一章 冷たい百合
店内はゆったりとした音楽が流れている。ボサノヴァの類だろう。
バーテンダーに促されるままカウンター席に座る。バーテンダーは長髪のブロンドで、優しそうな雰囲気を出している。もう1人のショートのブロンドはフロア担当のようだ。
「この店は初めて……ですよね」
バーテンダーの声は優しく、しっとりとしている。このお店に合った声だ。ノイシーは少々気まずそうに、バーテンダーに質問する。
「あの、このお店って、高いですか……?」
バーテンダーは少しの間を置いた後、
「この店はチャージ料と飲み物を必ず一杯は頼んでもらうのですが……」
とノイシーに伝えた。
「あぁー……このお店ってカード払いできますかね……?」
「はい、カード払いできますよ。それで、お飲み物は何にしますか?」
バーテンダーは微笑んでくれたが、ノイシーはバツが悪そうな顔をしている。
「あのぉ……すいません……手持ちが少なくて……」
「それなら、お手軽なお飲み物にしますか?」
「あ、はい、それでお願いします」
物言いは優しかったが、ノイシーは気が気でなかった。
(残高無かったらどうしよう……最悪、ジャパニーズドゲザを見せるか……?前にマンガで見た。いやそうじゃなくて、チャージ料とも言ってたよね……それとチップも加算するし……あぁ……どうしよう……)
やきもきしている間に、お酒が目の前に来た。コークハイだ。
「キューバ・リブレです」
(え、コークハイじゃないの?)
ふとした疑問を抱いたが、目の前には結露で汗ばんでいるグラスがある。冷たいうちに飲まなければお酒にも失礼だろう。そう思い、グラスを口につけ、ゆっくりと傾ける。
爽やかな香りが鼻に抜ける。とても飲みやすいカクテルだ。あっという間にグラスの半分まで飲んでしまう。
「おいし……」
バーテンダーがこちらを見て微笑んでいる。気づかぬ間に声が漏れていたらしい。気づかなければ良かったが、ノイシーはすこし恥ずかしくなってしまった。
(美味しいな……このお酒……)
ノイシーは元から酒は好きなのだ。ただ、好きというだけなのだ。それを仕事にしようとは思っていない。
(仕事見つかったら、また来ようかな……)
「美味しく飲んでくれると、バーテンダー冥利に尽きるものですよ」
バーテンダーが微笑みながら語りかけてきた。
酒を飲む度に、好きなことでお金を稼ぎたいと思うようになる。肩肘を張っていたのが、だんだん柔らかくなったみたいだ。しかし、好きなことといっても、酒を飲むとか、クラブで馬鹿になるとか、碌でもないことが好きなことなのだ。そんなことで金なんか稼げるわけがない。諦めかけていたところ、バーテンダーがこちらを見ているのに気づいた。
「何かお悩みでも?」
素直に言おうかどうか迷った。言ったところで、一笑に付されるのが関の山だ。しかし、言わないのも気持ちが悪い。ノイシーは、一時の恥を選んだ。
「あの……私、お仕事を探してて……それで、好きなことをお仕事にしたいな、って思ってるんですけど……今のご時世厳しいですかね……」
「そんなことは無いと思いますよ。好きなことで生きていける。素敵なことじゃないですか。それを追い求める人生というのも、なかなか良いものですよ」
良いことを言ってくれる。とても耳触りが良い。
(この人は、とても良い人なんだな)
まるで母親かのように諭してくれる。この人の元で働いている人は幸せだろう。
ここでノイシーは少し、というか、だいぶ危ない悪巧みを考えついた。
「私、お酒を飲むのが好きなんですよね。」
「良いことです。それなら、ソムリエになるというのも——」
「だから、私、バーで働いてみたいんです!」
「……それなら、カクテルの種類も覚えるという努力も必要ですけ——」
「私、ここで働きたいです!」
バーテンダーの優しそうな目が点になっている。いますぐ写真に収めたいほど傑作だ。ノイシーは少しの笑いを堪えている。
気がつけば、店中の目線がこちらに向かっている。テーブル掃除をしていたショートのブロンドも、カクテルを運んでいる短髪も、ほろよい加減の客も、みんなこっちを見ている。
(あ、ヤバっ)
「……っていうじょうだ——」
「良いわ。明日面接しましょう」
「えっ」
客の方から、「おー、姉ちゃんがんばれよ」という声が聞こえた。
この方向は頭の片隅にあったが、まさか実現するとは思わなかった。現在、ノイシーは混乱している。
(確かにやりたいとは言ったけど……! まさか良いって言ってくれるなんて……! 落ち着け……落ち着くんだ自分……!)
ノイシーが動揺しているのを見たバーテンダーは、特に口調を強める訳ではなく、ゆっくりと話しかけた。
「とりあえず、今日はこのくらいにしておきましょうか。もうすっかり暗くなってしまいましたし。早めに帰らないと危ないですから。」
「えっ……あっ……はい……えっと、カードでお願いします……」
支払いを済ませた。ようやく状況が飲み込めた。
(あ、明日面接してくれるんだ。じゃあ、それをチャンスにしようかな。バーで働くのもおしゃれだし)
呑気なことを考えていても、外を見ると真っ暗だ。かろうじて街灯の灯りは付いているが、それでも薄暗い。