豊館
初めての執筆となります。
時代考証などが甘い部分がありますがエンターテインメントとしてお楽しみください。
※1-5話を納得のいく形に改稿しました。
既に目を通していただいた皆様も再度ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
天文十年(一五四一年)の春。与六は八歳になった。
晴康のもとで読み書きと算盤を学び始めて、三ヶ月が経っていた。
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晴康の教え方は、独特だった。
文字を書かせる前に、まず声に出させる。
「書くことは、まず読めねばならぬ。読めることはまず聞けねばならぬ」というのが晴康の考え方だった。
算盤を触らせる前に、まず頭の中で計算させる。
「手より先に頭を動かせ。手は頭が正しく動いているときに補助として使うものじゃ」という口癖があった。
この教え方は——俺にはどうやら適していたようだ。。
現代で広告代理店で働いていた頃、俺は「計算の前に仮説を立てる」ことを習慣にしていた。
数字を見る前に「こういう結果になるはずだ」と予測してから数字を見る。
予測と結果がズレたとき、そのズレの意味を考える。晴康の教え方は、その思考法と根本的に同じだった。
俺には二十七年分の知識がある。だから実際には全部すでに「できる」。
しかし晴康の前では、少しずつ「できるようになっていく」という見せ方をした。
一度に全部できてしまうと、あまりにも不自然だからだ。
この時代の八歳の子供が、ある日突然大人以上の算盤の腕を見せれば——晴康は警戒する。
信頼を築く前に「この子供は何者か」という問いが生まれる。それは俺に不利だ。
(急くな。少しずつだ)
これは転生前の俺が仕事で学んだことだ。最初は「できる人間」ではなく「伸びる人間」として見せる方が、長期的な信頼が築ける。その方が可愛いからな。人間が警戒や嫌悪感を抱くのは根本的に「理解ができない」人間だよ。
晴康には「伸びる子供」として見てもらう。
ただし——完全に隠しきることはできない。
俺の「伸び方」は、普通の子供の「伸び方」より速い。あえてそう見せるようにした。
晴康が「この子供は普通ではない」と気づくのは、時間の問題だ。
「何者かわからない存在」として見てもらうのではなく「優秀な子供」として認知させる。
その匙加減を、毎日の稽古の中で考えながら動いていた。
ある日の稽古の後、晴康が言った。
「与六。今日は少し遠くへ行く。ついてまいれ」
「はい」
連れていかれたのは、厳原の西側の丘の麓にある、こぢんまりとした屋敷だった。
金石城から離れた、目立たない場所にある屋敷だ。
警備の人間が二人、外に立っている。
中に入っても普通の屋敷の警備より少し多い。
何かを——あるいは誰かを——守っている配置だ。
「あの屋敷は——」
「豊館じゃ。宗将盛殿が起居されておる」
俺は少し止まった。豊館。宗将盛が幽閉されている場所だ。
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宗将盛という人物がいる。
生まれは永正六年(一五〇九年)。
一五四一年現在で三十二歳だ。宗氏の十五代当主として対馬を治めていたが、天文八年(一五三九年)に家臣団の反発を受けて追放された。
追放の理由は複雑だが、積極的な対外政策が家中の保守派と衝突したのが大筋の見解だ。
将盛は朝鮮との通交をより積極的に広げようとしていた。
歳遣船を増やして、交易の品目も増やしてこの島の民が食えるようにしようとしていた。
しかし交易を一手に管理していた守護代・佐須盛廉にとって、通交が拡大すれば自分が私的に握っていた交易の利益が薄まる。佐須には将盛を追い落とす動機があった。
家中の保守派を巧みに動かして、将盛を追放させた。その後に「担ぎ出した」のが晴康だ。
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晴康が将盛に会わせようとしている——これは何を意味するのか...。
豊館の庭に入ると、一人の男が縁側に座っていた。三十代。細身だが、背筋が張っている。
庭の梅の木を眺めながら、何かを考えている様子だった。着ているものは質素だが清潔で、幽閉されている人間が身につけているものだとは思えなかった。
「……晴康殿」
男が立ち上がった。声は穏やかだが、どこか張りがある
。二年間の幽閉でも、芯が折れていない人間の声だ。
「将盛殿。今日は子供を連れてまいりました」
将盛は俺に視線を移す。
上から下まで、ゆっくりと。しっかり値踏みされているな。
追放された当主が、見知らぬ子供を値踏みしている——その構図自体が、この人の本質を表していた。
幽閉されていても、習慣として信用がおけるかを確認する必要があるのだろう。
「名は」
「与六と申します」
「いくつじゃ」
「八歳にございます」
「八歳か」
将盛は縁側に腰を下ろした。俺は庭に立ったまま、将盛を見た。
この人の目の中にあるものが——なんなのか、考えた。怒りではない。
悲しみでもない。もっと言葉に出来ない何かだ。
二年間、この場所に押し込められてきた人間である。動けない状況の中でずっと何かを考え続けてきたのだろう。
「港を毎日見ておるそうじゃな」
「はい」
「何が見えた」
「対馬が、朝鮮と博多の間に立って荷の仲介をしておることが見えました。ですが——今はその仲介が、本来より小さくなっておると思います」
将盛は少し前のめりになった。
「なぜそう思う」
「壬申約条で歳遣船が半分に減ったと聞きましたが...港の船の動きを見るとそれだけが理由ではないような気がいたします。もっと別の理由でも、荷が小さくなっている感じがいたします」
「別の理由とは」
「まだわかりませぬ。帳面を直接見たことがございませぬゆえ。——帳場を見ていると、荷の動きが、本来あるべき量より少ない月がございます。その少なさが、壬申約条の制限だけでは説明できぬ気がいたします」
将盛はしばらく俺を見た。それから晴康を見た。
「面白い子供ですな」
「そうでしょう」
晴康は静かに笑った。
将盛は俺に向き直った。
「与六。一つ聞く」
「はい」
「お前はこの島を、どうしたいと思う」
俺は少し間を置いた。八歳の子供がどう答えるかではなく、俺という人間が、今この人に何を伝えるべきかを考えた。
「大きくしとうございます」
「大きく、とは」
「今より多くの船が港に入り、今より多くの荷が動いて、今より多くの人が食えるようになることでしょうか。この島は海で生きております。海が縮んでおる間は、島も縮んでおります。海を広げれば、島も広がります」
将盛はしばらく黙っていた。
縁側の外で、梅の木が風に揺れていた。
春の梅は、もう花が散って葉が出始めていた。その葉の揺れ方を、将盛はじっと見ていた。
少しの時間が経ち、静かに言った。
「……儂も、かつてはそう思っておった」
「はい」
「儂が当主であったとき、朝鮮との通交をもっと広げようとした。歳遣船を増やして、交易の品目も増やして、この島の民が飢えることがないように。それが——できなんだ」
「それを——佐須様が止められた」
将盛は少し動いた。
「……知っておるか」
「港で聞こえてくる話から、おおよそのことは」
「そうか」
将盛は静かに言った。
「あ奴には、島を豊かにしようという気はないのだろう。現状の枠組みの中で、己だけが利を取ることしか考えておらぬ。そのためなら、島の民が食えなくなっても構わぬと思っておる」
将盛の声に、初めて感情が乗った。静かな感情だ。怒りとも悲しみとも違う。
長い時間をかけて、怒りが静かに沈殿したような——そういう感情だ。
「将盛様のやりたかったことは——私が実現しましょう」
部屋が静まり返った。
八歳の子供が口にした言葉に将盛は少し驚いた顔をした。
晴康は——表情を変えなかった。
「……お前が」
「時間はかかります。十年か、もっとかかるかもしれませぬ。ですが——必ず実現いたします」
俺は将盛の目を見ながら言った。「俺がやります」という言葉に、嘘はなかった。
八歳の子供の大言壮語ではなく、この時代に転生してきた時に考えたことを、今この人の前で言葉にしている。
将盛はしばらく俺を見た。長い沈黙だった。庭の梅の葉が、静かに揺れていた。
その目の中に、ゆっくりと何かが変わっていくのが見えた。
「信じてみようとしている」という状態に少しずつ変わっていく。
「……頼む」
将盛は短く言った。
たった二文字である。
しかし——その重さは、どんな長い言葉よりも重かった。
二年間、当主を追われながら幽閉され、この島のことを思い続けてきた人間が、八歳の子供に「頼む」と口にした。その重さが胸に落ちた。
豊館を出るとき、振り向くと将盛が縁側から視線を動かさず、真っ直ぐにこちらを見ていた。
帰り道、晴康が静かに言った。
「将盛様は——本当に島のことを思っておられる」
「はい。見えました」
「見えたか」
「あの方の目にはまだ諦めていないものがございました。島のことを、本当に思っておるから——まだ諦められないのだと存じます」
晴康はしばらく黙った。
「……よう見た」
「晴康様は——将盛様に、どういうお気持ちで会わせてくださったのですか」
晴康は少し間を置いた。
「お前が本物かどうかを、確かめとうした」
「将盛様の反応でわかる、ということにございますか」
「将盛様は人を見る目が確かじゃ。その方が「頼む」と言われた——それが答えであろう」
俺は黙った。
「頼む」という端的な言葉の重さを、まだ胸の中で感じていた。
この言葉を、必ず実現しなければならない。与七以外と初めて交わした約束である
。
その夜、与七に報告した。
「豊館に参った。将盛様にお会いした」
「どんな人じゃった」
「この島のことを本当に思っている。様々な言葉から実感したよ」
「将盛様との関係は、将来どう使う」
「利用したくはないんだがな」
与七は少し黙った。
「……そうだね」
「将盛様は現状では何もできないが
俺たちが動いたとき、この人の存在が大きな力になる。今は繋がりを大切にしておく。それだけだ」
「将盛様の「頼む」という言葉が、兄貴を縛っているのか?」
俺は少し驚いた。与七がそういう聞き方をするのは、珍しかった。
「縛っている、とは」
「仮説と計算で動く兄貴が、「頼む」という言葉を受け取った。その言葉が、計算より重くなることがある——そう思っているんだよ」
俺はしばらく黙った。
「……なるかもしれない。しかし——それでいいと思っている」
「どうして?」
「計算だけで動く人間は、いつか人の信用を失うだろう。
将盛様の「頼む」が計算より重くなるなら——それは、俺がちゃんと人間でいる証拠でもある」
与七は少し間を置いた。それから、静かに頷いた。
春の対馬の夜は、少し暖かい。将盛の「頼む」という言葉をまだ頭の中で反芻していた。
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【宗将盛】 天文十年・春 豊館
子供が帰った後、将盛は縁側に座ったまま、しばらく動かなかった。
「将盛様のやりたかったことを——私が実現しましょう」
その言葉が、頭の中でずっと鳴り続けていた。
馬鹿げている。
八歳の子供に「頼む」と言った。正気の沙汰ではない。しかし——言葉は自然に出た。
なぜか。
将盛は考えた。
あの子供の目が——八歳の目ではなかった。もっと長く、もっと深く、何かを見てきた人間の目だ。
将盛は対馬の当主として、多くの人間を見てきた。謀略を企む者の目。主君に忠義を誓う者の目。
恐れている者の目。欲している者の目。
しかし——あの子供の目は、そのどれでもなかった。
静かで、深くて、計算と情熱が同時に宿っている目だ。どちらか片方ではない——同時にある。
そういう目を持つ人間を、将盛はこれまで一人しか知らない。
晴康だ。
あの子供の目は——晴康の目に似ている。
いや、正確には違う。晴康の目には長い年月が積み重なっている。
あの子供の目には——年月ではない別の何かが積み重なっている。何なのかは、将盛にはわからない。
しかし——本物だ、ということだけは、わかった。
追放されて二年が経つ。この庭の梅が、二度の冬を越えた。
最初の冬は——怒りだった。佐須への怒り。不当に追放されたことへの怒り。この怒りが消えないうちは、儂はまだ本物だ、と思っていた。
しかし怒りは——いつかどこかで、静かに消えた。
代わりに残ったのは——待つ、という感覚だった。何かが変わるのを、待つ。その「何か」が何かは、わからなかった。
しかし今日——「何か」が来たかもしれないと素直に思った。
八歳の子供に「頼む」という言葉をかけた。
「頼む」という言葉を、将盛はこれまで何度口にしてきたのだろうか。
家臣に頼む。晴康に頼む。しかし今日の「頼む」は——。
八歳の子供を頼みにしたことは、不思議と恥ずべきことではなかった。
梅の木が、春の風に揺れていた。
来年も、この梅を見るかもしれない。しかし——今日から、この梅の見え方が少し変わった気がした。
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