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「何も成し遂げていない」と婚約破棄された書記官は、引き継ぎ目録だけ置いて静かに去りました。——王宮の帳簿が崩壊したのはその翌日です

作者: 夢見叶
掲載日:2026/02/18

「——リーリア・ノート。君との婚約は、本日をもって破棄する」


 王宮の大広間に、アルノー・クレストの声が響いた。

 夜会の喧騒が嘘のように静まり返る。シャンデリアの灯りが、正装の貴族たちの驚いた顔を照らしていた。

 アルノーの隣には、淡い金髪を巻いた侯爵令嬢——マリエル・フォン・ブランシュが、勝ち誇った笑みを浮かべている。


「理由をお聞きしても?」


 リーリアは静かに訊いた。怒鳴りも泣きもしない。ただ、手元の葡萄酒のグラスをテーブルに置いただけだった。


「君は五年も書記局にいて、何も成し遂げていない。家柄も財力も乏しい子爵家の三女を妻に迎えるなど、クレスト家の将来を考えれば愚策だ」


(ああ、またこのパターンか)


 前世の記憶が静かに蘇る。

 日本の小さな会社で十二年間経理をやった。毎日終電、休日出勤、有給未消化。それでも上司に言われたのは『お前の代わりなんていくらでもいる』だった。

 ——で、過労死した。

 転生して宮廷書記官になって、また五年間地味に働いて、また『何も成し遂げていない』と言われている。


(まあ、慣れてるけどね)


「承知いたしました」


 リーリアは、夜会用の小さな鞄から一冊の薄い冊子を取り出した。


「これは書記局第三課の引き継ぎ目録です。台帳の保管場所、月次処理の手順、年度末の照合方法をすべて記載しています。後任の方にお渡しください」


 大広間がざわめいた。

 婚約破棄の場で泣くでも怒るでもなく、引き継ぎ書類を差し出す女など、誰も見たことがない。


「……は?」


 アルノーが目を丸くする。


「引き継ぎ、ですか」


「ええ。私がいなくなれば、当然どなたかが業務を引き継ぐ必要がありますので。三課の台帳は特殊な分類体系を使っておりますから、目録なしでは半日と持ちません」


「そんなものは知らん。今はそういう話をしているのではない」


「失礼。では、こちらは書記局長にお届けしておきます」


 リーリアは冊子を鞄に戻し、小さく一礼した。


「五年間、お世話になりました。アルノー様のご多幸をお祈り申し上げます」


 振り返らず、大広間を出た。

 背後でマリエルの甲高い笑い声が響いた気がしたが、もう関係ない。


(さて、明日から何をしよう。久しぶりに有給でも使おうかな——あ、この世界に有給なかったわ)


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 大広間を出て、月光の差す回廊を歩く。石畳に革靴の音だけが響いていた。

 ——と、角を曲がったところで足が止まった。


 壁にもたれるようにして、一人の男が立っていた。


 黒髪に鋼色の瞳。宮廷の監査官の制服を隙なく着こなした長身の男——ヴィクトル・ゼーレン侯爵。

 宮廷で『数字の亡霊』と呼ばれる無表情の監査官。


「……ヴィクトル様」


「退勤か」


「ええ、まあ。本日は色々ありましたので、早退ということで」


「聞こえていた」


 リーリアは少し困った顔をした。


「……お恥ずかしいところを」


「恥ずかしい?」


 ヴィクトルが、わずかに首を傾げた。


「婚約破棄の場で引き継ぎ目録を出す人間を、俺は初めて見た。——恥ずかしいのは相手のほうだ」


(この人、褒めてるのかな。表情が全く読めない)


「ノート書記官。一つ、訊きたい」


「はい」


「書記局を辞めるつもりか」


「……そうですね。アルノー様の影響力を考えると、三課には居づらくなるかと」


「なら、俺のところに来い」


 リーリアは目を瞬いた。


「……監査局、ですか?」


「三年間、毎日同じ時刻に廊下ですれ違っていた。——俺が偶然だと思うか?」


「え」


「退勤時刻の鐘が鳴ると、必ず三課の廊下を通った。君がいつも最後に灯りを消して出てくるからだ」


 リーリアは完全に言葉を失った。

 確かに、三年間、毎日同じ時刻にこの人とすれ違っていた。

 いつも「お疲れ様です」「ああ」だけの、たった二言の会話。


「君の台帳を読んだことがある」


「……読んだ、のですか。あの台帳を?」


「監査の過程でな。——正直に言う。あれは芸術品だ」


(芸術品って、あの地味な経理台帳が?)


「分類の精度、照合の速度、数字の一貫性。あの水準を維持できる書記官は、この王宮に君しかいない。——その人材を、あの男は『何も成し遂げていない』と言った」


 ヴィクトルの鋼色の瞳に、微かな怒りが宿っていた。


「……ありがとうございます。でも、それは買いかぶりです」


「買いかぶりかどうかは、監査局で証明すればいい。——来い、ノート書記官。君の能力が正当に評価される場所がある」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 翌日から、リーリアは監査局第一課に異動した。

 机と椅子と、山のような帳簿。それだけの部屋。

 ——天国だった。


(前の部署より静かだし、残業もなさそうだし、何よりアルノー様がいない。最高かな?)


 ヴィクトルの直轄部署は少数精鋭で、全員が数字に強い変わり者ばかりだった。

 リーリアが前世の複式簿記の概念を応用して帳簿を整理すると、ヴィクトルの部下たちは目を丸くした。


「ノートさん、これ、何ですか? 貸方と借方が一目で対照できるんですけど……」


「前の部署で使っていた方法を少し改良しただけです」


「少し? これ、照合作業が三分の一になりますよ?」


 リーリアは黙々と仕事を続けた。

 余計なことを言わない。求められたことをやる。定時の鐘が鳴ったら帰る。

 それだけのことだった。


 ——ただ一つ、変わったことがあるとすれば。

 退勤時に廊下ですれ違うのではなく、同じ部署の出口で「お疲れ様です」を言うようになったこと。


 ある日、リーリアが帳簿を整理していると、ヴィクトルが無言で紅茶を置いていった。

 翌日も、その翌日も。

 いつも同じ時刻、いつも同じ温度。


(この人、私の休憩時間を把握している……?)


 お礼を言おうとしたが、ヴィクトルは既に自分の机に戻って数字を睨んでいた。

 鋼色の瞳が帳簿の上を走る姿は、どこか猛禽類を思わせた。


「ヴィクトル様、紅茶をありがとうございます」


「……気にするな。淹れすぎただけだ」


「毎日同じ量を、ですか?」


「…………」


 沈黙。

 部下の一人が小声で「侯爵様、毎朝ポットを二杯分淹れるようになったの、最近ですよ」と耳打ちしてきたが、リーリアは聞かなかったことにした。


 一週間後、監査局の年次報告書の締め切りが迫った。

 膨大な帳簿の照合が残っていて、局員たちが青い顔をしている中、リーリアが前世で叩き込まれた「月次仮締め」の手法を導入した。


「各局の帳簿を月ごとに仮締めしておけば、年度末にまとめて照合する必要がなくなります。作業量は現状の五分の一になるかと」


「五分の一!?」


「前の……いえ、以前勉強した手法の応用です」


 結果、例年であれば二週間かかる年次報告が五日で完了した。

 監査局の歴史上、最速の記録だった。


 報告書をヴィクトルに提出した時、彼は数字を一つ一つ確認してから、ぽつりと言った。


「この報告書、一箇所だけ修正がある」


「えっ、どこでしょうか」


「作成者の欄。『監査局第一課』ではなく、『リーリア・ノート』と書け」


「……それは、慣例に反します」


「慣例は変えるためにある。——君の名前が載るべき仕事だ」


 前世では、二百四十七件の改善案すべてに自分の名前がなかった。

 上司が奪ったから。

 この世界で初めて、自分の名前を書いていいと言われた。


「……ありがとうございます」


 声が少し震えた。泣きはしなかった。けれど、ペンを持つ手がわずかに揺れた。


「ノート書記官」


「はい」


「明日の監査対象、第七局の経理だ。——以前、三課で担当していた範囲と重なる」


「ああ、あの部署ですか。帳簿の付け方に少し癖がありますが、基本的には問題ないかと」


「……問題ないと言い切れるのか」


「はい。少なくとも私が確認した三年前の時点では。ただ——」


 リーリアは少し言葉を選んだ。


「第五局の帳簿には、いくつか気になる数字がありました。食材費の計上が市場価格と乖離しているものが散見されます」


 ヴィクトルの目が、一瞬だけ鋭くなった。


「それは、書記局時代に気づいていたのか」


「……はい。ただ、三課の書記官には報告権限がありませんでしたので、台帳に注記を残すことしかできませんでした」


「注記を」


「日付、金額、差異の比率、参照元の取引記録番号。すべて台帳の欄外に記載してあります」


 ヴィクトルが、珍しく口元を緩めた。


「……引き継ぎ目録と一緒に、その台帳も持ってきているか」


「もちろんです。書記官は自分の記録の写しを保管する義務がありますので」


「やはり君は——」


 言いかけて、ヴィクトルは口を閉じた。代わりに、短くこう言った。


「明日の監査、同行しろ」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 リーリアが書記局を去って一ヶ月。

 王宮の経理は静かに、しかし確実に壊れ始めていた。


 月次の照合ができない。

 年度末の決算準備が進まない。

 各局からの問い合わせが書記局に殺到するが、誰も答えられない。

 引き継ぎ目録は残されていたが、リーリア独自の分類体系を読み解ける人間が、書記局に一人もいなかった。


「——リーリア・ノートが辞めた途端にこれか。あの女、一体何をやっていたんだ」


 書記局長が頭を抱えている、という噂は、すぐに宮廷中に広まった。

 後任として三人の書記官が配属されたが、リーリアが一人でこなしていた業務量は三人がかりでも追いつかなかった。


(まあ、そうでしょうね。前世の十二年と合わせて十七年分の経験が詰まった台帳ですから)


 リーリアは監査局の窓際で紅茶を飲みながら、そんな噂を聞き流していた。

 同情はしない。だって、引き継ぎ目録はちゃんと渡したのだ。読まなかったのは向こうの責任である。


 そして、それと同時にもう一つの噂が広まり始めた。

 ——第五局の食材費に、不自然な金額の計上が大量にあること。

 その不正の裏に、ある伯爵家の名前が紐づいていること。


 クレスト家。

 アルノー・クレストの実家である。


「ヴィクトル様、第五局の帳簿、三年分の照合が終わりました」


 リーリアは、分厚い報告書をヴィクトルの机に置いた。


「結論から申し上げますと、差額は金貨四千二百枚です。食材費を水増しし、差額をクレスト家の関連商会に流していた形跡があります」


「証拠は」


「私の台帳に注記した取引記録番号から、すべて辿れます。日付、金額、承認者の署名。——記録は嘘をつきません」


 ヴィクトルは報告書をめくり、リーリアの緻密な数字の羅列を眺めた。


「……ノート書記官」


「はい」


「承認者の署名欄。ここに名前があるな」


 リーリアはうなずいた。


「アルノー・クレスト。第五局の予算承認権を持つ会計監督官です」


 書記局にいた五年間、リーリアはずっと気づいていた。

 婚約者が横領に関わっていることに。

 けれど報告する権限がなかった。だから、せめて記録だけは正確に残した。

 いつか、誰かが見てくれると信じて。


「——よくやった」


 ヴィクトルの声は静かだったが、確かな重みがあった。


「査問会を開く。陛下に上奏する」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王宮の大査問室。

 半円形の議場に、貴族院の重鎮たちが並ぶ。国王の代理として第二王子が裁定席に着いていた。


 アルノー・クレストは、まだ余裕の表情だった。


「——これは何かの間違いでしょう。クレスト家が横領など、ありえない話です」


「では、こちらをご覧ください」


 リーリアが立ち上がり、一冊の台帳を開いた。


「第五局の食材費計上記録です。三年前の春季、食材費が前年比百五十パーセントに急騰しています。しかし同時期の市場価格は二割下落しております」


 議場がざわめいた。


「差額は月あたり金貨百十七枚。三年間の累計で金貨四千二百枚。この差額の振込先は、すべてクレスト家の関連商会でした」


 アルノーの顔から血の気が引いた。


「そ、それは——台帳の捏造だ! そんな記録は存在しない!」


「存在します。各取引には台帳番号が付されており、原本は書記局の保管庫に現存しています。そして——」


 リーリアは、静かにもう一枚の紙を広げた。


「こちらは承認書の写しです。すべてにアルノー・クレスト様のご署名があります。ご自身の筆跡をお忘れですか?」


 完全な沈黙が議場を満たした。


 アルノーが唇を震わせながら、リーリアを見た。


「お前……。書記局にいた頃から、これを……」


「書記官の仕事は記録を残すことです。私はただ、仕事をしていただけですよ」


 穏やかに微笑んだ。怒りでも恨みでもなく、ただ事実を述べる声で。


「リーリア、頼む。この件は——」


「もう遅いですよ、アルノー様」


 リーリアは、静かに言った。


「引き継ぎ目録はお渡ししましたでしょう? あの夜会の日に。あの中にすべての記録の所在が記載されています。あなたが読んでくだされば、もっと早くお気づきになれたかもしれませんね」


 アルノーの目が見開かれた。

 あの夜、大広間で差し出された薄い冊子。あれを読んでいれば——自分が墓穴を掘っていることに気づけたかもしれない。


「——クレスト伯爵家に対し、金貨四千二百枚の返還命令、ならびにアルノー・クレストの会計監督官職の罷免を裁定します」


 第二王子の声が、議場に響いた。


 リーリアは一礼して、静かに席に戻った。

 その瞬間、隣に座っていたヴィクトルが、小さく——本当に小さく呟いた。


「……見事だ」


◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 査問会の翌日。

 宮廷では三つの噂で持ちきりだった。


 一つ目。クレスト家の当主が国王に謝罪に赴き、アルノーが会計監督官を罷免されたこと。金貨四千二百枚の返還命令は、伯爵家の資産の大半を吹き飛ばす金額だった。


 二つ目。マリエル・フォン・ブランシュが「横領犯の婚約者」の汚名を恐れ、即座に婚約を解消したこと。あの夜会で勝ち誇っていた笑顔が、一ヶ月で消えた。アルノーが「マリエル、俺を助けてくれ」と懇願したが、侯爵家の令嬢は一度も振り返らなかったという。


(因果応報、とは少し違う。あの人は自分で自分の退路を断っただけだ)


 三つ目。地味な書記官だったリーリア・ノートが、実は五年間にわたって王宮の帳簿を一人で支えていた、ということ。


「ノート書記官の台帳がなければ、第五局の不正は永遠に発覚しなかった」

「あの引き継ぎ目録、書記局の誰にも読めないらしいぞ。つまり、あの業務は彼女にしかできなかったということだ」

「クレスト子息は『何も成し遂げていない』と言ったそうだが——」


 そんな噂が飛び交う宮廷の片隅で、リーリアは黙々と新しい帳簿に数字を書き込んでいた。


「——ノート書記官」


 退勤の鐘が鳴った。

 ヴィクトルが、いつものように出口に立っている。


「はい、ヴィクトル様」


「今日も定時か」


「もちろんです。残業は前世で十分しましたので」


「……前世?」


「いえ、何でもありません。独り言です」


 二人で宮廷の回廊を歩く。夕焼けが石柱の間から差し込んで、長い影を作っていた。

 三年間ずっと同じ時刻にすれ違っていた廊下を、今は並んで歩いている。


「ノート書記官」


「はい」


「——いや。リーリアと呼んでいいか」


 リーリアは足を止めた。


「……急にどうされたんですか」


「査問会の後から、ずっと言おうと思っていた」


 ヴィクトルが立ち止まり、正面を向いた。夕日が鋼色の瞳を琥珀に染めている。


「三年間、毎日すれ違うだけの関係だった。俺はそれで良いと思っていた。——君の仕事を遠くから見ていられれば、それで」


「ヴィクトル様……」


「だが、あの夜。あの男が君を切り捨てた夜、初めて気づいた。俺は君の台帳に惚れたんじゃない。——台帳を書いている君に、惚れていた」


 リーリアの頬が、夕焼けとは別の理由で赤く染まった。


「三年間の退勤時刻。——あれは全部、君に会うためだった」


「……それは、監査業務の一環では」


「違う。俺が何千回すれ違っても、一度も声をかけられなかった理由くらい分かるだろう」


「……分かりません」


「——怖かったからだ。君に拒絶されることが」


 リーリアは目を瞬いた。

 宮廷中が恐れる『数字の亡霊』が、『怖かった』と言っている。

 国王の不正すら臆せず暴く男が、書記官一人に声をかけられなかった。


「馬鹿なことを言っているのは分かっている。だが——」


 ヴィクトルが一歩近づいた。


「君がいない監査局は、俺には意味がない。君の記録がない帳簿は、読む気にならない。——君以外の人間の隣にいるくらいなら、一人でいい。だが」


 大きな手が、リーリアの手に触れた。


「できれば——。いや、できればじゃない」


 鋼色の瞳が、真っ直ぐにリーリアを見つめた。


「君がいい。君じゃないと駄目だ。——俺の隣にいてくれ、リーリア」


 夕焼けの回廊に、退勤の鐘の残響がゆっくりと消えていく。


 リーリアは——泣かなかった。

 前世で十二年、この世界で五年。ずっと「お前の代わりはいくらでもいる」と言われ続けた。

 初めて、「君じゃないと駄目だ」と言われた。


「……ヴィクトル様」


「なんだ」


「私、仕事は定時で終えますし、休日出勤はしませんし、台帳以外の特技はありません」


「知ってる」


「お料理も得意ではありませんし、社交界の立ち居振る舞いも下手です」


「知ってる」


「記録魔と呼ばれるくらい、帳簿に書き込むのが好きな地味な女です」


「——全部知ってる。三年間見ていたんだ」


 リーリアは、小さく息を吐いた。

 そして、初めて——この世界に生まれて初めて、自分から笑った。


「では、お言葉に甘えて。明日から隣の席を使わせていただきますね、ヴィクトル様」


「……それは、もう使っている」


「いいえ。今までは『監査局の同僚の席』です。明日からは——」


 リーリアは、ヴィクトルの大きな手をそっと握り返した。


「あなたの隣の席として、使わせてください」


 ヴィクトルの表情が、ほんの一瞬だけ崩れた。

 それは微笑みと呼ぶにはあまりに不器用で、けれどリーリアが今まで見たどんな笑顔よりも温かいものだった。


「——ああ。ずっと空けて待っていた」


 夕焼けの回廊を、二つの影が並んで歩いていく。

 前世では叶わなかった定時退勤。この世界では、隣に誰かがいる。


 王宮のどこかで、書記局長が「台帳が読めない」と叫んでいるらしい。

 クレスト家では、アルノーが金貨四千二百枚の返還に頭を抱えているらしい。

 マリエルは社交界で「横領犯の元婚約者」と囁かれて、夜会に出られなくなったらしい。


 ——でも、もう関係ない。


 リーリアは明日も定時の鐘で帰る。

 隣にいる人と一緒に。

 帰り道には、いつの間にか二人分の紅茶を買う習慣ができた。


 前世では終電まで一人だった。

 この世界では、定時の鐘と一緒に隣を歩く人がいる。

 それだけで十分だった。


 記録は嘘をつかない。

 五年分の台帳が証明したのは、不正の証拠だけじゃない。

 毎日同じ時刻に、同じ廊下を歩いた二人の記録。

 三年分の「お疲れ様です」と「ああ」の積み重ね。

 それだけが、嘘のない事実だった。

読んでいただき、ありがとうございます。


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