9.ビターにとろけて
9.ビターにとろけて
時計の針は、どちらも十二を指そうとしている。
二時間続きの後半。
一階の端にある、少し広めの調理室では、段々と香ばしい良い匂いが広がっていた。
今回の課題。
ふっくらやわらかフルーツマフィン。
因みにネーミングは先生だから。
マフィンが焼きあがるまでに、同じ班の裕子と並んで、せっせと洗い物を片付けていた。
「シンク掃除はしたくないわ」
排水孔に詰まるいくつもの果物の皮を見て、ぼそりと裕子が言う。
「ま、汚いのは男子に任せればいっか」
一班五人、内三人が男子という構成は、先生が決めたもの。
男子だけでは料理がなかなか進まないと、先生が以前漏らしていたのを聞いたことがある。
実際今だって、私の班の男子三人は、何かするわけでもなく、椅子に座って「腹減った」を連呼していた。
あんたらいくつだよっていうツッコミは、グッと我慢。
「そうだね。シンク掃除は男子にやらせよ」
私はスポンジに洗剤を付け足しながら応えた。
最後くらいはしっかり働いてもらいましょ。
「ねえ、尚美」
「ん?」
「マフィンさ、木高にあげんの?」
「…」
裕子はいつも本当に突拍子もない。
シンク掃除からどうやれば拓也に繋がるのか。
「あれ。図星?」
何も答えられない私を見て、裕子の声が少し弾む。
以前なら、「なんで拓也にあげなきゃなんないのよ」とか言って抵抗してた私だけど、今はそうもいかなかった。
「やっぱりそうなんだ?図星ど真ん中なんだ?」
顔が熱くなるのを感じる。
そうだよ。
図星だよ。
図星ど真ん中だよ!
私は今日出来上がったマフィンを、拓也にも食べてもらおうと思ってましたよ。
まあ拓也も、班は違えど今一緒にマフィンを作っているわけで。
それと交換っていうのでもいいかな、なんて考えていたり。
一班十個ずつできるように材料が与えられているから、一人二つずつマフィンを貰えることになる。
だから、一つは自分で食べて、もう一つを拓也に…なんて。
なんというか、今の私は、自分でも信じられないくらい乙女なのかもしれない。
あれから数週間経って、梅雨の季節に入った外は、サワサワとと雨が降っている。
相変わらず柴山さんは拓也にベッタリで、本気でムカツク時が無いと言えば嘘になるけど。
でも、もう下校は柴山さんと一緒になることは、あれからは一度も無くて。
少々嫌な光景を目にしても、部屋の机の上に飾ってあるあのパンダを見ると、大丈夫だって思えるのだ。
何が大丈夫かは、よくわからないけど。
そして。
一度拓也のことを好きかもしれないと思ってからは、どうしても変に意識してしまう。
無意識のうちに拓也の姿を目で追っていたり。
ノートに拓也と私の相合い傘を書いてみたり…って、これはちょっとベタすぎて自分でも笑えたんだけど。
多分、裕子も亜理沙も、なんとなく私の変化に気付いていると思う。
特に裕子は鋭いから。
だから今だってこうやってからかわれているわけで。
「ぷっ。尚美ったら可愛い!顔真っ赤!」
「も、もう!裕子!からかわないでよお」
ケラケラと笑う裕子と真っ赤な私。
「ごめんごめん。でも、木高きっと喜ぶよ」
何を根拠に。
いくら幼馴染みだとは言え、やっぱり多少の不安はある。
同じ物を拓也だって作ってる訳だから、断られることは無くても、「なんで交換すんの?」って変な顔をされてしまうかもしれない。
「食べてくれるといいな」
私の作ったマフィンを。
拓也が笑顔で食べてくれるといい。
そんなことを思いながら、全ての食器を洗い終えて、蛇口を止める。
食器を布巾で拭こうと手を伸ばした時、ふと焦臭い臭いが鼻をかすめた。
「おい、なんか焦臭くねえ?」
「うん、俺も思った」
椅子に座っていた男子たちが首を傾げる。
確かに、臭い。
裕子と私はオーブンのある方へと回った。
各班の調理台に一つずつ備え付けられている大きなオーブン。
私達は一旦取り消しボタンを押して、恐る恐るオーブンの扉を開ける。
その途端、モクモクとものすごい煙が立ち上った。
「うわ。ひでえ」
男子の誰かが言った。
あまりの煙に、私達の調理台の周りにゆっくりと人が集まり始める。
鉄板の上に並べられた十個のマフィンは、黒くなった表面がプスプスと音をたてていた。
ていうか、もはやマフィンじゃないよ、これ。
「え、なんで…」
どうしてこんな事になってるの?
「あ」
何か気が付いたように裕子が声をあげた。
「オーブンの設定温度間違ってる」
「え…」
見ると、確かに決められた温度よりも高めの所に印がきていて。
「誰よ、オーブンの設定したの」
裕子は言いながら、男子の方を睨んだ。
「は?俺たちじゃねえし」
「てか、宮崎じゃなかったっけ。オーブン触ってたの」
「へ…?」
私の方を振り返った裕子の顔は、しまった、というふうで。
手が、ガタガタと震えた。
材料混ぜて。
型に流し込んで。
それらを並べた鉄板を、裕子と二人でオーブンの中に入れて。
洗い物をするために流台へと回った裕子を見ながら、私はオーブンのスイッチを入れた。
「…あ…私…」
少しでも視線を動かせば、涙がすぐに溢れてしまいそうで。
「…あの…ご、めん…」
私は、五人分のマフィンを、十個ものマフィンを台無しにしてしまったんだ。
「うっわ。ひさーん」
何処かから、柴山さんのおかしそうな声が聞こえたような気がした。
「本当に…ごめん…!」
頭を下げる。
もう、頭の中は真っ白だった。
私は、恐る恐る頭を上げてから、流台の方へと戻った。
「尚美…?」
心配そうに裕子が話しかけてくれる。
「あの、そんな、気にしなくていいんだよ?たかが調理実習じゃない。他の班に分けてもらえば大丈夫なんだから」
「ごめん…本当に、ごめんね」
私は、ただ謝ることしかできなくて。
せめてシンク掃除だけでもやろうと思い、腕を捲った。
「尚美…シンク掃除は皆でしよ?だから尚美一人頑張らなくてもいいんだよ?」
その裕子の優しい言葉に、私は静かに首を振る。
「私には、これくらいしかできないから…」
「尚美…」
排水孔の蓋を取り、中に詰ったものを引っ張り出す。
ベロンと出てくる皮の塊は、やっぱり気持ちの良いものでは決してなくて。
中の網も、水で丁寧に洗って。
かすかな生ゴミの臭いが、今の私には丁度良いのかもしれない。
「拓也くん!」
柴山さんの拓也を呼ぶ声が聞こえてきて、思わず顔を上げる。
可愛らしいエプロンをした柴山さんは、それに負けないくらい可愛い笑顔で、拓也に話しかけていた。
「マリのマフィンあげる!超上手くできたんだあ」
その言葉に、私はギュッと目をつむる。
その二人の姿を、拓也の返事を、感じたくなかったのだ。
拓也にマフィンを食べてもらいたい?
そんなの、ちゃんちゃらおかしい。
なに交換したいとか思ってたの、私。
夢見るのも大概にしとけって言ってやりたい。
あんな真っ黒焦げの塊なんて、只のゴミじゃない。
いつもはしっかり聞かない調理実習の説明も馬鹿みたいに必死に聞いて、大切なとこにはマーカーまでひいたりして。
馬鹿馬鹿、大馬鹿。
温度設定なんか間違えて、何考えてるのよ。
自分だけじゃない。
裕子にも、他の男子にも。
私はものすごく迷惑をかけた。
「なあ。このマフィンどうする?」
「捨てるしかないっしょ。さすがにここまで黒いのは無理」
「だよな。やっぱ捨てるしかないか」
私の焦がしてしまったマフィンを見て話す男子。
私は誰にも聞こえないような小さな声で、ただ「ごめん」だけを繰り返した。
何度謝っても、もう遅い。
私ってなんでこんなんなんだろう。
頑張れば頑張るほど空回りして、結局は大切な所を抜かしてしまう。
ああ、もう。
最悪。
「…ぅっ…ひっく…ぅう」
情けなさすぎて、泣けるくらい。
『うっわ。ひさーん』
あれは、多分マフィンに対してじゃないんだと思う。
『あなたは拓也くんにふさわしくない』
いつかの柴山さんの声が蘇る。
本当にそうだって思う。
何をしても駄目な私なんかより。
柴山さんの方が、ずっと拓也には合っているのかもしれない。
「ちょっと!拓也くん?!」
ふいに聞こえた、信じられない、というような柴山さんの呼び声の後に、
「このマフィン、一個もらうよ」
声がして顔を上げる。
「拓也…」
いつものあの優しい笑顔をした拓也が目の前に立っていて。
信じられないことに、手に取った真っ黒なマフィンを、ポイと口の中に放り込んだ。
「…うん。マフィンにしては…かなりビターだな」
拓也は嫌な顔一つせずに、口の中のものを飲み込み。
「ま、食べられないことはないけど」
そう言って笑った。
「なん、で…」
「ん?」
「そんなの、食べなくても…」
柴山さんのマフィンの方が、私なんかのより、ずっと…ずっと…
「俺は、尚美のマフィン貰うのを、楽しみにしてたの」
「…え?」
「上手くできたヤツでも、失敗したヤツでも。お前のマフィンが食いたかったんだよ」
そう言って、ぽんと私の頭に手を置いた拓也。
それがあまりに優しくて。
「…馬鹿じゃん…拓也」
また、泣いちゃうんだよ。
「どうせ俺は馬鹿ですよー」
困ったように笑う、拓也の声。
「…ほんっと馬鹿…病気になっても、知らないんだから」
「ならねえよ」
可愛くないことばっかり口から出てきて。
涙はまだ止まらないというのに。
四時間目の終わりを告げるチャイムが、何処か遠くで響く。
「…馬鹿拓也っ」
「馬鹿拓也って…。はいはい、なんですか?」
「ありがと…!」
泣きながらのこの言葉は、たぶんかなり聞き辛かったと思う。
でも、拓也は優しく目を細めて。
「また作ってくれよな」
そう言った。
外は雨で。
多分明日も雨で。
まだ、シンク掃除も終わってないけど。
だけど帰りに本屋に寄って、お菓子づくりの本でも買ってかえろうかな、なんて。
私はきっと、ものすごく単純だから。
また拓也に、お菓子を作ってあげたいと思った。