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第四支部

痛みは教えてくれない

作者: 河原巽

初投稿です。よろしくお願いします。

 背後から肩にドン、と衝撃を受けたエレノアは半歩つんのめって壁に手を添えた。


 場所は王立警護団第四支部の団員詰所でのこと。

 王立と銘打っているだけあってその部屋はけして狭くはなく、また夕暮れ時で入れ替わる日勤者と夜勤者が複数人いるとは言え、身体が触れ合う程の混み具合ではない。

 この警護団に事務として勤めるエレノアは女性にしては上背のある方だけれど、あくまで他の女性と比較しての話であって肉体自慢の団員が詰めるこの場所では小さい方から数えた方が早い。

 だから彼女は低い位置から衝撃の原因を見上げた。


「チッ」


 追い越し際に舌打ちを吐き捨てた男はエレノアの視線に冷たい一瞥だけを返すと長い足で扉へ向かっていく。パリッと音がしそうな制服を着ているところを見ると、彼はどうやら夜勤組でこれから警らに向かうらしい。

 黒がところどころ混じった灰色の後頭部を見送りながら、少なくとも彼と三日後までは顔を合わせることはなさそうだ、と安堵しながらぶつかった肩を軽く撫でた。



--------------------------------------------



 事の起こりは四ヶ月前だった。

 王都に構える王立警護団は王城内の警備から要人の警護、犯罪の取り締まりまで仕事が多岐にわたる。いくつかに分かれた支部によって請け負う仕事が割り振られており、エレノアの所属する第四支部では王都城下の治安維持が主な担当となっている。

 一方、王都から離れた有力貴族の治める領地では地方支部という名の警護団が各地で結成されており、領主の警護に領内の警ら、領地を跨ぐ街道の監視まで一つの支部で一手に請け負っているらしい。

 人の集まる王都とは違い、少数精鋭での組織活動では必然的に優秀な人材が育ちやすく、王都を守る数字付きの支部長たちは度々勧誘をしに地方へ足を伸ばしていた。優秀者を皆引き抜いてしまうと地方の安全が脅かされることになる。熟考に熟考を重ねた結果、選ばれた灰色髪の彼――マグラ・イレンも第四支部長の誘いを受けて、ここ王都へやってきたのだ。



(勧誘者の受け入れを見るのは初めてだわ)


 その日、エレノアは微かに浮き立つ気持ちを自覚していた。

 警護団で要職に就いていた祖父に連なる縁で伯爵家三女でありながら第四支部に入団したのが十八歳になったばかりの二年前のこと。他の支部で勧誘者を受け入れた話は聞いたことがあるし、第四支部の先輩団員には勧誘によって地方から異動してきた者もいるが、エレノアが入団してからの勧誘者受け入れは初めてのことだった。


(せっかくだから仲良くなれるといいのだけど)


 現場に出る団員同士の結束はもちろんのことだが、事務として彼らに関わる自分だって円滑な人間関係を築いておくに越したことはない。地方と王都では色々と勝手が違うかもしれない。僅かばかりでもサポート出来れば、そんなことを考えながら他の団員たちと共に支部長と新入りの入室を詰所で待ちわびた。



「彼がエンフォ地方から来てくれたマグラ・イレンくんだ」


 背後に控える新人の姿がよく見えるように支部長がスッと身を引く。

 一際大柄な支部長の影から現れたのは警護団員にしてはやや細身の男だった。その髪は暗めの灰色で筋を描くように黒色が混じっていて、耳やうなじがすっきり見える長さに刈られている。


「よろしくお願いします」


 軽く一礼しながら発された声は大きすぎないのによく通った。顔を上げたマグラはサッと周囲を見渡すと、もう挨拶は終わったとばかりに支部長に視線を送る。そんな様子に苦笑を漏らした支部長が言葉を継いだ。


「彼には今日、俺がルートの案内をするから各々の自己紹介は後日現場でやってくれ。夜勤組や休暇組にもそう通達しておく。マグラは体術を得意としているから武器を携帯しないのでそれも覚えておいて欲しい。それとエレノア」

「はい」


 不意に呼び掛けられて驚きつつも前方に立つ団員の脇から顔を出して返答する。


「お前は現場に出ないからな、ここでちゃんと紹介しておこう。他の者は解散。持ち場に当たってくれ」


 散り散りになる団員を横目にエレノアは支部長の前に静々と歩み出た。支部長に並び立つマグラの体躯は遠目から見ると細身だったが、やはり近付くと背丈もあって圧迫感を覚える。


「マグラ、彼女は第四支部(ここ)で事務をしているエレノア・ザキーラだ。現場には出ないがスケジュール管理や住民との橋渡し役をしてくれているから何かと接点も多いだろう。頼ってやってくれ」

「初めまして、エレノア・ザキーラと申します。他に事務補佐もいますが大きな取りまとめは私がしておりますので、これからお世話になると思います。よろしくお願いします」


 ここでエレノアは初めてマグラと視線をかち合わせた。

 新しい職場で不安な気持ちを払拭出来るように、今後に向けて良好な人間関係が育めるように、同僚として頼れる存在として認めてもらえるように。諸々の気持ちを存分に込めて穏やかな笑みで挨拶を述べたつもりだった。

 しかし、マグラ・イレンその人は盛大な皺を眉間に刻んでいた。


 エレノアの印象としてはマグラは端正かつ怜悧な顔の持ち主だった。少し吊り上がった切れ長の瞳は冷たさもあるが理知的に物事を見据えているようで、挨拶を発した以外は引き結ばれたままだった口元も雄弁を良しとしない思慮深さを感じる。

 なのにエレノアが挨拶を始めた途端に訝しげな色が瞳に宿り、微笑みかけるその様を珍獣でも見るかのような胡乱な眼差しで返してくる。


(何か……変なことでも言ってしまったのかしら)


 ごくごく普通の自己紹介をしたつもりだった。後輩団員が入団したときにも似たようなことを言ったはずだが、こんな反応を返されたことはない。円滑な人間関係が一歩遠のいたような感覚に(にわか)に焦りを覚えたとき。


「……どうも」


 やはりよく通る声が小さく言葉を発した。

 けれどその顔はまるでそっぽを向いていて、綺麗な横顔の僅かにツンとした唇が会話をさっさと終わらせたいと言わんばかりだった。

 伯爵令嬢としても王立警護団の団員としてもあまり取られたことのない態度に半ば呆然と立ち尽くしてしまう。


「まぁ、そういうことだからよろしく頼むな、二人とも」


 良い雰囲気とは言い難い応酬を一部始終見ていたはずの支部長が締めくくり、釈然としない顔合わせは幕を閉じた。



--------------------------------------------



 エレノアにとって愕然とする出来事が起こったのは例の顔合わせから僅か四日後のことだった。

 事務作業を引き受けるエレノアは主に詰所での勤めとなるが、城下の安全維持を担う第四支部団員は現場で警らに当たる者と詰所で待機する者とが日毎に割り当てられている。彼らには日勤と夜勤もあるので日中の詰所にいるエレノアとはそう毎日顔を合わせるものでもない。

 地方支部から異動したばかりのマグラは規定ルートを覚え込むために城下の警らを立て続けに行っていたようだが、その日は詰所待機を命じられたらしく、顔合わせぶりに対面した。

 いや、対面したと言って良いのだろうか。


 ドン、と後ろからを肩の辺りを押されたような気がした。


 突然の感覚に弾みで手にしていた冊子を床に取り落とす。エレノア自身も衝撃でよたよたとたたらを踏み、危うく冊子に足跡を付けてしまうところだった。

 元凶を確認するために肩越しに振り返ってみれば、ほんの数日前に知り合ったばかりの男が立っていて、逆光で影の差した顔で見下ろしている。その視線はとても冷たかった。


「邪魔」


 投げ付けられた言葉にも温度は感じられないようだった。


「ご、ごめんなさい」


 思わず謝罪を口にしたエレノアだけれども、ふと周囲を見渡して思う。

 ここは彼女の本営とも言えるべき場所で、たった今も一段落した仕事の資料を片付けるために席を立っただけだ。他に待機している団員はいるがエレノアの机周りに人はいないので別段混雑しているわけでもない。なぜ自分が責められなければならないのか、と理不尽に思ってしまう。


「邪魔をしたことは謝りますけど、ぶつかることはないんじゃないかしら?」


 なので率直に意見を述べてみた。述べてみたのだが。


「邪魔なものは邪魔」


 もう用はないと言わんばかりに踵を返したマグラは訓練場に繋がる扉へ向けて去っていく。そんな二人のやり取りを武器の手入れをしている待機中の団員たちが不可思議な顔をして見守っていたのだが、あまりの言い草に思考力が抜け落ちたエレノアにはそれすらも気付けなかった。


「何なの……」


 思わず零れた言葉をこれから先も幾度と呟くことになるとは、このときの彼女は知る由もない。




--------------------------------------------



「本当に何なのかしら」


 日勤者と夜勤者の入れ替わりも落ち着きを見せたのでエレノア自身も帰り支度を整えて馬車止まりに向かう。伯爵家の送迎馬車に乗り込むと思わず愚痴めいた独り言を吐いてしまった。

 彼――マグラ・イレンが入団してからこの四ヶ月、このような感情の吐露を幾度したことか。


 初めて「邪魔」と(そし)られたあの日からマグラの仕打ちは何度も繰り返されている。本当にもう数え切れないくらいに。

 最初の頃は気を付けて欲しいとお願いしたりもしたのだがまるで聞く耳を持たれなかった。気付けば背後から腕や肩を弾くようにぶつかってくる。幸いなことに転倒して怪我をするとまでは行かないものの、大柄な男性に当たればそれなりの衝撃は来る。そして毎回のように冷たく睥睨されて、時には「鬱陶しい」だの「邪魔」だのと言葉で仕留めてくるのだ。

 そんな行為が繰り返されれば言っても無駄なのだと悟ってしまう。


 ふとエレノアは、マグラは空間把握能力が乏しいのではないかと思い始めた。

 自分の体格と近くの物や人に対しての距離を上手く掴めないのではないか、と。そうであれば彼が接近してくる前にこちらが予測して回避するという対処法が取れる。ぶつかられるたびにムッとする気持ちも抱かなくて済むかもしれない。けれどエレノアの見込みは甘かった。


 こっそりと彼の行動を観察してみたのだが他の誰かにぶつかる姿を一度として見ることが出来なかったのだ。詰所待機の団員たちに聞き取りをしてもぶつかられたことはないと否定もされた。

 そもそも彼は体術が得意だと支部長は言っていた。空間把握能力に乏しい人間が接近戦を得意と出来るわけがない。

 と、なれば。


(どうしてこんなに嫌われているのかしら)


 揺れる馬車にゆらゆら身を任せ、ぼんやりと考える。

 顔合わせのあのときからマグラのエレノアに対する印象が悪いのはわかっている。しかし理由がわからない。令嬢として教育も受けているのだし、挨拶に問題もなかったと自負しているからこそ、心当たりが浮かんでこないのだ。


(こんな考え方が傲慢に見えるのかもしれないわね)


 自分に非がないだなんて一方的な言い分だ。マグラにはマグラの主張があるに違いない。

 でも、けれど。


(せっかくなら仲良くなりたかったわ)


 エレノアはこの仕事が大好きだった。

 かつて要職に就いていた祖父の市民から慕われ尊敬される姿はエレノアにとって大きな自慢であり、強い憧れの的でもあった。彼の部下と社交界で知り合ったのをきっかけに第四支部入団への話がとんとんと進み、祖父に笑顔で送り出されたのも嬉しい思い出だ。

 実際に治安維持のために動けるわけではないけれど、国を守る任務に携われることは自身の誇りであり、生き甲斐でもある。だからこそ大切な仕事仲間とはお互いに居心地の良い関係を保ちたかったのに。


 速度を落とした馬車が屋敷前に辿り着く。御者のエスコートで馬車から降り立つと玄関前の小さな人影がこちらに駆けてきた。


「おかえりなさい、姉さま!」

「ただいま、アデル」


 八つになったばかりの小さな腕が伸びてきたので受け止めるように抱きしめ返す。この小さな可愛い弟がいるおかげで伯爵家の三女でありながらも警護団での仕事が許された。ゆくゆくは領地を治めるこの弟を守ることにも繋がっていると信じて日々の仕事に打ち込んでいる。


「姉さま、元気ない?」


 くりくりの青い瞳が真っ直ぐに見つめてくる。赤色がかった金髪も深海を思わせる濃いめの瞳も、エレノアとアデルはそっくりそのまま父から受け継いでいる。


「大丈夫よ。明日のお出掛けが楽しみね」


 せっかくの休日をアデルと約束しているので落ち込んだ姿は見せられない。

 約束のことを思い出したのか、照れ笑いを浮かべる幼い弟の手を引いて屋敷に入る。結論の出ない人間関係はちょっとだけ棚上げすることにした。



--------------------------------------------



 「姉さま、次は図鑑が見たい!」


 グイグイと腕を引っ張るアデルの笑顔が晴れ渡る青空の下で眩しく輝く。愛しい弟に請われて今日は街歩きをしている。

 伯爵家の跡取りとして小さいながらも令息然とした衣装を纏うアデルとは違い、エレノアは乗馬服に身を包んでいる。二年前までは街歩きにもドレスを着て回ったものだが、警護団に入団してからは身に付けるものへの意識が変わった。

 時折上がってくる城下内での事件報告書には女性が巻き込まれた事件も多数含まれているのだが、それを読むに緊急時のドレスは致命的であるということ。いざ避難しようとしても身動きが取りづらく、物音を立てやすい。豪奢なレースやリボンが何かに引っ掛かり行動を阻害されることもあれば、ボンネットやハットは視界を悪くする。宝石をふんだんに使った装飾品を奪うために直接狙われることさえある。

 淑やかさを求められる令嬢には必要な諸々も身の危険には代えられない。事件解決のために尽力している団員を間近で見ていると自らを守ることは周囲を守ることにも繋がると考えるようになったのだ。


「姉さま早く早く」

「そんなに急がなくても大丈夫よ」


 駆け出したいと言わんばかりに忙しなく動く弟の付き添いとしては乗馬服の動きやすさは大正解のようだ。

 入団当時のエレノアの様変わりっぷりに家族も屋敷の使用人も、御用達の従業員たちも驚きを見せていた記憶が蘇る。背後に控える護衛たちには「行動が把握しやすくて助かります」と言われたっけ。

 思い出し笑いに頬を緩めていると前方に見慣れた人影を発見した。


「エレノア? こんなところで奇遇だな」

「こんにちは、ルークさん」


 人懐こい笑みで挨拶を投げてきたのは第四支部の先輩団員であるルークだった。制服姿ということは警ら中に出くわしたのだろう。


「可愛い紳士にエスコートされてるじゃないか」

「弟のアデルです。アデル、こちらは姉さまのお仕事仲間のルークさんよ」


 警護団員は基本的に体格が良い。姉よりも高い位置から見下されたアデルはもじもじとエレノアの片腕にしがみつく。それでも伯爵家の教育の賜物か、きちんと挨拶は返すようだ。


「……アデル・ザキーラです。姉さまのおとうとです……」


 それはとても小さい声だったけれども。

 フッと相好を崩したルークがエレノアに視線を戻す。


「仲が良いんだな」

「年が離れているせいか、余計に可愛くて仕方がないんです」

「あぁ、その気持ちはわからんでもない。にしたって随分ベッタリって感じだが」

「男の子なら今くらいの歳だけだと思うので、逆に私も甘えてしまって」

「あぁ、うん。まぁそうか。そっか、なるほどなぁ……」


 空いた手でアデルの頭を撫でるエレノアを見つめるルークが得心したように何度も頷いている。しかし何かを思い出したようにハッと表情を塗り替えた。


「そうだ、エレノア。伝えておくことがある。実は今日のことなんだが――」

「あっ」


 真面目な口ぶりで話し始めたルークの言葉を遮ってしまったのはエレノアの発した声だった。思いがけないものを見てしまったせいで勝手に漏れ出てしまった。

 彼女の視線が自分を通り越していることに気付いたルークが背後を検めると、太陽に照らされて銀色かと思わせるような髪の持ち主が静かに歩み寄ってきた。


「おう、マグラも合流か」


 別段驚いた様子もなく迎え入れるルークの脇に立つマグラは眩しそうに顔を歪めていた。そんな彼を見てエレノアは違和感を覚える。


(夜勤だったマグラさんがどうしてここに?)


 昼どきを過ぎた現時刻だと彼の勤務時間は過ぎているはずだ。にも関わらず、昨晩見たときと同じく制服を纏っている。

 と、新たな大男の登場に驚いたのか、腕にしがみつくアデルの力がキュッと強さを増した。


「アデル、こちらもお仕事仲間のマグラさんよ」

「……こんにちは」


 安心させるために紹介してみても益々か細い声になったアデルはしがみついた姉の影に潜むように身動ぐ。そんな姉弟の様子をマグラは訝しげに観察している。この四ヶ月でとっくに見慣れた顔だ。

 

「……似ているな」

「えっ?」

「それと」

「それ?」


 思わず返答したエレノアだが、内心はとても驚いていた。業務以外で掛けられる言葉は「邪魔」を筆頭とした辛辣なものばかりだし、彼から会話のきっかけを作ることがあるだなんて予想もしていなかった。


「髪と、目と、顔が似ている」

「あ、弟とですか?」

「弟?」

「はい、弟のアデルです」

「血の繋がらない?」

「いえ、繋がっています。似ていると仰ったじゃないですか」


 要領の得ない問いに真面目に返すとマグラは何とも言い難い表情で小さく「弟か」と呟いた。

 家族や知人にはよく似た姉弟だと言われることがある。どこかおかしいところでもあったかしら、と隠れるアデルの顔を覗き込むと、彼はマグラをじっと見つめていた。そしてハッと我に返るとエレノアの腕を下に引き下ろす。話したいことがあるから耳を貸して、の合図だ。


「どうしたの?」

「姉さま、焼き菓子を買いたいです。今日はマルカスのお誕生日なんです」


 マルカスはザキーラ家に長く勤めてくれている執事の名前だ。どうして今その話を、と一瞬疑問が浮かんだが答えはアデルの視線にあった。元々黒髪だったらしい壮年のマルカスは今ではふんわりと優しい灰色の髪の持ち主だ。マグラを見て思い出したのだろう。


「じゃあ忘れないうちに先に買いに行きましょうか」


 心優しい弟にそう返して同僚たちに別れを告げようとしたが、ルークから待ったが掛かる。


「待ってくれ、エレノア。伝えておきたいことがある」

「はい、何でしょう?」

「今朝入った情報だがリンゼイ領で窃盗に関わったとされる行商団の連中が王都で目撃されている。ただの物盗りじゃなく、重傷者も出た物騒なやつだ。不審な者には近寄らず、極力人通りの少ない場所は避けてくれ」


 聞き捨てならない重要な話だった。特に第四支部に所属する人間にとっては市民の安全が脅かされる由々しき問題だ。


(だからマグラさんも勤務明けなのに警らを?)


 早期解決のために非番となるはずの時間を捜索に当てているのだろう。合点がいった。そうとなれば立ち話で時間を浪費させて任務の邪魔をしてはならない。


「ご忠告ありがとうございます。大通りを使って早めの帰宅を心掛けます」

「あぁ、そうしてくれ。悪いな、せっかく姉さまとお出掛けしてたのにな」


 姉の影でふるふると首を振る弟への気遣いがありがたい。


「ルークさんもどうかお気を付けて。マグラさんも夜勤明けですから無理なさらないで下さい」


 ずっとこちらを観察していたらしいマグラはエレノアの視線を受けると、フンと強い一息を鼻から吐いた。しかし何かを言うわけでもなさそうなので愛想笑いだけ返しておく。


「焼き菓子なら隣の通りの新作が美味いらしいぞ」


 耳を寄せたはずの内緒話は筒抜けだったらしい。有益な情報にもう一度「ありがとうございます」と礼を述べて同僚たちに背を向ける。


(現場に出る団員方には頭の下がる思いだわ)


 昼夜問わず、休日でさえ返上して任務に取り組む彼らに改めて尊敬の念を抱いているとアデルの張り付く腕とは逆の半身にトン、と何かが触れた気がした。思わず仰ぎ見る。


「鈍い」

「えっ」


 ちらりと尻目で見下ろし、余計な一言を残したマグラは長い足でエレノアたちを追い越して行った。その後を「全くあいつは」とぼやいて追い掛けるルーク。


「……そちらが避ければいいじゃない」


 弟に悟られないように口の中だけでぼやく。


(本当に何なのかしら、あの人)


 仕事に関する面では尊敬出来るけれど普段の素行にはやはり首を傾げざるを得ない。そもそも会話らしい会話を交わしたのが初めてのことなので、エレノアの知る彼の「普段の素行」はごくごく小さな範囲でのことだけど。


(待って、あれは会話と言っていいもの?)


 どうもマグラに関わると釈然としない気持ちになってしまう。首をひねりながら足を動かしているとルークが教えてくれた店まではあっという間だった。

 件の焼き菓子以外にも多数の品揃えを誇るその店はまるで宝石箱のようで、はしゃぐ気持ちを抑えられない姉弟は執事と両親へのお土産を顔を寄せ合って選びぬき、そして早々に帰路を目指した。


 購入した菓子を左手に、右手にアデルの手を引いて馬車止まりまでの道を歩く。乗合馬車の発着場が大きな通りの至るところに設けられているのに対して、貴族所有の大型馬車は特定の広場に停める必要がある。まだ街歩きに慣れず、きょろきょろと周囲を窺うアデルは、見慣れた馬車を見つけてようやく安堵の色を見せた。


 荷物を携えたエレノアに気付いた御者が素早いこなしで馬車の扉を開き、アデルにエスコートの手を差し伸べる。小さな影が車内に収まり、エレノアも続こうとしたそのときだった。


 急な圧迫感が腹部を襲ったかと思えば全身が後ろに引っ張られる。


「護衛と使用人は無視だ、ガキごと持っていけ!」


 乱暴な言葉が耳を通り抜けた次の瞬間、エレノアの身体に衝撃と痛みが駆け抜けた。思わず瞑ってしまった目を開けて、ようやく自分が投げ倒されたことを理解する。

 何が、誰が、と考える余裕もなかった。

 弟が、アデルの身が危ない。


「アデル!!」


 上体を起こしたエレノアの視界に飛び込んだのは、御者とも護衛とも違う見知らぬなりをした男たちがザキーラ家の馬車に乗り込もうとしている姿だった。

 なりふり構わず、手近な男の上着を掴む。


「誰か……!!」


 引き攣りそうな喉から声を絞り出したと同時に襟首を掴まれる感触があった。それ以上の言葉を発することも出来ず、再び地面に叩きつけられたエレノアの意識は暗い闇に落ちていった。



--------------------------------------------



 カツカツと音が聞こえる。

 乱雑に入り乱れるその音は……複数の靴音だろうか?

 揺蕩う意識の中では確信を持てず、ただ騒がしいなとだけ思うことにした。


 身体が痛い気がする。

 動かしているわけでもないのにそこかしこにジンジンと疼くような痛みがある。

 いや、身体だけではない。顔も痛い。

 頬と額だろうか、そちらはピリピリとひりつく痛み。


 その頬にザラリとした感触が撫で付けられた。ただでさえ痛いのに使い古しの毛羽立った布で拭われているかのような感覚だ。


(やめて、余計に痛いわ……)


 警護団に入団するまでは使い古した布の感触なんて知ることもなかった。訓練好きの先輩団員が頻繁に使い回している手拭いは洗濯しすぎてゴワゴワになっていた。その感触が好きだと言っていたっけ。

 ぼんやりした思考を咎めるかのようにザラついた感触は頬を行き来する。


「痛いの……」


 苦痛を訴えたはずなのにザラザラな感触は勢いを増した。嫌がらせなのか。


「いや、痛い……」

「エレノア、エレノア」


 名前を呼ばれた。知り合いのようだ。ならば尚更聞き入れて欲しい。

 頬を拭うものを取り払いたくて腕を伸ばしたらツルツルと滑らかな感触が掌を滑る。思っていた感触と違っていたが遠ざけようと掴んだら、一層強く擦られる。


(もう、痛いと言っているのに!)


「止めて!」


 沸き起こる苛立ちが意識を覚醒させたのか、勢いのままに目を開くとまず飛び込んだのは黒混じりの灰色。エレノアの手が掴むのも同色の――これは、なに?


「え、マグラさん?」

「エレノア」


 スイと顔をずらしてマグラが覗き込んでくる。その距離の近さと言ったら鼻と鼻が触れんばかりで、ガチンとエレノアの身体は硬直する。


「傷が痛む?」

「傷? あの、さっきから頬が痛くて」

「可哀想に。擦り傷が出来てる」


 一瞬痛ましげな表情を浮かべたマグラは顔を傾けるとエレノアの頬をぺろりとひと舐めした。その痛みを増幅させるような感触。


「えっ、ちょ、ちょっと。ど、どうして舐めていらっしゃるのでしょう」

「消毒しなくちゃいけない」

「消毒……消毒?」


(傷の消毒とは本来薬品を用いるものでは?)


 エレノアの持ち合わせる常識との食い違いに疑問符が点滅する中、手に掴んだままの灰色の何かがピクリと動いた。思わず手放すと頭部に生えた三角形のそれがピクピクと小さく震える。


「マグラさん、もしかして……?」


 耳から離れた手にするりと何かが絡みついて視線を移す。縞模様の尻尾だった。


「猫、の獣人、ですか?」

「そうだ」


 まさか彼が獣人だったとは。本人から聞いたこともなければ支部長からの説明もない。この四ヶ月で一片たりとも気付かなかった事実にエレノアは内心で大きな衝撃を受ける。


 いや、だからと言って舐めて消毒とは?

 先程からザラザラと頬を行き交いしていたのは、もしかしなくても彼の舌?

 飛び込んでくる情報が何ひとつとして理解出来ず、まじまじとマグラの顔を見つめていたら、今度は額を舐められて思わず肩が弾んでしまった。


「大丈夫だ。弟も使用人も無事だし、今しがた犯人は一人残らず捕縛が終わった」


 穏やかな顔で述べられた言葉を反芻して我に返る。言葉通りならもう危険は取り払われて大事はないようだけど、エレノアの記憶はアデルの乗る馬車に不審者たちが押し入ろうとするところで途切れている。

 そこでようやく視線を周囲に巡らせて――複数の靴音が第四支部の警護団員たちのものであること、事件現場からほんの僅か壁際に寄せたところで上体をマグラに預けた姿で覚醒したこと、衆人環視の下で頬を執拗に舐められていたようだということを知ってしまう。

 もう一度気を失いたかった。



--------------------------------------------



「姉さま! 姉さまっ!!」


 訪れた部屋でエレノアの姿を確認したアデルがぎゅうぎゅうと腰に抱きついてくる。さぞ怖い思いをさせたのだろう、と眦に涙を湛える姿に胸が痛くなる。

 事件現場にほど近い治療院の応接間でアデルと再会出来た。エレノアが訪れるまでルークが付き添ってくれていたようで、事情を説明するからと勧められた長椅子に腰を下ろすとアデルが隣に張り付くように腰掛ける。

 そして何故か、反対隣にはマグラが腰を据えた。対面に座るルークの横が空いているにも関わらず、アデルのようにピッタリと真横に。

 エレノアにとっては思わず隣を二度見してしまうほどの事態だったのだが、ルークは構わずに事の経緯を教えてくれた。



 ザキーラ家の馬車を襲ったのは事前に教えられていた、窃盗を犯した行商たちだった。リンゼイ領での戦果を王都で捌こうとした彼らだったが、職業柄顔が割れているためにお尋ね者として追われていることを知り、貴族の馬車を盗んで王都を脱出しようと目論んだらしい。そこで街歩きをしていたアデルに目を付けられてしまった。


「エレノアはその格好のせいで護衛の一人だと思われたみたいだな」


 あわよくば身代金も要求出来る、そんな浅はかな考えで貴族令息と思しきアデルごと馬車を盗もうとしたが、常に寄り添う乗馬服の女が邪魔になった、ということなのだろう。アデルから引き離され、投げ飛ばされる結果となった。


「奴ら、焦ってたんだ。事を急いて武器を使われずに済んだのは幸運だった」


 捕縛した犯人への聴取で、犯行団はリンゼイ領から王都までの道のりで名の通った商会の大型荷馬車も奪取したことが明らかになっている。その際にも御者が斬り付けられて怪我を負ったというから、エレノアの軽傷――地面に打ち付けられて出来た顔の擦り傷と打ち身で済んだのは確かに幸運と言える。

 あの広場に停めた大型荷馬車から貴族家の馬車へ乗り換えて逃走するには時間の勝負で、犯人側からすれば成功も目前だったのだろうが。


「私は途中で気を失ってしまったのですが、どのような経緯で捕縛に?」


 アデルには傷ひとつなく、御者も護衛も殴られたり倒されたりはあったものの、大きな怪我には繋がっていない。ザキーラ家の馬車は広場から動かされてすらいなかった。


「マグラがすっ飛んでいった」

「え?」

「弟の名を叫んだのが聞こえた。現場に着いたらエレノアが地面に伏せたところだった」


 真横を仰げば不機嫌そうに顰めた顔でマグラはそう言った。彼の頭上にはピンと立った三角耳。


「救援を呼んで駆け付けた頃には全員伸びてたよ。こいつすばしっこいからな」

「あの、ルークさんはご存知だったんですか?」

「ん、何をだ?」

「マグラさんがその、獣人と」

「支部のみんな知ってると思うが」


 あっけらかんとした回答に喉がひくりと震えた気がした。


「私、は、存じませんでし、た」


 唯一、自分だけが知らされなかったのだろうか。彼の本質に触れる部分を。


(現場に出ないから……知らせる必要はないと思われたのかもしれないけれど)


 しかしエレノアの下に就く事務補佐たちも知っているというのならば、立場による分別でないことは明らかだ。日頃の彼の態度を鑑みれば導き出される答えは自ずと見えてくる。


「問題があるか?」


 沈みかけた思考を断ち切ったのはマグラ本人だった。見上げたその瞳は真剣味を帯びて、じっとりとエレノアを見据えている。


「俺が獣人でエレノアに問題はあるか?」

「いえ、ありませんが……」

「そうか、ならいい」


 コクリとひとつ頷いてみせた彼は微かに口元を緩めていた。そんな表情を見るのも、当たり前のように名前を呼ばれるのも、腕の触れ合う位置に座るのも初めてのことで、頭に浮かびかけた仄暗い感情が勘違いなのかと混乱する。

 エレノアの腹部に縞模様の尻尾がするりと滑り、腰を抱くように巻き付いた。


「腹に触れたやつには厳罰を与えておくから」

「いや、お前にそんな権限はないからな」

「エレノアを引き倒したやつもぶん殴っておく」

「待て、私刑は処分対象だぞ」


 不穏な言葉が頭上を飛び交う中、撫でさするように腹を上下する尻尾は意思を持ったかのような動きだ。思わず目を奪われるエレノアの隣でアデルもまた好奇心に満ちた視線でその動きを追い掛けていた。


「お前たち、近くないか」


 灰色の頭が眼前に迫る。同じ言葉をそっくりそのままお返ししたかった。


「いつもいつもその匂いだ」

「匂い?」

「弟とまた密着しただろう? 顔を寄せたりとか」

「顔、ですか。お買い物の最中にしたかしら?」


 アデルに尋ねると素直に首肯された。


「弟だから許すけど。他の男の匂いは必要ないから」


 ツンとそっぽを向くくせに、絡み付く尻尾を引っ込める気配は感じられない。

 救いの眼差しをルークに送れば、笑いを噛み殺して教えてくれた。


「相手が弟で良かったよ」


 かつて彼が抱いた怒りの矛先とその払拭方法。


「力加減ってもんをわかってないんだよなぁ」


 強けりゃいいってわけじゃないんだよ、とケラケラ笑うルークをマグラが唸って睨み付けたのは言うまでもない。



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 事件に巻き込まれてしまったエレノアは自身が負傷したこと、また幼い弟の精神面を考慮して一週間の休暇を与えられた。打ち付けた身体の痛みに動きがぎこちなく、顔の傷も少々酷かったのでこれ幸いと上層部の判断に甘えることにした。顔の傷に関しては薬を塗る前に激しく舐められたせいで余計に酷くなったのでは、とエレノアはこっそり疑っているけれど。


 そうして迎えた休暇明け、詰所で顔を合わせた支部長は困りきった顔だった。


「補佐の手だけじゃ追い付かなくてな。悪いが報告書と嘆願書が溜まってしまってるんだ」


 なるほど、これは急がなければと思わせる量だった。託された紙束を抱えて自分の執務机に戻ろうとしたそのとき、突然背後から影が差した。確信を持ってそっと肩越しに振り返ると眉を顰めたマグラが見下ろしている。エレノアはじっと息を潜めて彼の挙動を見守ることにした。

 音もなくエレノアの右頬に顔を寄せたマグラはスンと鼻を鳴らして更に眉根を歪める。出勤前にアデルに「いってらっしゃい」としがみつかれたのはこちら側だっただろうか。

 大きな一歩で反対側に立ってスンスンと二度鼻を鳴らした彼は、今度は満足気な頷きを見せ、ついでとばかりにかさぶたの残る頬をザラリと舐め上げた。


「ひっ」

「邪魔」

「でも、弟なので」

「弟だから許してるんだ」


 恩着せがましい物言いをする彼の尻尾は、エレノアの半身をゆったりと這って行く。これがルークの言うところの匂いの上書きというものなんだろう。


(直接触られているわけではないけど、こういうのっていいのかしら……?)


 手段が変わったとは言え、なんだかんだで彼のペースに引き込まれて好き勝手にされてしまっている。

 眉尻を下げるエレノアとは裏腹に、吊り気味の瞳を細めたマグラは獣人の特徴を瞬時に引っ込めると扉に向けて歩き出した。


「じゃあ行ってくる。他の男は必要ないからな」


 聞こえよがしに何を言ってるんだろう、彼は。

 この先何度も――ずっとずっと先の未来でも繰り返されるその言葉を、やっぱり今日のエレノアも思わずにはいられなかった。


(もう、何なの)



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