倦怠期のロボット
ガジガジと爪を噛む。
夫の帰りが最近遅くてイライラしてしまう。ようやく子どもを先ほど寝かしつけて,精神がすり減っているせいか,夫の挙動一つ一つにいちいち咎めたくなってしまう。彼は残業があると言い訳をしているが,それが毎回続くとなると何か怪しさを感じてしまう。
どうしてこうも男という生き物は馬鹿なんだろうか。すぐにばれるような嘘なら,いっそつかないほうが清々するというのに。それでも子供のように俺は浮気なんてしていないさ,信じてくれよとか平気で精神論を吐き続ける夫に憐れみすら感じてしまう。
風呂を浴びている際の携帯をチェックすれば,そんな嘘なんて簡単に見破れるというのに。メールの受信履歴さえ消去してればなんとかなると思っている時点で,甘すぎる。変換履歴を虱潰しに調べていけば,それらしい文章を見つけることなんて誰だってできる。
久しぶりの同窓会が嬉しくて,意気揚々と帰宅してみたらトイレットペーパーが三角に折られているのなんてのも,物的証拠の一つだ。あんな粗野でガサツでしかない夫がそこまで気配りなんてできる筈がない。
これは完全に確定だ。
他にもあげていけばキリがないから,ちゃんとメモをとってある。何月何日に,どういう風に自分は感じたかなんていう日記みたいなものがあれば,裁判のときに有利になる。ちょっとした証拠にはなると,確かテレビで見かけたことがある。
だが,なにより気に食わないのは浮気相手だ。メールの内容からすると,夫に比べてどうやらかなりの年下のようだった。緩みきった夫の顔が頭の中に浮かぶ。いいように騙されているのも気が付かないなんて,男はなんて馬鹿なんだろうか。
トイレットペーパーを三角折りにすれば,いくら鈍感な妻でも気が付く。それをやってのけるっていうのは,ほぼ確実にわざとだ。浮気相手は夫を奪ったことを私に突き付けて,そして勝者の気分を味わいたいだけなのだ。小娘が粋がるな。
だからこそ,夫には怒りよりも同情という感情が先に浮上してきてしまう。どうして媚びることでしか自分の価値を見いだせないような女に,翻弄されてしまうのだろうか。そしてそんな夫を選んだ私はなんて馬鹿なんだろうか。そう思うと自分が情けなくてたまらない。
ガチャリと,ドアノブが開く音がする。
「ただいまー」
「……おかえりなさい,あなた」
初めて出会った頃は小奇麗だった顔つきが見る影もない。仕事で疲れているのか,やつれている彼を直したくない。正直,今彼の肌に触れるのも嫌悪するようになってしまった。どこか汚らしいとさえ感じてしまっている。
よれよれになった背広は安月給であるがゆえのものだけじゃない。彼の扱い方が雑なのだ。それでも私は何一つ文句は言わず,丹精こめて洗濯,アイロンしても彼は礼の一つもいえない。どれだけ主婦という職業が大変なのか,彼はわかっていないのだ。
ソファーによっこらせとわざわざ口で言いながら,腰深く座る。バサッと,靴下をその変に脱ぎ捨てながら,もう一方の手でネクタイを緩める。信じがたいことにそのまま裸足になった足で,テーブルに置いてあったリモコンを操作し始めた。
なんだ,なんなんだこの男は。
どうして私はこんな男と結婚してしまったのだろうか。どうして靴下を洗濯機に入れるということすらできないのだろうか。ネクタイはクローゼットに掛ける箇所があることぐらい知っているはず。それから,小汚いその足でリモコンに触るなっ!!
「あー,疲れたー。めしはー」
「私は飯を作るロボットじゃありませんよ」
「はー,わかってるって。はやく作ってよ,こっちは仕事終わりで疲れてるんだからさー」
夫はテレビを観ながらこっちを見向きもしない。どうせこっちの話の半分も聞いていはいないだろう。私はパチっとテレビの電源を消して夫をにらみつける。そうするとようやく,夫が何かしらの私の異変を感じとったらしく狼狽える。
「な,なんだよ。いきなり」
「いきなりじゃないでしょ! いつものことよっ! ねえ,ちゃんと私の話を聞いてよ!」
「分かったよ,分かったからちょっとは落ち着いてくれよ。子どもが起きるだろ?」
「あなた普段仕事にかまけて子どもの世話をしないくせに,よくそんな口がきけるわね? 少しぐらいは面倒見なさいよ」
「見るよ,見る。だから落ち着いてくれ」
夫は私の肩を持って,ソファーに座らせて落ち着かそうとしたのだろうが,その手を振り払う。そうすると,彼は目を見開く。
「なんだよ,そんなに怒ることないだろ?」
「怒ってないわよ」
「いいや怒ってるよ」
「怒ってないったらっ!」
ああ,もういやだ。なんなんだろうか,この人は。どうして手洗いすらしない手で,平気で私に触れることができるのだろうか。結婚する前はこんなずぼらなところも,可愛いとさえ思った。思ったのに,こうして月日を積み重ねるとただの短所でしかないということに気が付かされた。
私は馬鹿だったのだ。
もしも時間を巻き戻せるというなら,あのお見合いからやり直したい。あの人の歯の浮くようなほめ言葉に,私は舞い上がっていただけなのだ。親のいうことが正しかったのだ。やはり,口だけの男なんて信用できないに決まっているのに,どうしてあの時の私は親のいうことに真面に耳を貸さなかったのだろうか。悔やんでも悔やみきれない。
悔恨の涙が自然と溢れてきてしうと,夫は疲れたように嘆息する。
「もういいよ。夕飯はどっかで食べてくるから。君ももう寝てくれ」
「……なんですって?」
「とにかく君はもう話せない状態だろ? だから――」
「なによ! 私のせいだっていうの!?」
「そうじゃないよ。……はあー,ほら,とにかく今は君が落ち着かないと」
もともとは夫が悪いのに,なぜか私が全面的に悪いように言われている。なんでこの男は自分が悪いということを認めないのだろうか。もういやだ。この人とこれからやっていける気がしない。付き合うだけならまだよかった。それなりに楽しめた。だけど,結婚は間違いだったのだ。これから一生この男に振り回されることを想像すると,ぞっとする。
頬を流れる透明な水の勢いが増していくと,夫が独りごちる。
「……女は泣けばいいと思っているよな」
「あなた,それ本気で言ってるの?」
「ああ,そうだよ。なんだよ,いきなりヒステリーになったと思ったら泣きだして。ちょっと休んだほうがいいよ,ほんとに」
唇をかみしめる。
この男は一々すべてを最初から説明してやらないと,理解できないのだろうか。自分がどれだけの仕打ちを私に日々行っているのか自覚できていない。優しいと思っていた彼は,ただひたすらに愚鈍なだけだったんだ。
「……私だって……大変なのよ……」
「大変って,専業主婦だろ? だったら楽だろう。俺は仕事でいつも疲れてるんだから,こどもの世話が少しぐらいできなくて当然だ」
「あなた,一度でも世話を見てくれたことないでしょ!? てきとうなこと言わないでよ!」
「君だって働いていたけど,専業主婦が夢だから寿退社したんだろ? 双方納得したはずのことなのに,どうして蒸し返したりするんだよ」
「……それはっ……」
たしかに私はそうするように言った。でもそれは子どもの育児が大変だったからだ。何かあったときに責任もとれないような,誰か見知らぬ人間に預けるぐらいだったら,自分で育てたほうがよかったからだ。その説明に納得したのは夫だっていっしょだ。
「俺は仕事でお金を稼いで,君たちが生活できてるんだ。君のくれる少ない小遣いでやりくりしている俺の身にもなってくれよ。飲み会にも行けない俺を,同期のやつらは影で笑ってるんだぜ」
「それは,あなたの稼ぎが悪いせいでしょ!? 私のせいじゃない!」
夫は憤るように眼を眇める。
「じゃあ,言わせてもらうけど,君は一回着ただけでクローゼットにある服は何着あると思っているんだ。通販だってそうだよ。いらないものをどんどん買っていて,少しは節約したらどうなんだ!?」
「……なによ,そんなこと」
「そんなことじゃないだろ? だいたい君だって俺をお金を運ぶロボットとしか見ていないだろ」
「そんなことないわよ。私はあなたのことを――」
「仕事辞めてきたよ」
「――えっ?」
思わず素っ頓狂な声が上がる。
「だから,仕事を辞めてきたといったんだ。君が大変なのは分かっていたからね。仕事ばかりかまけてすまない。これからは俺が家のことをするから,今度は君が働いてくれ。そうすれば満足なんだろ?」
辞めてきた? 何を言っているんだこいつは。とっくにもう馬鹿の範疇を超えている。どうして相談もなしにそんなことができるのだろうか。
「――離婚よ」
「なんだって?」
私は馬鹿な奴に一々説明するのが面倒くさくて,わざわざ同じ言葉を繰り返したくもなかった。出ていく準備はしていたので,荷物と子どもを持ったまま家を後にした。あとあと他の荷物は取りに行く予定だが,あまり気が進まない。夫は私の言ったことを冗談だと思っているのか,テレビをつけてお笑い番組を観ながら笑っていた。こんな人間のいる家にもう一度こないといけないと思うと,身震いさせした。
妻が出ていったのを見計らって,俺はあるところに電話を掛けた。
「あ,もしもし。……ああ,うまくいったよ。……意外に単純だったね,うちのも。……うん,じゃあ,またかけるね……。……うん,愛してるよ」
妻から別れを切り出させるためにわざと芝居をうってみたのだけれど,意外に簡単に騙されたのであっけなかった。慰謝料を請求されるだろうけれど,俺の年給じゃあそこまで多額の慰謝料は払えないと判断されるだろうから,そこまで怖くはない。
あの女もそこまで馬鹿じゃないだろうから,裁判まではいわずに示談で終わるだろう。とりあえず,あの女とはすぐに別れかったから,まあこれで一件落着といったところだろうか。
それにしても,ロボットね。うまい喩えを思いつくもんだ,うちの妻も。会社に勤めていて,ルーティン化されている生活を長年続けていると,まるで自分がロボットなのかと思うときがある。俺だって人間だと意見しても,上からは跳ね除けられる。一時我慢すればいいというだろうが,結局は上司に媚びるだけの要領のいいやつが,上がっていく世の中だ。
人生なんてそんなもんだよ,ほんとに。
それにしても,あれだけ渋っていたあいつも,最後に口火を切ったのはお金のことだったな。あれだけ仕事よりも家庭を優先してよ,とか言っていたくせに,いざ辞職したなんて嘘をついたらころっと意見を翻した。
あいつも俺をロボットとしか見ていなかった。ただそれだけのことだったんだろうな。




