神童の噂
初めての執筆となります。
時代考証などが甘い部分がありますがエンターテインメントとしてお楽しみください。
※1-5話を納得のいく形に改稿しました。
既に目を通していただいた皆様も再度ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
天文十一年(一五四二年)の秋。与六は九歳になった。
晴康のもとで学び始めて一年半が経っていた。
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九歳の与六の日常はこうだ。
朝は老婆の家を出て、晴康の屋敷へ向かう。
道のりは半刻(約一時間)。
朝の対馬の道は、山の霧が深い日と、海の光が眩しい日が交互に来る。
その日の天気と風の方向を、歩きながら確認する。
晴康の屋敷に着くと、まず掃除だ。
稽古が始まる前に、部屋を掃き、庭の落ち葉を拾う。
これは俺が自分から始めたことで晴康が「やれ」と言ったわけではない。
しかし——師匠の家に通う弟子が、師匠の家の掃除をするのは当然だと思った。
晴康は最初の日に少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。それ以来、毎朝の掃除が日課になった。
読み書きと算盤の稽古が二時間。
その後、港へ行って荷の動きを見る。
昼は老婆の家に戻って飯を食う。
午後は島のどこかを歩く。
夜は与七と情報を共有する。
この日課を、一年半続けた。
晴康の稽古は最初、読み書きと算盤だけだった。
しかし半年後から、交易の実務も教わるようになった。
文引の仕組み。歳遣船の管理。朝鮮との外交文書の形式。
宗家がどのように交易の許可を管理し、朝鮮側がどのように対応するか——その仕組みの全体を、晴康は丁寧に教えてくれた。
それから朝鮮語だ。
朝鮮の老商人との出会いがきっかけで、晴康が朝鮮語の稽古も加えてくれた。老商人は月に一度港に来るたびに与六と話し、少しずつ語彙と文法を教えてくれた。
現代の韓国語とこの時代の朝鮮語には違いがあるが、根幹は同じである。
俺の中にある現代語の記憶が、この時代の言葉を吸収する速度を大幅に上げてくれた。
九歳になる頃には、俺の朝鮮語は——日常の言葉のやり取りなら不自由なく話せるレベルになっていた。
しかし俺はそれを、あまり外に出さなかった。
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ある日の稽古の後、晴康が言った。
「与六。近頃、港の商人たちがお前の話をしておる」
「どのような話にございますか」
「九歳で朝鮮の言葉を話す子供がいる、とな」
「……恐れ入ります」
「算盤も、今では儂より速い」
「滅相もないことにございます」
「嘘をつくな」
晴康はかすかに笑った。
「お前が加減しておるのは、最初からわかっておった」
俺は少し固まった。
「……お気づきでございましたか」
「最初からじゃ。ただ——お前が加減する理由も、わかっておった。急に全部できてしまうと人は恐れを抱くだろう。少しずつ「できるようになっていく」方が、人は安心する。お前はそれをわかってやっておった」
「……はい」
「悪いことではない」
晴康は続けた。
「ただ——儂の前では加減せずともよい。本当の力を見せてみろ。今日の算盤の問題を、全部解いてみろ」
俺は算盤に向かった。
今までは解き方まで計算していた。
一問を二分かけて解くところを、本当は十秒でできる。
しかし「伸びる子供」として見せるために、意図的に遅くしていた。
今日は——本当の速さで解いた。十問、全部で二分もかからなかった。
晴康はしばらく黙っていた。
部屋に静寂が落ちた。庭の木の葉が風に揺れる音だけが聞こえていた。
「……お前は何者じゃ」
「九歳の子供にございます」
「その答えを聞いているわけではない」
晴康は静かに言った。
俺を見る目が——これまでとは違う。品定めの目でも、師匠の目でもない。
何か根本的なものを、見極めようとしている目だ。
「お前は——この島をどうするつもりじゃ」
少し考えた。晴康には——本当のことを言う、と決めていた。
策ではなく、本心を。
「天下の鍵にしとうございます」
晴康の目が、わずかに動いた。
「天下の鍵、か」
「朝鮮と九州の間に立つこの島が本来持つべき力を、存分に発揮させとうございます。
今は縮んでおります。縮んでおるのは、仕組みが壊れておるからにございます。
朝鮮との通交が本来より制限されている、それを正せば——対馬はもっと大きくなれます。
大きくなった対馬が、九州を動かし、やがて天下を動かす」
晴康はしばらく俺を見ていた。長い沈黙が落ちた。
この沈黙の意味を、俺は考えた。
驚いているのか。疑っているのか。それとも——何か別のことを考えているのか。
晴康の顔からは何も読めなかった。長年の修行で磨かれた感情を外に出さない顔だ。
しかし——目の奥に、何かが動いているのはわかった。
「……お前を、儂の右筆見習いにする」
「右筆見習い、にございますか」
「宗家の文書の写しを取る仕事じゃ。帳場にも出入りできるようになる。俸禄はわずかしか出せぬが——帳場の全ての帳面を読む権限を与える」
俺は深く頭を下げた。
「かたじけのうございます」
「ただし条件がある」
「はい」
「儂には嘘をつくな。出来ることの加減もするな。お前の本当の力を儂には見せろ」
「……承知いたしました」
「もう一つじゃ」
「はい」
「何をしても良い。この島のことを、この島の民を想え。」
俺は少し間を置いた。
「……はい」
その約束は——本心から言えた。
この島が好きだ。令和の対馬と、この天文年間の対馬は、外見は全然違う。
しかし——山の形が、海の色が、潮の匂いが——同じだ。
俺が転生をしたあの日も、対馬の空はこんなに青かったのだろうかと、時々思う。
野望の算段だけで動くつもりはない。
この島を豊かに強くする。これから積み上げていくであろう成功はそのための手段である。
手段が目的になってはいけない。
「右筆見習いとして、まず何をすればよろしゅうございますか」
「明日から帳場に入れ。所蔵している帳面は全て読め。写しを取りながら、全ての数字を頭に入れろ」
屋敷を出るとき、秋の風が吹いていた。
(動き始めた)
五歳で転生してまもなく砂浜で「天下を取る」と決めた日から、四年が経つ。
老婆の家で麦飯を食い、帳場の石段に座り島を歩き続けた四年間が、今ここに繋がった。
まだ九歳だ。しかし——九歳の今日確実に一段、階段を上った。
その夜、与七に報告した。
「晴康様の右筆見習いになった。明日から帳場に入れる」
与七はしばらく黙った。
「……早かったな」
「思ったよりは早かった。晴康様が俺の加減にお気づきだったわ」
「最初からか」
「そうだ。恐ろしい方だ」
「だが——信頼は一定勝ち取ったんだろう?」
「ああ。そうでなければ、右筆見習いにはしてくださらない」
「帳場に入ったら対馬の交易が握れるか」
「ああまずは全部が見える。銅の差分も、硫黄の動きも——数字で全部追えるようになる」
与七は少し考えた。
「兄貴が帳場で動く間、俺は海で力を蓄えるよ。来月からはもう少し遠くまで行ってみる。壱岐の方まで」
「気をつけろ」
「わかってる」
与七が出ていった後、俺は夜の星を見た。
電灯のない対馬の夜空に、星がびっしりと詰まっている。令和では見られない星の数だ。
空気は澄んでいて汚れがない。天の川が、肉眼で見える。
(九歳か)
転生前の二十七年が、今の九年と重なる。
合わせれば三十六年分の人生がこの体に入っている。
使い切る。全て使い切る。
この星空の下で、俺は静かに決めた。
しかしその夜、もう一つのことを考えていた。
人間の習性は転生前も転生後も変わらない。
数字を見れば次の手が見える。人の動きを読めば三手先が読める。そうあろうと努めてきた。
しかし晴康は——その「裏側」を見ていた。
打算だけで動く人間の弱さを、六十五年生きてきた老人は知っている。
算段は正しくても、人の心が見えていなければ動かない場面がある。
計画や利益は見合うものでも、義理が立っていなければ人は動かない場面がある。
俺にはその「見えにくいもの」が——まだ足りないかもしれない。
将盛様の「頼む」が胸に残っている。
老商人との失敗が記憶に残っている。
それらは全部——意図した算段の外側にあるものだった。
そのことを、俺は今夜改めてはっきりと自覚した。
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【宗晴康】 天文十一年・秋 晴康の屋敷
稽古が終わった後、晴康は一人で部屋に残った。
与六が帰っていった廊下を、しばらく見ていた。
「天下の鍵」。
あの子供が言った言葉だ。
九歳の子供が「天下の鍵」という言葉を口にした。
しかし晴康が驚いたのは——その言葉が、大言壮語に聞こえなかったからだ。
大言壮語の根本は空虚である。
しかしあの子供の目の奥にあるのは炎のような野心であり、深い水のような確信だった。
(何者じゃ)
晴康は何度目かのその問いを、自分の中に立てた。
長年僧侶として生きてきた。
人を見る目は磨いてきたつもりだ。しかし——あの子供の目は、今まで見てきたどの人間の目とも違う。
野心がある。しかし野心だけではない。誠実さもあるだろう。しかし誠実だけでも動いていない。
賢い。しかし賢さを誇らない。およそ子供路は想えないほど精神的にも強いだろう。しかし力を見せない。
そして——何かを「知っている」目だ。
晴康は長年、人の目を見続けてきた。死を覚悟した人間の目。愛する者を失った人間の目。
何十年もかけて真理を求めてきた人間の目。それらの全てに共通する何かが——あの子供の目にある。
それは「経験の重さ」からくるものだと思っていた。
九歳の子供には、積み上げられるはずのない経験の重さが、あの目の奥にある。
それが何であるかは——晴康にはわからない。わからなくていいとも思っていた。
何者であれ——この島に来た。この島のために動こうとしている。それだけで、十分だ。
右筆見習いにする、と言ったとき、子供は驚かなかった。
まるで——そうなることがわかっていたかのように。
儂はもう六十五歳を過ぎた老人だ。この体がいつまで持つかはわからない。
しかし——あの子供に全部を任せることが出来れば対馬はまだ大きくなれるかもしれない。
その思い始めている思いが——晴康の胸の中にあった。
秋の風が、屋敷の庭を通り抜けた。庭の松が、静かに揺れている。
儂はどのくらいの時間を、まだ持っているのか。
わからない。しかし——時間が短ければ短いほど、急がなければならない。
急ぐな、とあの子供に言った。
しかし儂自身は——急かなければならない立場にある。
その矛盾を抱えながら、晴康はしばらく、動かずにいた。
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