ナイトクイーンは泡沫に散る
僕は地球から逃げようとしていた。嫌なことが積み重なって、希望が見えなくて、絶望だけが散らばって、希望という言葉に吐き気を覚えた九月。
息を吸うような当たり前のことさえも億劫で、チカチカと揺れる視界は夏の陽炎を思わせる。脳裏に蔓延って、離れてはくれない消したい過去。募り募る負の感情はとめどない。
逃げ場所を探し求めて放浪していた僕の元に現れたツユと名乗る女性は、真っ白な髪の毛は肩で揺れて、スラッとしたモデルのような体型は余りにも美しく、街ゆく人の目は釘付けにされていた。
「……少年、死ぬ気かい?」
「は?」
「少年の瞳が死にたいと言っているんだよ」
ツユと名乗った女性は、訳の分からないことを言いながら、僕の瞳をまじまじと見つめている。長い睫毛が風に揺れて、僕は「離れてください!」と語調を強めて拒絶する。心臓はバクバクと鳴って、恐怖は血液に乗って体に巡っていく。
「一体、なんですか急に。警察呼びますよ」
「それは困る。私はたった一日しか生きれないんだ」
女性は首を傾げて、眉根を下げる。
心底言っている意味が分からなかった。人が一日ポッキリで突然死ぬわけが無いだろう。
僕はツユと名乗った女性を警戒視する。
「どういうか、少年。どうせ、死ぬ気なら私に付き合うのもまた一興じゃないか?」
「どこがですか……怖いだけですよ」
「怖くても、死ぬよりかはマシだとは思うけどね」
死ぬよりはマシ。軽々しく吐かれた言葉が胸の奥にズシンと刺さる。
長い睫毛が青空の下に映えて、夏の背中を感じさせる生暖かい風がそっと背中を押すように吹く。
――どうせ捨てようとしていた命。それなら誰かに預けて、その先の逃避行が「死」でもいいのではないだろうか。明確な恐怖が、徐々に解れてどうでもいい恐怖へと変化していく。
「……なんてお呼びしたら?」
「気軽にツユでいいよ」
「じゃあ、ツユさんで」
「堅苦しいねえ。ところで少年、お金は持っているかい?」
「ほんの少しなら」
ポケットに入れたしわくちゃの五千円札。僕はそれを取りだして、ツユさんに見せる。
「じゃあ、このお金でやれることを全部やってしまおうか!」
ツユさんは腕を突き上げて、天真爛漫に笑って僕の腕を掴む。
「少年、ボケっとしている暇は無いよ。時間は有限、無限にあるもんじゃないんだ」
遊ぶには心許ないお金を持って、僕とツユさんは街へ繰り出した。
街ゆく人は少なくて、行く場所も特に決めてなかったから手頃なゲームセンターに入る。
騒々しい音が耳を劈いて、ピカピカとイルミネーションのように光る画面に、ツユさんは同じくらいに目を輝かせて無邪気に「少年、あれやりたい!」とUFOキャッチャーを指差す。景品を見てみると、可愛らしいテディベアがちょこんと座っていた。
「ちょっと待っててください」
五千円札を両替機に入れると、小銭がジャラジャラと滝のように落ちてくる。千円分の百円玉とお釣りの四千円はポケットに。
ワクワクしながらUFOキャッチャーの前で待つ、ツユさんに百円を渡す。
チャリン、と百円を入れると愉快な音ともにクレーンが動き出す。
「もうちょっと右かな……いや左か」
ツユさんはブツブツと独り言をいいながら、微調整を繰り返す。僕は横から眺めるだけで特に口を出すことはしなかった。
そして、ようやくピッタリとくるポジションを見つけたのかツユさんは魂を込めるかのように降下ボタンを押す。僕とツユさんは降下していくアームを固唾を飲んで見守る。ガシッと掴まれたテディベアが哀れもない姿になって、少しだけ心が痛む。
一瞬だけテディベアは持ち上げられて、僕とツユさんは「おぉ!?」と二人して声を出してしまったが、アームは情けなく緩んでテディベアはするりと落ちてしまった。
「上手くいかないもんだね……」
「UFOキャッチャーなんでこんなもんですよ」
「でも、楽しいものだね」
ツユさんはふふっと顔を綻ばせて笑う。僕とツユさんは残りの百円玉を握りしめて、ゲームセンターを遊んだ。リズムに乗って太鼓を叩くゲームで競い合ったり、昔ながらのモグラ叩きのゲームをしたり。逃げ場所を探していたはずの僕はすっかりと楽しんで、ツユさんと笑いあった。
心地の良い時間が、さめざめと置かれていた絶望が、今はどうでもよかった。
「あ〜、楽しかったな。少年」
「結局何も取れなかったですけどね」
「取れた取れなかったより、こうして楽しんだという思い出の方が何よりも大事なのさ。少年には難しかったかな?」
「失礼な、言っている意味ぐらい分かりますよ」
「ふふ、それは良かった。それじゃあ、次に行こう。時間が無いからね」
ツユさんは夕暮れに染まる太陽を見ながら、儚げに呟く。時間が無いと忙しくどこかへ行こうとする背中を僕は追いかけて、肩で白髪の髪が揺られて粒として弾ける。
車が忙しなく行き交う大通りに二つの足音が混じる。排気ガスの匂いが息を吸う度に鼻を撫でて、荒くなる心臓の鼓動は耳の奥で叫ぶ。
逃げ場所を探していた僕は今では遊べるところを探す人になって、ツユさんの朗らかな笑い声が心地よかった。空を舞うカラスが宵を匂わせて、青空の向こうに眠っている星はひたひたと迫ってくる。
僕とツユさんはどこまでも走った。少ないお金を持って、やれることを何でもやろうと工夫した。気が付けば、心を取り囲んでいた絶望は見えなくなって、チラチラと散らばる希望が瞳の端を照らす。
息が切れても、眩暈がしても、白髪の髪が揺れる限り僕は背中を追った。
「花火しないかい?」
疲れて、公園のベンチでひと休憩していたらツユさんが思い付いたかのようにポソリと言ってくる。
「花火ですか?もう九月なので売っているかどうか」
「じゃあ、探しに行こう」
ベンチから立ち上がってツユさんは僕の返事なんか待たないで、さっさと花火を探しに行ってしまう。
もう九月だというのに、花火を売っているお店などあるのだろうか。不透明なことを心配する素振りも見せないで、ツユさんは屈託なく笑っていた。
微かに浮かぶ「一日しか生きれない」という言葉。あまりにも空想的で信じるには馬鹿らしくて、でもツユさんのしたいことを何でもしようとする姿は、妙に信憑性を持たせた。もし、本当なら逃げ場所を探しているのはツユさんもじゃないのか。
そんな思考がチラリと思い浮かぶけど、僕は有り得ないと根拠は無いと、胸の片隅に違和感を抱えながらも仕舞ってしまう。
コンビニに置かれた栗の和菓子も、ハロウィンを匂わせるかぼちゃも、ツユさんにとっては夏の残り香でしかなくて、花火はどこかにあると信じてシャッターで閉じられた商店街を駆けた。
でも、花火は何処にもなかった。もうダメかもしれない、と僕は諦めかけているのにツユさんは「まだ!」と言わんばかりに目を輝かせて、一瞬の時も希望を捨てようとはしなかった。
「花火、どこにもないですね」
「まだだよ、少年。諦めてしまったら人はそれ以上へは行けない」
「でも、もう随分探しましたよ」
「それでも探すの」
ツユさんは頑なに花火を探すと言う。もう、夏の残り香しか匂わない紅葉の季節は、花火を蜃気楼の中に隠して僕はどこを探せばいいか全く持って検討がつかなかった。空に浮かび始めた薄い月が来る宵の鐘を鳴らす。
川のせせらぎが耳を撫でて、僕の頭にふと浮かぶ一つの案。
「海だ……。ツユさん。海の近くならあるかもしれませんよ」
「海……少年名案だ」
花火といえば、海。そんな固定概念が日本に住み慣れた僕には染み付いてて、今更ながらに思い出してしまったことを悔いる。
ポケットにある三千円。ここから近くのビーチへ向かうにはまだ余裕がある。花火があったとしてもひとつぐらいは買えるはず。僕とツユさんは電車に揺られて、近場のビーチへ向かう。
「私、海に行くの初めてなんだ。一日しか生きれないから当たり前なんだけどね」
「その一日しか生きれないのって本当なんですか?」
「本当だよ。私は嘘をつかない」
真っ直ぐな瞳。嘘を纏っている雰囲気は無くて、僕はそれ以上の質問はしなかった。いや、正しくは出来なかった。ツユさんの生きる意味も、一日しか生きれないという意味も「逃げるために生きてた僕」には分からない。
車窓の景色は移り変わっていく。外の景色はすっかりと闇夜に染って、空には星が浮かび上がっていた。
そして、ついに海は顔を覗かせて星を海面に照らして地上の星空を作りあげていた。ツユさんが子供のように吸い寄せられて、純真無垢な表情を浮べる。
電車から降りると、潮風が肌を撫でてベタつく。
「これが海!」
「花火あるといいですね」
「あるに決まってるさ、だって海がそこにあるのだから!」
海のさざ波が高揚感を煽って、訳の分からない理論すらも納得させる力を持たせる。だから、花火もあるのではないかという期待は高まって、僕らはコンビニへと足を運んだ。
入店音と男性店員の間延びした挨拶が耳を通過して、視線を横に向けるとツユさんと僕がずっと追い求めていたものがそこにはあった。
「あ、花火!」
「……本当にあった」
夏の残り香は狭く端に追いやられてはいた。でも、そんなことはどうでも良くて、そこにあってくれたという事実が嬉しかった。ツユさんは駆け寄って「どれにしようかな」と一つ一つを眺めて物色する。
「これにしよう!」
ツユさんが手に取ったのは、色とりどりな手持ち花火が沢山入ったオーソドックスな物だった。金額も残りのお金で買えるもので、ライターと一緒にレジに持って行って会計をすませる。
近くの海辺ですることにして、そこまでは歩きで向かった。
「花火、花火、花火〜」
「そんなに嬉しいんですか」
「だって、ずっと探していたものが手に入ったんだよ少年。嬉しいに決まってるじゃないか」
「まあ、そうですね。あっ、水買い忘れた」
「自動販売機で買うしかないね」
行く途中、ツユさんは鼻歌混じりで花火を大事そうに抱える。僕はそれを見ながら、少し笑いながらも買い忘れた水のことを思い出す。
海辺の近くにある自動販売機で水を買って、じゃりっと砂を踏みしめる。
しんと静まり返った海は星の道が水平線の彼方へ続いて、波が打っては返す。誰の喧騒もない、海辺にはツユさんと僕だけで世界が二人だけものだと錯覚しそうになる。
「……さあ、やろうか!」
ツユさんが勢い良く花火を開封して、ライターで火を付ける。
シュワワワ、と炭酸の弾けるような音と共に緑黄色の綺麗な二色が火となって溢れ出してくる。ツユさんの白い肌が照らされて、淡く優しく瞳が流れていく。見惚れていた僕は我に返って、花火を付ける。
静寂に響く火の花の音。星空の下、二つの花が海辺に咲き誇る。ひとつ、またひとつ、花弁が散って徐々に数は少なくっていく。
「あら、もう最後だ」
「一つしか買ってなかったので終わるの早いですね。最後のこれは線香花火ですね」
「終わるのは早いもんだね」
「ですね」
最後の線香花火に火をつけて、静かに見守る。
「ツユさんは一日で死んでしまうんですよね?怖くないんですか」
「怖くは無いさ。少年と一日を楽しめたからね」
「そんなことで怖くないと割り切れるものですか?」
「そんなことじゃないさ。私にとっては大事な思い出さ」
「そうですか……」
パチパチと跳ねる火花が儚く輝く。
「少年こそ、こんな変な女性に着いていくのは怖くなかったのかい」
「どうせ生きる希望のない人生ですから」
「今もそうなのかい?」
「……少しは生きる希望が見えたかもしれません」
「そりゃよかった……って、ありゃ先に落ちちゃった」
ツユさんの線香花火が先にポツリと砂浜に落ちて、僕のも続くように落ちてしまう。
「少年、瞳を見せてくれ」
ツユさんが出会った時のように僕の瞳を覗いて、長い睫毛が月下に揺れる。
「うん、生きる気力が見える。これで私も心置きなく逝けるよ」
「本当に一日だけなんですか?」
「そうだと何度も言っているだろう」
僕はツユさんの言葉が嘘であって欲しいとずっと願っている。絶望がちらばっていた世界に希望が散らばり始めたのは、ツユさんのおかげだから。一日という短い期間なのに、僕の世界の色はガラリと塗り替えれた。
だから、嘘であってほしいと心の底から願っていた。なのに、どうしてツユさんはそんなにも嘘がない顔をするのだろうか。
「……あら、そろそろ時間のようだ」
ツユさんの体がチリチリと光の粒子のようになって、先にある海が透けている。非現実的な現象に目を疑って、僕は素っ頓狂な声を出してしまう。
「えっ? 待ってください、まだここにいましょうよ」
「私もそうしたいのだけどね。時間は有限なんだ」
困った表情を浮かべてツユさんはへにゃりと笑う。
「まだ、まだ花火をしましょう。追加分買ってきますよ」
「……少年。嬉しいけどね、現実を見ることも大事だよ」
ピシャリと現実から目を背ける僕を戒めるようにツユさんは言う。
「でも……まだ……だって」
目が海の中に入ったみたいにぼやけて、鼻が詰まって、喉が熱くなる。荒くなる息が、ボヤける視界が嘘であってほしかった。
紡げなくなる言葉が、伝えないといけない言葉があるのに上手く言えない。
「少年、私はもう行かなくなちゃならない」
ツユさんは海に入って、くるりと僕のほうを振り返って翼のように腕を広げて月のように笑ってみせる。
「……少年、また会おう」
「待って……!」
追いかけるように海に入る。ヒンヤリとした夜の波がくるぶしを打っては返す。
ツユさんを掴もうとした手は空を切って、手の平には光の粒子が静かに握られていた。
僕はその場に崩れて、波が打つのも気に止めずにボロボロと泣いた。
「また会おう……っていつの話なんですか」
最後の最後に無責任に残された言葉は僕の心を強く縛る。逃げ場所を探していたはずなのに、これじゃあ逃げれなくなってしまったじゃないか。
いつの日か分からないその日まで、僕の逃げ場所探しは一時中断されて、数年後ツユと名乗る女性は僕の前に現れた。
「やっ、少年。生きる気力は湧いたかい?」