第十章 王都ラフィオールの光
馬車で四日。
平原を抜け、丘陵を越え、橋を渡って、俺たちは王都ラフィオールへと辿り着いた。
城門の上に、巨大な王家の旗がはためいていた。深紅の地に、銀色の十字と、二頭の獅子。
城門をくぐると、石畳の大通りが、まっすぐ王城へと延びていた。
俺は、馬車の窓から外を眺めていた。
驚いたことに、王都は、想像していたほど美しくはなかった。
いや、建物そのものは、立派だった。石造りの五階建てが連なり、彫刻の入った噴水があり、彩色されたガラスの窓が、陽光を反射していた。
けれど、街の匂いが、おかしかった。
不思議な、酸っぱい匂いと、何かが腐っているような匂いが、街全体に薄く漂っていた。
ヴァルターが、俺の横で、低く言った。
「市場の野菜が、傷んでおります。倉庫の在庫も、半分以上が流通せず、奥で腐っているとの噂が」
俺は窓の外を、もう一度、注意深く見た。
通りの脇に、市場があった。
露店が並んでいたが、並べられている野菜は、どれもしおれていた。葉物は黒ずみ、根菜は皺が寄っていた。値段は驚くほど高く、買い物客は険しい顔をしていた。
ヴァルターは、小声で続けた。
「物価が、この三年で三倍になりました。賃金は、ほとんど上がっておりません」
「貧民街は、どこだ」
「裏通りに、入ります。普通の客人はご案内しないのですが」
「見せてくれ」
ヴァルターは、御者に短く命じた。
馬車は大通りを外れ、細い裏路地へと入った。
裏路地に入った瞬間、空気が変わった。
石畳が砕け、汚水が流れていた。建物の壁には、苔と煤がこびりついていた。
道端に、子供が座り込んでいた。痩せた、目の落ち窪んだ子供だ。彼の隣には、彼の母親らしき女が、立てない様子で倒れていた。
俺は、馬車を止めさせた。
降りて、その子の前に膝をついた。
子供は、俺を見上げた。
目に、光がなかった。
俺は、馬車の荷物の中から、お土産用に持ってきていた里芋を一袋取り出した。
子供に渡した。
子供は、芋を受け取って、すぐには食べなかった。
代わりに、自分の母親の口元に、その芋を持っていった。
母親は、目を、開けようとした。けれど、もう、まぶたを上げる力が、残っていなかった。
子供は、母親の口に、芋を、少しずつ、押し込んだ。
彼の指は、痩せて、骨が浮いていた。爪は、土と垢で、黒ずんでいた。
母親の唇が、わずかに、動いた。
咀嚼の力は、もう、なかった。それでも、彼女は、芋の欠片を、口の中で、転がしているようだった。
子供は、母親の頬を、撫でた。
その仕草が、まだ六歳か七歳のはずなのに、まるで、長年連れ添った夫婦のように、慣れていた。
俺は、目を逸らした。
涙が、出そうになった。
馬車に戻った俺は、ヴァルターに、低い声で告げた。
「すぐに、宮殿へ。王に会う」
「直訴を、なさるおつもりで」
「ああ」
ヴァルターは、しばらく黙っていた。
それから、深く一礼した。
「承りました。辺境伯閣下から、貴殿が直訴を望めば、その権利を保証するとの言葉を、いただいております」
俺は、その言葉を、半分しか聞いていなかった。
頭の中では、すでに、改革案が組み上がりつつあった。
倉庫の中で腐っている食料を、すぐに流通させる。先入先出の原則を、徹底する。市場で価格を吊り上げている中間業者を、特定する。貧民街への食糧配布ラインを、作る。
すべては、商店街のうちの店の、規模を巨大にしただけの話だ。
馬車が、王城の正門をくぐった。
謁見の間で、俺は、若き国王アルフレッドに拝謁した。
国王は、二十代半ばに見えた。痩せていて、頬がこけていた。冠は重そうだった。
彼は、玉座から立ち上がり、俺の前まで降りてきた。
驚いたのは、彼が俺の前で、深く頭を下げたことだった。
「タドコロ・ショウタ殿」
彼の声は、震えていた。
「どうか、我が国を、お救いください」
謁見の間には、宮廷の重臣たちが、ずらりと並んでいた。
彼らの目の中には、警戒と、藁にもすがる絶望と、嘲りとが、入り混じっていた。
俺は、国王の前に膝をつき、頭を下げ返した。
「陛下、ありがたきお言葉。ただし、商人として、契約はきちんとさせていただきます」
「望むものを、何なりと」
「では、一つ」
俺は顔を上げた。
「俺に、王都の倉庫と、市場の運営権を、半年間、貸してください。半年で、流通を立て直します。失敗したら、すべての権利を返上し、王都を去ります」
謁見の間が、ざわついた。
重臣の中から、一人の老人が、声を上げた。
「陛下、お考え直しを。素性のしれぬ異邦人に、王都の流通を任せるなど」
「老体、口を慎め」
国王が、初めて、強い声を出した。
謁見の間が、しんと静まった。
国王は、俺をまっすぐ見つめた。
「タドコロ殿、貴殿に、半年の権限を授ける」
「ありがたく」
俺が頭を下げると、謁見の間の隅で、誰かが、ゆっくりと拍手をした。
その音は、嘲るような響きを持っていた。
俺は、顔を上げて、その方を見た。
謁見の間の一番奥、王の右側の最も高い段に、銀髪の男が立っていた。
背が高く、痩せ、薄い唇に微笑みを浮かべていた。
その顔は。
その声は。
黒田蓮、そのものだった。
いや、違う。
黒田はこの世界にはいない。これは、別人だ。けれど、顔も、骨格も、声の質も、立ち姿の癖も、すべて、黒田と同一だった。
男は、ゆっくりと俺に近づいてきた。
胸に、財務大臣の章を下げていた。
「初めてお目にかかります、タドコロ殿」
彼は、優雅に一礼した。
「私の名は、ダルシム・カラスバーグ。当王国の財務を、預かっております」
彼は、顔を上げて、俺を見た。
目だけが、笑っていなかった。
「数字で測れぬものを、私は信じません」
彼は、低い声で続けた。
「あなたの〈目利き〉も、所詮は感覚。再現性のないものは、システムにはなれません」
俺は、彼の顔を、しばらく見つめていた。
そして、低い声で、聞き返した。
「あんた、どっかで会ったことあるか」
ダルシムは、わずかに首を傾けた。
「初対面のはずですが」
彼の口元が、わずかに、笑った。
その笑い方も、黒田と同じだった。




