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若者短編集

セイシンメイロ

作者: 鷹野 砦

 彼は苦しんでいた。

 彼の前には分岐路があり、右も左も全く同じように見える。中心に鏡を置いたかのような、不自然なまでのそっくりさ。床は滑らかな白いタイルで覆われ、窓の類は一切ない。換気口も見当たらない。それなのに空気がよどむ様子はない。建物としての基本が一切無視されている。

 彼はこの通路の中を、ずっと彷徨っている。常に一定の明るさで通路が照らされているため、時間の感覚も失っている。彼がここで、記憶を失った状態で目覚めたのは果たして一時間前か、半年前か……。自分の中で確かだと信じていたものが、徐々に揺らぎ始めている。

 彼は記憶を失っているため、それは名前ではない。まして、家族や友人のことでも、自分の誕生日の事でもない。彼にとっての真理は、人間の基本。人間であるならば誰もが持っているはずの生理的な記憶だ。要するに、食事や睡眠に排泄といった行動に関する、衝動とでも言おうか。

 彼はここで目覚めてから何一つ口にしていない。彼の心はもうとっくの昔に空腹の感覚がするはずだと訴えているのに、なぜか空腹にならない。ずっと歩いているのに、エネルギーが切れない。眠たくもならない。意識が常に冴えている。汗もかかないし、トイレに行こうとも思わない。彼は自分の、人間としての記憶に疑いを持ち始めていた。

 彼が今求めているのは、この果てしない迷路のゴールだ。彼は数え切れないほどの分岐路を曲がり、この場所が少なくとも迷路なのだろうと判断していた。そして、きっと迷路であるならば出口も存在するはずだと考え、必死にゴールを目指していた。

 しかし、ゴールは見当たらない。道順を必死に覚えても、通路はまるであり得ないところを通り、記憶では一本道であるはずの部分が、段差もないのに立体交差でもしない限りあり得ないようなところを通ったりする。右に曲がってから引き返そうと思い立ち、振り返ると行き止まりだった、ということも一度ではない。床に壁は目印をつけようと引っ掻いてもツルリと滑り、傷ひとつつかない。元から特徴的な部分はないのか探しても全く見当たらない。まさに迷宮ラビリントスを体現したかのような迷路だ。

 そこからヒントを得て、彼は自分の服を引き裂いて紐代わりに使おうと考えたが、服はいくら引っ張っても破けなかった。何度か転んだが痛みはなく、怪我しなかった。試しに思い切り壁を殴ってみても、全く痛くなかった。

 彼は気が狂いそうだと思いながら、実際には狂っていった。自分が死ねばここから脱出できるかもしれないと何十回も頭を床に打ち付けたが、首から変な音がしてもたちまち痛みもなく治る。叫べばほかにも人がいればコンタクトできるかもと考え、奇妙な叫び声をあげたり。ついには言葉に言い表せないような、残虐な行いをしようとした。


 そこで彼の意識は途切れた。

 いや、切り替わったというべきか。

 彼はどこかの施設のベッドに横たわっていた。

 傍らには医者と看護師らしき二人組が何やら会話している。

 「これが例のNo.5か」

 「ええ。今まで目覚めなかった最後の実験体……。自らの悩みを迷路として意識上に実体化させ、そこから脱出することで悩みを解決する、らしいですね。えーと、正式名称は高度心理的矛盾解決……」

 「まあ、その名称は長いし、ここの研究員は簡単に”精神迷路計画”と呼んでいたよ。このNo.5はその計画で集められた13体のうち、今の今まで目覚めなかった奴だ。特別な機械でこいつの精神迷路をのぞいてみたら、実にひどい有様だった。あんな中で現実世界に換算して一週間も閉じこめられていたら、気も狂うだろう」

 「しかし、この実験では事前に入念な心理テストが行われているはずでは?実際、他の実験体は最長でも1日で脱出を果たし、社会復帰しています」

 「まあ、人の悩みというのは実に奥深いものなのだよ。この実験体の悩みは確か、家族についてだったはずなんだ。事前のチェックではね。しかし実体化した迷路を解析してみると、彼の悩みは人間関係が複雑に絡み合った、実に不安定な構造をした迷路だった。まるで異次元のようだったね。僕なら入って1時間でギブアップする」

 「へえ、そうだったんですか。そういえばNo.5は精神がかなり異常になったはずですよね?いいんですか?こんなそばにいて。あのレポートでは精神上ではもはや人間ではありませんでしたが」

 「大丈夫だ。私がちゃんと記憶消去プログラムを打ち込んでおいたから。彼の精神はリセットされ、悩みを抱えてこの研究所に来た頃に戻っているはずさ」

 「でも、不憫ではありますね。自分の悩みが解決できなかったなんて」

 「ああ、確かにな。でもこれで分かったこともあるさ」

 「それは何ですか?」

 「悩みはパッと見浅そうでも、中身は想像もできないほど深いことがある。ということさ。例えるならそれは、海のことをよく知らないで沖のほうへ潜ろうとすること。他人が下手な世話を焼くと、とんでもない結果になる。きっと本人が自分のことを知りながら、ゆっくり時間をかけて解決するのが一番なのさ」

 二人組は散々話し合った後、白衣を翻し実験室から出て行った。

 部屋では彼が一人、静かに横たわるだけだった。

 久しぶりに短編書きました。良ければコメントください。できるだけ返信します(^ ^)/

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