10.雨は犬と猫
10.雨は犬と猫
雨雨雨。
昨日も雨。
その前も雨。
今朝は晴れていたのに。
『ようやく梅雨が明け、明日からは久しぶりに、気持ちの良い晴天になるでしょう』
昨日の夕方の天気予報を思い出す。
嘘こけー!
さっきから気持ちの良いくらい、思いっ切り雨降り出しましたけど?!
先生が前でプリントなどを配布する間、私は窓の外を恨めしく眺めていた。
終礼の始まりのチャイムが鳴るのとほぼ同時に降り出した雨。
折り畳み傘は常に鞄の中に入れてあるから、何か問題があるわけじゃない。
でも。
こう雨降りばかりが続くと、イライラもするわけで。
帰る直前に降り出せば、そのイライラも倍増するわけで。
私は今、ものすごく機嫌が悪かった。
「尚美、帰ろうぜ」
終礼が終わって、拓也が鞄をもって近寄ってきた。
私は「言われなくても帰る」とボソリと応えて、早足で教室を出て廊下を歩く。
掃除のため少しずつ開けられた、廊下の窓。
外はどんよりと薄暗くて。
廊下に足跡が付くくらい、梅雨の湿度は高かった。
「どうしたんだよ」
「なにが?」
「なんか機嫌悪くね?」
「そお?別にいつも通りだけど」
言葉とは裏腹に、ぶっきらぼうな言い方をする私を見て、拓也は隣でため息をついた。
「なに?」
「は?」
いきなり振り向き、明らかにイラついた声の私。
拓也は怪訝そうに眉をひそめた。
「ため息、ついたじゃない」
「…べっつにー」
言いながら、拓也は私から目線をそらし、窓の方を向いた。
そこで会話が途切れる。
拓也と私の間に漂う、なんとも言えない、不穏な空気。
お互い、口を開こうとしない。
騒がしい放課後の廊下を、無言で歩いた。
靴箱で靴を履き替えて、出口へと向かう。
どしゃ降りの雨。
暗い空。
帰りたくないな。
隣を見ると、拓也はもう鞄から折り畳み傘を取り出していて。
私もチャックを開け、鞄の中に手を突っ込んで折り畳み傘を取り出す。
いや。
取り出そうとした。
「あ、あれ…?」
「どうしたんだよ?」
鞄の隅々まで手で探る。
「傘が…あれ…入れてた筈なのに…」
無い。
入ってない。
「は?まさかお前、傘忘れたの?」
「忘れてな…あー!」
言いかけて思い出す。
「部屋に…置いてきた…」
昨日、部屋でペンケースを鞄から出すときに折り畳み傘がどうも邪魔になって。
先に折り畳み傘を鞄から取り出したんだ。
そのまま、机の隅に置いて。
「傘…忘れた…」
「…たく。ドジだなあ」
呆れたというふうに肩をすくめる拓也。
ドジ、という言葉に、私はどうも引っ掛かって。
「ドジで悪かったわね」
私は、拓也の方を見ずに言った。
「は?何ムキになって」
「拓也くーん!」
言いかけた拓也の言葉を遮って、聞こえてきたのは、もう聞き慣れてしまったあの猫撫で声。
大きな胸を揺らして、柴山さんは拓也の腕に飛び付いた。
「拓也くーん、マリね、今超困ってるのお」
上目使いは多分ピカイチ。
まるで私を無視するように、拓也にくっついている。
「え、なんかあったの?」
悠長に聞き返す拓也。
大体、想像はつく。
「マリね、傘忘れちゃったのお」
可哀想でしょ、と言いながらの泣き真似は、本当に慣れたものだ。
「今日はまた電車乗るから、拓也くん、駅まで傘に入れて?」
「え…」
「お願あい!」
拓也はなんとも言えない顔をして、渋々口を開いた。
「あー、柴山、実は今日、尚美も傘忘れちゃったんだよね。で、尚美入れなきゃいけないから、悪いんだけど、他の奴に入れてもらって」
ごめんな、と謝る拓也。
「えー!マリは拓也くんの傘に入りたいのお!」
ダダをこねる子供ように、柴山さんは拓也の腕に更に強くしがみついて。
拓也は、「困ったな」と、小さく呟いた。
「柴山さんと帰っていいよ」
ぽつりと、私は前を向いたまま言った。
「…は?何言ってんの?」
拓也が驚いてこちらを向く。
「私、拓也の傘に入れなくても別にいいもん」
「尚美?」
拓也と私のやりとりを、柴山さんは面白そうに見ている。
「てか、拓也の傘なんかに入りたくないし」
言ってしまった後で、自分でも何言ってんのか分からなくなってきて。
最後の一言で、拓也の空気が変わったのがわかった。
後悔しても、もう遅い。
「…そうかよ」
拓也は、折り畳み傘をひろげて、柴山さんの方を向いて。
「柴山、帰ろ。尚美は俺と帰りたくないみたいだし」
静かなその言葉からは、ひしひしと怒りが伝わってくる。
「行こう」
拓也は、その後ちらりとも私の方を見ずに歩き出した。
「ありがと、宮崎さん。じゃあねえ」
拓也の傘の下で勝ち誇ったような笑顔で手を振った柴山さん。
二人は、激しく降る雨の中、段々と見えなくなった。
「何やってんだ、私」
一人取り残されてしまった私は、とにかく教室に戻ろうと方向を変えた。
もう少し待ってみよう。
雨、止むかもしれないし。
ペタペタとさっき歩いてきた廊下を戻る。
もう大部分の生徒たちは下校していて、ほとんど誰ともすれちがわない。
掃除が終わって閉められた窓を、雨は相変わらず強く打ち付けている。
教室に戻ると、そこにはやっぱり誰もいなくて。
私は一人静かに自分の席に腰を下ろした。
拓也、怒ってたな。
あの静かな怒りを思い出す。
私の言った言葉は、たぶん拓也を傷付けた。
『拓也の傘なんかに入りたくないし』
あんなこと言われて、何とも思わない人なんて、きっといない。
拓也は。
拓也は、嫌な態度をとっていた私を傘に入れてくれるつもりだった。
頼まれなくても。
ちゃんと私のことを考えてくれていた。
それに比べて、私は?
前を向いていた体を、ドアの方に向ける。
一つ机を挟んだその隣が、拓也の席。
たまに目が合うと、嬉しそうに微笑んで。
私が一人でいると、楽しそうな声で名前を呼んでくる。
「なに?」と聞くと、拓也はいつも、「呼んでみただけ」といって笑うの。
拓也の笑顔は、どんな時も明るくて。
でも、私には分かってる。
あれはきっと、拓也なりの気遣いなんだって。
美奈がいなくなってしまっても、私が寂しくならないようにって。
ゆっくりと椅子から立ち上がり、拓也の席まで歩いていく。
机の端には、以前私の歴史のノートに描かれていたのと同じようなウン○ちゃんが。
それを見て、私は小さく笑った。
椅子を引き、座る。
少しガタガタとなるこの椅子に、拓也は毎日座っているんだ。
誰もいない教室には、雨の音と時計の秒針の音だけが響いていて。
それが妙に大きく感じられた。
拓也に対する自分の気持に気が付いてから、私はたまに疑問に思うことがある。
柴山さんに気に入られている拓也。
最近では、柴山さんのアプローチは更に大胆なものになってきていると感じることが何度もある。
それを見て、やっぱり私は良い気はしない。
ていうか、嫌だ。
だけど。
私は、本当に拓也のことが好きなんだろうか?
幼馴染みとしてだけじゃなく、恋愛対象としても。
柴山さんと拓也が仲良くしているのを見て嫌な気持になるのは、単に柴山さんのことが自分の考えている以上に嫌いだからじゃないだろうか?
そう、私は疑問に思うのだ。
だけど。
こうやって、拓也の席に座ってみてわかった。
私はやっぱり、拓也のことが好きなんだって。
普段拓也の座っている椅子に、教科書を開いている机に、私は今触れていて。
それだけで、今こんなにもドキドキしてる。
「好き」
私はそっと呟いて、自分のその言葉にまたドキドキする。
誰もいない、静かな教室。
だけど私の胸の音は、私にしか聞こえない。
「雨、止まないな」
あの時。
拓也が傘に入れてくれようとした、あの時。
柴山さんよりも私を選んでくれて、本当はちょっぴり嬉しかったの。
だけどそんな風を見せたくなくて。
機嫌の悪い、嫌な態度を突き通しちゃった。
私は意地っ張りで。
それは私自身もわかってる。
でも、言ってはいけないことは言ってはいけない。
それなのに、私は拓也に酷いことを言った。
拓也を、傷付けた。
「嫌われちゃったかなあ」
隣はもう少し開けていてくれると言ってくれた拓也。
でも、もしかしたらそこはもう、柴山さんのものになってしまったかもしれない。
窓の外を見ると、雨足はきつくなるばかり。
一瞬空がピカッと光って。
その後大きな音を立てて、雷が落ちた。
「このまま止まないかもしれない」
雷まで鳴り出して。
もうどうにでもなれって思った。
低い音で轟く空。
また、空が光った。
「尚美!」
雷の落ちる音とほぼ同時に、いきなり教室のドアが開く。
そのガラリというの予想外の音に、私は驚いて振り返った。
「拓也…?」
開いたドアのところには、びしょ濡れの拓也が立っていて。
「え…どうして…」
「…心配で、戻ってきたんだよ」
居心地の悪そうに、拓也は私の目を見ずにぶっきらぼうに答えた。
「私を、心配してくれたの?」
「…そうだよ」
「あんな酷いこと言ったのに?」
「お前の口の悪さにはもう慣れた」
最後の一言は少し引っ掛かるけど。
拓也が来てくれたことは、やはり素直に嬉しくて。
「柴山さんは?」
「傘渡して、先に行ってもらった」
「なんで、そこまで」
「だって」
私の言いかけた言葉を、拓也が遮る。
「お前、雷苦手だったろ?」
そう言って、拓也は静かに微笑んで。
その優しい笑顔を、私は誰よりもハンサムだと思った。
「…雷なんて、もう恐くないもん」
ほら、また可愛くないこと言う。
「あれ?雷鳴る度にヘソ押さえて、逃げ惑ってたの何処のどいつだよ」
「なっ…!それいつの話よ!」
幼稚園のときの恥ずかしい思い出を出され、拓也をポカポカと叩く。
「痛いって」と言いながら笑う拓也。
その時、ふと目が合って。
私は、叩くのをやめる。
静かに、ただ見つめ合った。
まるで、それ以外の方法を知らないかのように。
どちらも、視線をそらすことなく。
私たちは見つめ合っていて。
このまま、時間が止まるんじゃないかって思った。
「もう下校時刻は過ぎてますよー」
いかなり声をかけられ、二人してビクリとする。
見回りに来た日番の先生は、隣の教室へと歩いていった。
なんとなく居心地が悪くなり、そっと拓也の方を向くと目が合って。
なんだかおかしくなって、二人で笑った。
「帰るか」
「うん」
拓也の言葉に、鞄を取りに自分の席に戻ろうと向きを変えた。
「あ、拓也」
私は、窓の外を見て嬉しくなった。
「あ」
拓也も、窓の外を見る。
「雨止んだね」
さっきの雨は嘘のように、空は夕日の赤で明るかった。
梅雨が、明けたのだ。
「もうすぐ夏だな」
拓也は嬉しそうにそう言った。
「うん」
私は鞄を持って、拓也の隣まで歩いていき。
拓也の腕に、自分の腕を絡めた。
拓也はそれに少し驚いたように、私の方を向いた。
「尚美?」
「えへ、柴山さんの真似ー」
明るい声とは反対に、私は恥ずかしくて、拓也の方を向くことができなかった。
「濡れるぞ?」
「いいの」
私は、まだグショリと冷たい拓也の体に、更にギュッとくっついて。
私にしては、少し大胆だったかななんて思ったり。
「うし!じゃあこのまま帰るか!」
そう言って、拓也の腕が私の肩に回る。
「やっぱ俺の隣はお前だわ」
そう、言われたような気がした。
ねえ、拓也。
今、拓也は何を思ってる?
拓也に触れている部分が全部熱くて。
私は、死んじゃいそうだよ。
私がもしも拓也のことが好きだと言っても。
拓也はまだ、この腕を離さずにいてくれる?
柴山さんじゃなくて私のために。
ねえ、お願い。
この場所を、置いておいて欲しいの。