
教室は彼女達の縄張りであり、自分はそこを引っかき回した――という認識で問題ないだろう。
優劣の問題ではなく、自分より目立つ存在は気に入らないというのが本音と言うべきか。
彼女達が空気というのは中立中庸の産物ではなく、彼女達にとって都合のいいものにすぎない。
これらの正直な感想を口にするのならば、
「……あほくさ」
以外の何物でもない
「は?」
「なんであんたらに、合わせなくちゃなんないんだか。バカも休み休みいいなさいよ――劣等種の分際で」
ビキリ、と空間が凍り付いた。
「テメェ――!」
顔を滑稽なくらいに歪めて、胸ぐらを掴んで壁に押しつけた。
少しばかり衝撃を感じたが、そこまで痛みはない。
「少し立場ってのを教えてやるよ……!」
そして右手に握られたカッターを、ブランカにちらつかせる。
狩りの道具としてはお粗末にも程があるが、これはあくまで脅しの道具なのだろう。
が、ブランカの見下しきった態度に完全に頭に血が上っているので、もしかしたら使いかねない。
なんでもこの社会は、暴力を振るうと処罰されるらしい。
そのことを考えれば、彼女の行動は極めて非効率だ。
もっとも、効率だのなんだの考えたらこんなことをしようなんて考えは浮かばないんだろうけど。
しかしある意味この状況は、ブランカの望むところではある。
「――ハエって、いるわよね」
表情を変えずにブランカは言った。
「は……? なに、訳わかんないだけど」
「ぶんぶんと鬱陶しい虫共のことよ。けどあいつらのいいところは、うるさいだけで特に何もしてこないところ。あたしが蚊は潰すけど蠅は潰さないのはそれが理由」
靴箱にカッターを仕込もうが、教科書を切り刻もうが、ブランカにとっては少し煩わしいだけでどうということはなかった。
「……何、私達はハエ並だって言いたいの?」
「バッカじゃない? ハエと並び立とうなんて、自惚れも大概にしたら?」
ぶつんと何かが切れる音と共に、女子生徒はカッターを振り上げる。
狙いなんてろくに定めていない、ただただ感情にまかせた一撃。
それでいい。
お膳立ては全て整った。
ほくそ笑んだブランカは、体を回転させて女子生徒と位置を入れ替え、壁に叩き付け首を締め上げた。
「ぎっ――」
気管が圧迫され、肺に送られる呼吸が急激に減少したことでリーダー格の女子は苦悶に顔を歪めた。
「正当防衛、だっけ? 自分の危機を脱するために許される特別な措置――便利よね、この制度」
無茶苦茶にカッターナイフを振り回すが、あっさりと腕を受け止められ、捻り上げられる。
悲鳴と共に、ナイフが地面に落ちた。
「ちょ、何やってんのよ……!」
取り巻き達の顔も蒼白になる。
ようやく悟ったのだろう。
自分達は捕食者なのではなく、ただただ無力なだけの被食者であることに。
「ヤバいよ、死んじゃうよ!」
「どうすんの!?」
そうは言っているものの、実際に動いてブランカを止めようとする人間は一人もいない。
仁だったら間違いなく助けに入るはずなんだけど……と思いながら、口から錆のようなものが付着したカッターの刃を取り出した。
ひっと悲鳴が上がる。
彼女達にも見覚えのあるものだろう。
これは今朝、ブランカの靴箱に仕込まれていたカッターの刃だ。
「これ、一応返したほうがいいとおもうんだけど、どこがいい? 目、耳、鼻、口――それとももっと下の方、とか?」
嗜虐の色を帯びたブランカの瞳には、苦悶と恐怖に歪んだ女子生徒の顔が写り込んでいた。