25.ソファに預けて
25.ソファに預けて
「ただいまあ」
誰もいない家の中に、私の声が響く。
お父さんもお母さんも共働きだから、私は結構小さいときから鍵っ子だった。
別に、寂しいなんて思わないけど。
靴を脱いで、中にあがる。
リビングに入ると、すぐにクーラーのスイッチを入れた。
ゴーっという機械音と共に、涼しい風が回りだす。
ソファの上に鞄を置いて、洗面所へ。
帰ってきたら手を洗う。
これは宮崎家の決まり。
洗面所は脱衣所と一緒になっていて、その奥にお風呂がある。
お風呂の換気扇の音が低く響いていて、暗いままの洗面所は、少しだけホラー映画に出てきそうだと思った。
電気のスイッチを押すと、淡い肌色の光が中を照らして。
なんとなく、ほっと一安心。
鏡の方を向くと、もう一人の私と目が合った。
「なに、そんなに不安そうな顔してるのよ。」
もう一人の私に話しかける。
「何もない。あの言葉通り、きっと大したことなんて何もないんだから。」
それでも鏡の中で私は、やっぱり不安そうに瞳を揺らしていて。
どうして。
何を隠す必要があるの?
私には、何故言えないのよ。
ねえ拓也。
隠し事なんてされたら、私。
不安でたまらなくなるじゃない。
あの赤い柴山さんの目が、頭の中で私を睨む。
キッと。
鋭く私を睨みつけてくる。
――いい気にならないでよ――
赤い目の柴山さんが言う。
いい気になんて、なってないわよ。
――あんただって違うんだから――
そんなこと言われたって。
何が私と違うって言うの?
なんで柴山さんは泣いていたの?
今日の放課後の間に、一体何があったの?
柴山さん。
それはやっぱり、拓也と何か関係が・・・。
「あー!駄目!考え出したらとまらない!」
ブルブルと頭を振って、絡まった思考を追い払う。
その所為で髪が軽く乱れた。
「そもそも。どうして私が睨まれなきゃいけないのよ。」
うん。
本当にそう。
私別に何もしてないんですけど。
仲川を応援していたことがそんなにいけませんかねえ?
「事情すら知らないのよ、私」
考えれば考えるほど腹立たしいことかもしれない。
くすりと笑って誤魔化した拓也も。
赤い目で睨んできた柴山さんも。
二人が何か関係していて、そしたら私は一体何をするつもりなのよ。
もう、どうでもいいじゃない。
蛇口を止めた後、手を振って水を払う。
ピッピッと何滴か鏡にかかってしまい、手をタオルで拭いてから、適当にティッシュで拭いておいた。
「そうでしょ?」
ねえ尚美。
「だから、もう考えちゃ駄目。」
私は手で乱れたままだった髪を整えて、リビングへと向かった。
リビングのドアを開けると、クーラーが大分利いてきて、ひやりと涼しかった。
チャラランチャララン♪
「あ、携帯」
いつものメロディが、ソファの上の鞄の中から流れ出す。
鞄を少し乱暴に掴みあげて、中から震えている携帯を取り出した。
ディスプレイには、以外にも『笹塚美奈』と表示されている。
「美奈?どうしたんだろう」
パカリと開き、通話ボタンを押した。
「もしもし」
『もしもし?尚美?』
「美奈。どうしたの?」
美奈と離れて早三ヶ月が経とうとしていた。
それから連絡をとっていなかったわけではもちろんない。
毎週土曜に、決まってどちらかが電話をかけ、軽く一時間は話している。
これはもう習慣なのだ。
だから余計に、今の電話は疑問に思う。
平日に美奈が電話してくるなんて、あんまり無い事だもん。
『ごめんね、急に電話しちゃって。忙しかった?』
「ううん、大丈夫。今家に帰ったとこ。」
よかった、と電話の向こうで安心したような声を出す美奈。
美奈は少し心配性の気があるかもしれない。
「で、どうしたの?何かあった?」
いつもと違う日に電話をしてくるということは、きっと何か伝えなきゃいけないことがあるのだろう。
『あ、うん。尚美はもう夏休みだよね?』
「そだよ。明日で補習も終わりだし。美奈のとこは?」
『私は今日で補習終わったの。ねえ、八月三日って空いてる?』
八月三日。
「ん、ちょっと待ってね。」
電話の横の壁に貼られたカレンダーをぺラリと捲り、八月のページを見る。
「三日だよね。」
『うん。』
一日、二日、三日。
うん。
特に予定なし。
「大丈夫。空いてるよ」
『本当?よかった。拓也も空いてるかな?』
美奈の声が嬉しそうに弾む。
「え?拓也?どうして?」
『三日、私、尚美のところに遊びに行こうと思って!』
「え、本当?!」
『うん!』
思わぬ朗報に、私の声も明るく弾む。
美奈と会える。
美奈と会える!
『だから、拓也も都合大丈夫かなって思って。』
「あー、拓也なら大丈夫でしょ。」
夏期講習なんてとるって言ってなかったし、旅行に行くなんて話もしてないし。
『そうかな?』
「うん、そうだよ。」
『そうだよね!よかった、二人に会える!』
携帯を持って嬉しそうに笑う美奈の笑顔が眼に浮かぶ。
私だって、もちろん嬉しい。
「ねえ、うちに泊まってくでしょ?」
『あーううん。四日は朝から予定があるから、三日の夜帰る。』
「え、そうなの?」
美奈が北海道に引っ越してしまう前は、よくお互いの家にお泊りをしたものだ。
そのときは男の子である拓也は少し仲間外れにしてしまったけれど。
「残念。」
『ごめんね、尚美。ありがと。』
「ううん。一応拓也にも予定聞いておくね。」
『そうしてくれる?無理そうだったらまた連絡して欲しいな。』
「OKOK。」
『助かる。じゃあまた電話するね。』
「あ、うん。またね」
バイバイという可愛らしい声の後、プツリと電話が切れた。
プープーという機械音が流れて、私も電話を切る。
携帯を手に、ぼふりとソファに座り込んだ。
全体重を柔らかいスプリングに預けてしまう。
「八月三日か・・・」
今が七月二十五日だから、あと一週間とちょっと。
「楽しみだな・・・」
連絡は毎週取っている。
だから声だって聞いているわけだけど。
電話越しで話すのと、会って話すのとでは、やっぱり全然違うじゃない?
美奈が引っ越してしまってから、まだ一度も会っていない。
美奈、変わっていないだろうか。
もしかして少し太ってたりして。
北海道って食べ物おいしそうだし。
でも、痩せ細ってしまうより、少し太った方が幸せそうでいいかもしれない。
拓也、予定大丈夫かな。
よし。
早速聞いてみるか。
また携帯を開き、拓也のアドレスを呼び出す。
カーソルを合わせた後、通話ボタンを押した。
プルルルという呼び出し音が静かに響く。
『もしもし』
「もしもし、拓也?いいお知らせがありまーす!」
拓也の声が聞こえた途端に、私は喋りだした。
「拓也、三日って空いてる?」
『三日?もう七月三日はとっくの昔に過ぎてんぞ。』
「八月三日に決まってんでしょーが!」
真剣に答えた私に、拓也が可笑しそうに小さく笑う。
『冗談に決まってんだろーが。あー、空いてるけど。』
「おお!やっぱりねー」
私の読みは正しかった。
『やっぱりねって・・・お前それちょい失礼。てか、なんだよ?いい知らせって』
不思議そうな拓也の声。
それと一緒に、電話の向こうからは何度か聞いたことのある洋楽がかすかに聞こえた。
「それはねー。美奈が、こっちに遊びにきてくれるって!」
口にしただけでも嬉しくてたまらない。
楽しみで仕方がない。
だから、
『え・・・』
すごく拓也も喜ぶだろうと思っていたから、少したじろいだ様な拓也の声が返ってきたのは私にとって予想外だった。
「拓也?」
『あ、あー、そっか。うん。楽しみだな』
いや、あんた全然そんな感じじゃないでしょ。
最後の方は確かに声は明るくなっていたけど。
『三日、俺は大丈夫だから』
「あ、うん」
『なんかあったら、また教えてくれよな』
じゃあ、と言うと、拓也は一方的に電話を切ってしまった。
今のは一体何だったんだ。
今日の拓也は、やっぱりおかしい。
思い出したくなくても、考えたくなくても、あの柴山さんの赤い目が、どうしても私を睨んでくる。
私はまた頭を振った。
考えない考えない。
今は三日のことだけ楽しみに待っていればいいの。
そう自分に言い聞かせて。
ソファに体を預けたまま、私は静かに目を閉じた。