ハッピーエンドなんて所詮後付けの話
いつの間にか勇者と、そう呼ばれていた。
死んだと思ったら異世界に飛ばされ、何も分からないまま勇者として魔王を倒す役目を押し付けられた。殺し合いや戦争なんて縁のない場所から無理やり連れてこられて、特別な力なんてなく安物の剣と防具の一式だけ持たされて。それで命をかけて人類を守れと。
最初の戦いはゴブリンを殺すことだった。もう幾年も前のことだが、その時の記憶は今でも鮮明に思い出せる。
お互い死に物狂いで武器を振るい、腕を斬られて足を斬られて、仲間さえ死んでいく中。それでも敵を殺そうとする彼らの目を。憎くて憎くて、けれども俺を止められないという事実が悔しくて、涙を流して死んでいく。そんな、この世界で真っ当に生を歩んでいる者を殺す、クソみたいな感触を。
それから、色々な敵を殺した。
レイス、ガーゴイル、ゴーレム、サーペント、仕舞いには巨大なドラゴンでさえも。彼らの意思は関係なく、ただ人類に不要と言うだけで殺した。殺して回った。
勿論、総てを簡単に屠れた訳じゃない。身体は紙屑のように引き裂かれ、熟れすぎた果実のように潰され、己の臓物をばらまいて何度も死んだ。それでも、唯一与えられた不死の力が、この残酷な世界に自身を縫い付けた。
そんな時、決まって思い出すことは、あの時に殺した、死んでも我が子を守ろうとするゴブリンの覚悟が秘められた瞳だった。
人は皆、光を目指して歩むことが出来る。光が無くなった闇の中で、それでも歩むことが出来るのはほんの一握りの、それこそ勇者と呼ばれるべき人だけだ。
分かっていたんだ、そんなことは。それは、この国の王だって。だからこそ、勇者を作り上げた。人類の生きる希望として進む道を示す、闇を照らす光となる者を。
皆が皆、勇者を信じていた。否、人智を超えた不死の力を持つ勇者に。その偶像に、依存していた。
背中には、見も知らない人たちの命を無数に背負わされ、人類の希望として担ぎあげられた。重かった、もう潰れてしまいそうになるくらいに。
何故勇者になんか選ばれたのか。何故命を懸けてまで他人を守らなければならないのか。もう辞めてしまいたかった、全てを放り投げて、逃げてしまいたかった。世間の重圧から逃げて、楽になりたかった。
けれど、そんなことが許される訳もなく、迫り来る敵をただ機械のように殺し続けた。そして、数年して漸く魔王を殺したことで、戦争の大勢は決した。次第に魔族は数を減らし、何時しか人類にとっての安寧が訪れた。勇者は英雄と呼ばれ、人類の中で神格化された。
讃えられ、崇められ、総てが終わりを迎え、物語のひとつがそこで終幕となった。
それはもう、嘗てのことだ。
魔王が死に、魔族は滅亡した。世界は人類が支配し、揺らぐことのない平和を手に入れた。
その中で未だ、
――勇者は、生きていた。
「死んだか、フレイ……ああ、また友を失ってしまった」
永い年月が過ぎ去り、とうに風化して触れただけで崩れてしまいそうな骸骨。その頬を優しく撫でる。
壁に寄りかかるようにして伏すそれは、薄汚れたローブを纏い、首には美しい紋様の描かれた十字架が下がっている。一見すれば何処かの貴族のようにも見えるが、両手足は罪人や奴隷の如く鎖で繋がれており、風化し錆びついていても尚物々しさは衰えていない。
「リサーナ、君ともお別れになるかもしれない」
そう言って伸ばした手を戻す。その手首にも、同じ様な鎖が繋がれていた。
ここは、光すら届かない暗黒の牢獄。数千年も前、悪魔を封じ込める為に作られた、地下深くの牢獄。
その悪魔は、残虐非道。最低最悪の不老不死であり、数多の魂を奪った大罪者。長い間老いることなく生き続け、それ故に強大な力を持っていた。神獣たる竜を操り、聖女を洗脳し、世を混沌に叩き落とした。事実誰よりも強く、当時世界はその悪魔の手に握られていたという。
けれど、そんな中勇者という心の強い者が現れ、何度目かの戦いで遂に悪魔を倒し、封印することに成功した。
だが、封印されたからと言って、死んだという訳ではない。この地下深くの鉄格子の中で無為な時間に精神を削られ、自ら死を選ぶことも出来ず、それでも生き長らえていた。
ぐちゃり、ぶちゅり。悪魔は凡そ生物として間違っている音を響かせながら、鉄格子に手を添えた。
「ここから出るのも、もう直ぐか」
暗闇の中、黒紫色の眼だけが爛々と浮かんでいた。
竜が死んだ。
数日前に起こった大爆発の調査に向かっていた調査団から齎された報告は、国の王をして言葉に詰まるほどのものだった。その事実は瞬く間に世界中に広がり、世の中に驚愕を撒き散らした。当日の号外新聞は飛ぶように無くなり、誰と話すにしてもその話題で持ち切りになっていた。
神獣と言う名に相応しく全生物の頂点に立ち、世界の歴史を見つめてきたとされる竜が死んだ。その世界に対する在り方から神と崇める対象として教会が作られ、宗教として遥か昔から成立していたにも関わらず、その信仰対象が、死んだ。
余りにも重大な出来事に、皆が皆、混乱していた。
だが、その後に行われた二度目の調査で持ち帰られた情報は、竜の死という歴史的な出来事を塗り潰すほどに致命的で、人類の存亡に関わる深刻なものだった。
悪魔の封印が解かれていたこと。
そして、対峙した調査団の殆どが死亡したこと。
悪魔の逸話は昔話として語り継がれており、数千年経過した現代となっても未だに世に知れ渡っている。
曰く、悪魔は残虐であり見世物として人の住む街を笑いながら破壊した。
曰く、悪魔は容赦がなくほんの少しでも刃向かった者に対して拷問し、自らにその家族を殺させた。
曰く、悪魔は不死でありどんな傷を負っても瞬時に回復する。
曰く、悪魔は不死の力を抜いても強大な力を持っており勝てる者は存在しない。
曰く、勇者によって漸く地下に封印した。
不死で勝てる者の居ないほど強力、ならばどうやって封印したのか。幾つか謎や嘘らしきものが混ざっており昔話としてはこの程度でしかわかることはない。だが、事実悪魔が封印されたという洞窟があることから、多大に誇張されてはいるだろうが話自体は真実だとされてきた。
その封印が、解かれていたという。しかし、この報告を受けた者達は、事の重要性を理解していなかった。何かの間違いではないのか、不死とはいえど既に数千年、流石に悪魔は朽ちているのではないか、そもそも信用出来る言い伝えなのか。疑問は後を絶たず、たかが昔話と最初から笑い飛ばす者も居た。
総てを信じるには余りに荒唐無稽であり、どうせ魔物に襲われただけ、調査団はそれを大袈裟に語っているだけだろう。最終的な大半の認識は、そこに収まった。
その安易な判断が破滅への第一歩となった。
嘗て、数えきれないほどに人が繁栄し、様々な営みが行われていた街があった。発展は滞りを知らずに加速し、その街の中心部は昼夜問わず華めいていた。夜のない街、そう呼ばれるほど常に人が賑わっており、雑踏から聞こえる笑い声や時々起こる喧嘩騒動など、それら含む総てに於いて最高の歓楽街と断言することが出来た。
――今では、大小様々な瓦礫が溢れる、薄汚い廃都となってしまっている。
無事な家屋など一つもない。自然現象では起こりようもない、超常の力によって押し潰されたかのように壊滅した街は、以前の繁盛していた面影なども無くなり、初めからそうであったかの如く沈黙している。倒れた看板の下からは無造作に白い手が伸びており、赤が滴るそれは今やピクリとも動かない。所々に散見されるのは人であったものの残骸ばかりで、生存している人など誰も居ない。誰も彼もが突発的に命を失い、大衆は狂乱の中で瓦礫に埋もれていった。
壊滅し、世界に誰も居ないかのように異質な静けさに覆われた街。倒壊した家屋の瓦礫の上、真黒なローブを纏い座り込む男が居た。まるで引きちぎったかのように雑に切られた髪、男にしては長いそれで目元は見えないが、ただきつく結ばれた口元だけは見ることが出来る。
武器や防具等を付けていないところを見ると、恐らくは魔術師なのだろうが、見る限りでは杖などの触媒等も所持していない。唯一持っているものは、右手に巻くようにして握られた十字架の首飾りだけ。
「……ああ、分かっている。これは俺たちのやるべき事だ。今更止めるつもりはない」
それは誰に向けられた言葉か。
男は顔を上げ、虚空を見つめて話しかける。
「覚悟はしていたつもりだったが、やはり……な。だが、そう、これは始まりでしかない」
人類の生存と破滅を賭けた、俺たちの戦いだ。
「さぁ、続けよう」
人類に願う。
どうか、試練を乗り越えてくれ。
どうか、災厄の来る前に。
どうか、悪魔を殺してくれ。
そして願わくば、来たる災厄を生き延び、時代を繋いで欲しい。
俺たちは命をかけてそれを後押ししよう。大好きで大嫌いな人類だけれど、絶滅することは望んじゃいない。この先を知っているのは俺たちだけ。だが、それを伝えることが出来ない。なればこそ、俺たちは俺たちが出来ることをやるしかない。例えそれが、悪魔だと呼ばれても。
「くそっ! どうなっている!」
歓楽街のあった国の王が部屋で怒鳴り声を上げた。
何かと騒動の起こる街だ、警邏の為に夜間は兵士を増員して巡回させていた。それも、ただの兵士などではない。毎晩国家予算並の大金が動く街を守るのだ、王家直属の騎士団から精鋭を出していた。暗殺者が動こうが、どこぞの犯罪集団が動こうが、他国からの襲撃があろうとも、殆どの事態に対応出来る力がある――筈だった。
それなのに、一晩だ、たった一晩で街が消えた。
「竜が死に、そして次は悪魔だと!? ふざけるな!」
王は執務室で机に積み上げられた大量の書類を睨みつけ、頭を抱える。事態は急を要している、そんなことは理解しているが、対策が全く浮かばなかった。
だが、それも仕方の無いことだ。竜の死だけで国民は騒乱になっていたというのに、それを終息させる間もなくこの知らせだ。前回の報告があってから一睡もしていない。頭は回らず、思考は上手く処理されていない。けれど、今の状況ではおちおち寝るわけにもいかない。いつ事態が急変するかも分からない、最早、猫の手も借りたい気分だった。
例え民を率いる王といえど、これ程までの大事態には混乱もする。ただ、そういった時にどれだけ冷静でいられるかという、王としての真価が問われる時でもある。その点、この国の王は未熟だった。
「いや、まて。確か宝物庫に……」
やけくそのように机上の書類を薙ぎ倒し、奥から一つの冊子を取りだす。それは、貴重な調度品や高価な武具など宝物庫に仕舞われている様々な物品を記した目録だった。
冊子をばらばらと捲り、入手した年月順に並んでいるそれの中で記載が最も古い欄に手を伸ばす。
聖剣。先代、先々代から受け継がれ続けており、入手した年月欄は空白。一体いつからあるのかも分からず、見たこともない紋章が描かれていたり仰々しい名前を冠してはいるものの、それだけの剣。王自身も宝物庫に入る機会はあるので、その姿を見たことがある。だが、一見ただの装飾の施された古い剣のようにしか見えず、特別な力というものも感じられなかった。
何代か前の王が調べた時には、剣に魔力はなく込めることも出来ず、切れ味は良いものの飛び抜けているわけでもない。かといって稀少な金属が使われていることもなく、大きさに対しての重量は平均的。鋳造ではなく鍛造で作られており意匠は凝っているが、そのものの価値はそこまで高くない。つまり、そこらで売っている少し高価な剣と、性能の面では変わらないという結果だった。
しかし、王は今ばかりはこんな物にでも縋りたい気分だったのだろう。溺れるものは藁をも掴む、とはよく言うものの、自らがそうなるとは思いもよらなかっただろうが。
「勇者だ、勇者が必要だ」
混乱の渦中に居る人々を導き、希望への道を示す者が。
王の役割でもあるそれを他人に任せることは非常に苦渋ではあろうが、今の国に必要なことは変革なのだ。不安や動揺から起きている紛糾を覆すほどの、変革となりうる存在が。自らの力不足を理解していたからこその決断だ。
そこからの行動は迅速だった。
なにせ悪魔の侵攻は続いているのだ、いつ自分たちの住む王都に来るかわかったものではない。希望があるのならばそれに縋りたいと思っているのは、周辺貴族も同じなのだから。
すぐさま聖剣の担い手としての選定が行われることとなり、それは教会に委任された。
なんの力も持たない凡人には、悪魔と直接戦うことは出来ない。だが、それはイコール何も出来ないという訳ではない。死が確認された炎竜にそれでも縋り、眉唾物の聖剣に縋る。それでも希望を捨てず、祈りを捧げ続ける。それはなんの意味のない行為にも見えるが、そうではない。その祈りは、その諦めず砕けないその思いは、周囲を巻き込み人類を絶望への縁から落ちないようにギリギリで支えている。この期に及んでは権力などなんの意味の持たないのは言う迄もなく。ならば何が力を持つのかと言えば、民衆の心の支えになっている者だ。
だからこそ、聖剣の担い手の選定という人類の未来を左右するであろう事態は、教会が引き受ける事となった。
斯くして、聖剣の担い手として一人の青年が選ばれた。
「漸く、時代が変わる時が来たのです。なにも絶望することはありません、切り拓く者として貴方が道を示してください。それが、勇者の勤めです」
「はい。僕で良いのなら、謹んでお受け致します」
「私に出来ることは、此処までしかありません。本当は貴方の力になりたいのですが、それは叶わぬ願いでしょう。私はただの聖女、戦う能力はありません。勇者、人類の未来は貴方に預けます」
けれど、無理はなさらないで。
辞めたいと思ったのならば、直ぐに戻ってきて構いません。貴方は貴方の命を大切にして良いのです。頼んでおいて私が言うことではないのですが、貴方が大切なものを犠牲にする必要なんて何一つありません。初めから、一人の背中に背負わせるようなことでは無いのですから。
そして、許してください。こうして貴方に背負わせることになってしまった、不甲斐ない私たちを。
「気にしないで下さい、聖女様。僕は、僕の為に悪魔を倒すのですから」
「来たか、勇者」
あれから幾つの街を崩壊させ、幾つの生命を奪い取って来たことだろう。もはや大陸一帯は嘗ての面影を残すこともない残骸だけが広がっており、その瓦礫の山の上で悪魔は唯一残された王国を遠く見つめる。
勇者を筆頭に集まった、人類最後の軍勢。
この時をどれだけ待ち侘びたことか。
俺を殺す者、殺さなければならない者。
随分と遅かったな、だが俺の戦意は一切衰えてはいない。お前たちはどうだ? 努力は、研鑽は、鍛錬は充分か? さぁ、二番目の戦いを始めよう。
「人よ、人よ! 来たるべき神魔の戦いに身を置かれし人々よ! もうその時は迫って来ているぞ、今更逃げようとしてももう遅い。迎え撃て! 人智を超えし者達の心臓を穿て! ああ、俺はこの為だけに今まで生き長らえていたと言っても過言ではない。さぁ、さぁ! 俺という試練を乗り越えて見せろ!」
恐らく、その声は届いていない。だが、それに応えるかのように人類軍の咆哮が響く。未だ豆粒ほどの大きさに見える距離が開いているが、それでもその気迫は届いてくる。
何百何千という軍勢が、勇者を先頭にして突き進む。自らが死んでも悪魔を倒すと腹を括ったその覚悟が、滾る熱意と決意が、人それぞれ異なる思いのそれらが勇者を中心として束になり、大地を揺らす。
けれど、結局は何処まで行っても掌の上。転がされる者達はそれに気が付けない。この戦いの結末は誰の為になり、何を意味するのか。今になって知らぬ存ぜぬは通らない。
さあ、これが最後の序章だ。
始めよう。
[ハッピーエンドなんて所詮後付けの話]
「瞬く星は儚く燃える命のように美しい!!」
戦いの火蓋を切ったのは勇者の魔法だった。太陽の光に隠されて本来見えない筈の無数の星が茜の空に瞬き、流星となって降り注ぐ。荒れ狂う力ではなく、暴力的な力でもなく、ただただ暖かく優しい力の奔流。それはまるで輝く雨粒の如く注がれ、荒廃した大地を蘇らせる。
瓦礫と焼け野原ばかりだった土地は潤いが戻り、急速に草木が生え、蔦植物が瓦礫を覆う。そこまでしても溢れた膨大な魔力は地上を駆ける人々に流れ、癒しを与える。
攻撃ではない。これは単に場を整える為の魔法だ。それにしては強大過ぎる力に、けれど悪魔は嗤う。まるで、それでこそ勇者だと言わんばかりに。そして、鮮緑に覆われた瓦礫の上で仰々しく手を広げる。
「来い!」
雷鳴は竜咆の如く、烈火は悉くを灰に。氷雪は時を停止させ、されど怒りは天へと駆ける。
「混在する意志の形」
生成された漆黒の剣は打ち合えば簡単に折れてしまいそうなほど細く、けれど其の実、刀身には絶大な熱量が詰まっている。一振りで地を裂き、二振りで海を割り、三振りで天をも落とす。強すぎるが故に禁呪として封印され、時代から抹消された魔法。発動には膨大な魔力が必要で使い手は非常に少なく、本来なら封印するまでもない伝説の魔法だったが、使える者が一人でもいればそれだけで国を滅ぼせる。そういう魔法だ。
悪魔は、それを躊躇いなく振り下ろす。
この刃に射程という概念は存在しない。総てを破滅させる疾風が岩盤を捲りあげながら真直に進み、勇者の軍勢へと衝突する。そして、まるで最初からそこに何も無かったかのようにして、遥か彼方へと疾風が突き抜ける――筈だった。
「ほう……!」
地を揺るがすほどの轟音が響き、噴煙と共に罅ぜる。行き場を失った疾風は左右に別れ、暫くして力を使い果たし消えていく。十秒か、二十秒か、いやもっと経過しただろうか。悪魔は鋭い目で見詰め続ける。噴煙が収まり漸く確保出来た視界に映ったのは、勇者たちを守るようにして覆う、うねり絡み合う植物たちで出来た円蓋だった。
表面は傷だらけだが未だ形を崩しておらず、内側には衝撃ひとつ届いてはいないだろう。
植物を操る魔法など聞いたこともない。まして、この剣を受け止めることが出来るとなると、十中八九ただの植物体ではない。どう考えても異常。
だからこそ、面白い。悪魔の口が上弦に歪み、嗤う。
「それでこそだ」
遠距離だから防がれても余り影響を受けないが、近距離で受け止められてしまえば、その力は返って自らをも傷付ける諸刃の刃となることだろう。
悪魔は剣を正面に掲げる。それだけで、纏わりついていた荒れ狂う暴風の如き力は収束し、破壊の力を閉じ込めた刃となる。この状態では斬撃を飛ばすことは出来ないが、その分、単純に剣として強くなる。先の暴虐を振り撒く形態が動だとすれば、こちらは静だ。しかし、だからといって侮ると、一太刀で勝負がつくことになる。
「ッ!」
唐突に悪魔が振り返り、横薙に剣を振る。真二つに斬られ力なく地面に落ちたのは、腕の太さほどもある木の根だった。どうやら植物体の操作に距離は関係ないらしい。
一本だけでなく無数に飛来するそれらを、悪魔は簡単そうに切り刻んでいく。
「ぐ……」
悪魔の背中に、衝撃が加わる。
根、否。これは――炎弾。
攻撃に魔法が混ざる。
悪魔が一瞬だけ視線を切れば、円蓋は解除されており、魔法使いだけその場に残し、勇者たちは進軍していた。安全地帯から魔法を打ち、騎士達が接近するまでの時間を稼いでいるのか。
だが、
「甘いッ!」
悪魔がその場で足を強く踏み鳴らす。魔力の込められたそれは周囲に衝撃波を起こし、魔法も含めて弾き飛ばす。
その隙に離脱し、勇者の方へと駆ける。飛来する魔法を剣で防ぎ、しなる根を斬り裂く。時に根の上を駆け、魔法を躱し、速度を落とすことなく弾丸の如く一直線に走る。勇者までとの距離など、悪魔にとっては有ってないようなものでしかなかった。
そして、近寄ってしまえば魔法を放つことは出来なくなる。勇者を巻き込む可能性があるからだ。
勇者も背の剣を抜き、上段に構える。それは斬ることよりも叩き潰すことを目的にしたかのように巨大で、しかし繊細な意匠が施されていた。鈍い輝きはされど気品さがあり、どこか神聖さを感じることが出来た。
悪魔は身を低くして駆ける体制のまま、鋭く切り上げ、勇者はそのまま振り下ろす。速度を乗せた一撃と、重量を乗せた一撃。激突する二つの力は周囲に余波を振り撒き、そして拮抗していた。けれど、それもほんの一瞬だけだ。すぐさま押し込めないと判断した悪魔は、特大剣特有の伸し掛るような重圧を刃を逸らして受け流し、返す刃で胴を薙ぐ。急に振り下ろされた特大剣を再び構えるのには時間がかかる。それは致命的な隙になる。だが、それに斬られるような勇者でもない。
勇者は特大剣を持ち上げるでもなく、無理に切り上げるでもなく、咄嗟に横に倒した剣の腹を盾に、斬撃を受け止める。まさかあの状態から受け止めることを選ぶとは思わなかったのか、全力で振ったこともあって悪魔に硬直が発生した。時間にして十分の一秒もなかっただろう、けれど、勇者が次の一手を行使するには充分な時間だった。
「生態を解き明かす植物図鑑」
植物を操る魔法はこれかッ!!
瞠目する悪魔を他所に、左右から太く鋭い幹が飛び出してくる。拍子は完璧、対処出来るのは片方が限界だろう。しかし、悪魔は勇者の想像を超えていく。
静を動へと。片側の幹を下から切り上げ、根本まで両断。そして振り上げた剣を半月を描くようにして逆側に振り下ろし、もう片方も両断する。それらは両断されてなお止まることはなく、反対側から飛来する幹とぶつかり、轟音と砂煙をたてる。
飛ばした斬撃だけでは斬れなかったが、剣本体が届けば斬れるだろうという悪魔の予想は当たっていたらしい。
「ッ!!」
悪魔は砂煙の向こうに気配を感じ、咄嗟にその場から跳躍する。――瞬間、落雷が落ちたかのような衝撃。
「よくぞ避けたッ!!」
その声と共に、砂煙を抜けてくる者。
「流石、歴史に記されるだけのことはあるッ!!」
剥き出しの筋肉と、幾多の修羅場を潜ってきたであろう強靱な肉体。無駄な肉など一切なく、引き締まった体躯はまるで肉食獣のようなそれ。武器と言える武器は持っておらず、身につけているものは身軽さを追求した皮の防具と、手甲のみ。
己が身体を武器として戦う、格闘家か。だがこの場にいるということは、只者ではないことだけは確かだろう。
「いざ、勝負ッ!!」
格闘家による跳躍力を利用して放たれる正拳突き。宙に浮いている状態では避ける方法がない。
「隔絶し交わらない世界」
悪魔は咄嗟に障壁魔法を唱えて直撃を避けるが、しかし空中では踏ん張ることが出来ない。障壁を超えてくるダメージは殆どないが、後方へと大きく弾き飛ばされる。
「今だ、やれッ!!」
「いきますっ」
号令の合図と共に、後方に居た魔法使いの声が響く。
丁度、悪魔の着地点付近の地面が波打ち、飛んでくる悪魔を挟み潰すよう左右に壁が形成される。そして、自ら火に向かう羽虫のようにして、待ち構えている罠に吸い込まれていった。
「隆起し沈み込み大地は星を廻るっ!」
挟撃。破砕音が響き、左右の壁がぴったりと閉じる。
だが、悪魔がこんな程度で死ぬはずもなく。閉じた壁が震え、ぎりぎりと音を立てて開かれていく。単純な力技だが、同じことを出来る者がどれほどいることか。
しかし――壁をぶち抜いて死角から打ち込まれた木の杭が、悪魔の胴を貫通して串刺しにする。そして、魔法使いがここぞとばかりに魔力を追加し、今度こそ完全に壁が閉じた。隙間から流れ出るどす黒い血液が、壁を汚し侵食していく。これで、終わりだ。
「頼むから、卑怯だなんて言ってくれるなよ」
何故なら、これは人類の生存を掛けた戦いなのだ。どんな手を使っても、勝たなければならない。彼らにはその責任があるのだから。
だが、本来ならば正々堂々と戦いたかったのだろう。格闘家の男は、まるで言い訳をするかのようにして、悪魔が死んでいる壁から目を逸らす。
格闘家も魔法使いも、そして、あまりの練度の高い戦闘に付いてこれず、半ば見守るだけと化していた騎士達も、皆が一様に息を吐き、気持ちを弛緩させる。幸運なことに殆ど作戦通りに事が運んだ為、被害もそれほどないまま終わったが、それは寧ろ良いことだろう。
未だに気を張りつめているのは、勇者だけだった。
――勇者だけが、対応できた。
「えっ…………?」
魔法使いは、呆然と声を漏らす。唐突に隣に居た男の首がずれ、地面に転がった。力をなくした胴が地に崩れ落ちる。少し経ってから思い出したかのように鮮血が噴き出し、血煙は魔法使いを赤く染めた。
あまりにも急な死に思考がままならないのか、魔法使いはただ茫然と、先程まで人であった残骸を見つめる。
……ナ……アリアナ!!」
「っ!!」
自らの名前を強く呼ばれて、漸く意識を取り戻す。
そこには、槍のように長く伸びた触手のような鞭状の刃を、輝く聖剣で防いでいる勇者が居た。素早く周囲を見渡せば、精鋭が集まっていた筈の騎士達も、多くの勲章を持ちこの戦いに選ばれた格闘家の男も、皆一様に首を切断され死んでいた。
青々としていた草原に赤色が混じり、血の沼地と化した光景はまさに地獄絵図。
「な、なんで……」
目眩のするような酷く凄惨な状況に、魔法使いの女は数歩後ずさる。
「きゃっ!!」
が、何かに足が突っかかり、転んでしまう。
べちゃりと水っぽい音を立てて尻もちをつき、足元を見れば、血の抜けて蒼白になった腕があった。転ぶ寸前に感じた肉を踏む嫌な感触を思い出し、胃から込み上げるものがあった。
なんとか嘔吐することは避けられたが、嗚咽までもを堪えることは出来ず、小さく声が漏れた。
「アリアナ、君は逃げろ」
もう、こんな状態では戦えたものではない。戦意もないまま殺される位なら、この場から離脱した方がいい。そう判断しての事だったが、魔法使いも責任を感じていない訳でもない。
「でもっ!」
「早く行けっ!!」
自らが荷物になっていることは、もう明白だった。
魔法使いとして天才だと持て囃され、魔法の知識に関しては世界的に見ても上位にいるという自負があった。悪魔が復活したと聞き、その戦いに代表として選ばれたことはとても悦ばしく思っていた。なのに、それなのに。
今この場に居てさえ、戦うことが出来ないとは。
決して甘く見ていた訳ではない。人類をかけた戦争だとは初めから言われていた事だったし、悪魔の逸話からも相当強力なことは広く知られていた。
一筋縄では行かないとは思っていた。だが、戦略が嵌り、悲運なことに殆どその通りに進んでしまった。だから、油断した。そう簡単に死ぬとは思っていなくとも、初めの一撃を防げたことから、力量差をこんなものかと見誤っていた。その結末が、この惨状だ。
そして何より、覚悟がなっていなかった。他の全員が死に、絶望の最中に叩き落とされて尚敵に向かうという、狂ったような覚悟が。
震えていた。手も、足も。もう限界だった。
「あの、私、ごめん"なざい……!!」
魔法使いは、覚束無い足で躓きながらも、走る。勇者を見捨てて、背負っていた責任を押し付けて。最低だ、最低の人間だ。自分自身をそう思わずには居られなかった。けれど、私がいたところで邪魔になるだけ。そう都合の良いように言い聞かせて。走る。振り向かなかった、いや、振り向けなかった。自分が絶望の中に置いてきた勇者を見ることが出来なかったから。
「行った、か」
勇者は競っていた真黒の刃を、一層力を込めて弾き飛ばす。
刻々と波打ち形を変える不定形の刃。何本ものそれらは閉じた壁から突き出ており、一段と強く脈打つと、壁の前で収束する。粘性のある液体のようにどろどろとした塊が出来上がり、次第に人の形に変化していく。
勇者はその動きをじっと見つめていた。
「ずっと疑問に思っていた。何故お前は人間を殺すのかと。悪魔と言われてはいたが、こうして剣を交えてみれば人間と殆ど変わらない」
姿形は人間のそれと酷似している。異常なのはその身に余る力と、今見せた不定形の姿。
「けれど、その姿は人間じゃ有り得ない」
そう、人間では有り得ない。けれど、歴史に記されていた悪魔の特徴である尾も蝙蝠羽もない。隠しているのかとも考えたが、その理由も見つからない。
わからない。
「お前は、何者だ?」
元の形を取り戻した何者かは嗤う。
「俺が何者か。そうだな、強いていえば……」
――お前の、成れ果てだよ。
「ッ!!」
耳元で聞こえた囁きに、勇者は咄嗟に体を捻る。特大の殺気が肌を撫で、遅れて風切り音が響く。
相当無理な動きで回避したため無様に地を転がるが、今避けなければ確実に殺されていた。そう思わせるだけの本気の一撃だった。
「よく避けた」
悪魔の冷徹な瞳と、目が合った。
「あ''あ''ぁぁ!!」
咆哮。勇者は転がった状態から全身に力を込めて跳ね上がり、聖剣を盾にして前に構える。瞬間、抑えきれない衝撃が全身に伝わり、足が地を抉って尚後方に弾かれる。
初撃は剣、二撃目は蹴りか。
膂力が違う、速さが違う。たった二撃だが、それでも格の違いが明確に分かる。もし後もう一撃あったのならば、勇者がそれに対処出来たかはわからない。場合によってはその時点で致命傷を受けていたかも知れないだろう。
けれど、退く訳には行かない。この場で死んでしまった皆のためにも、折角逃がしたあの魔法使いのためにも。そして何より、勇者は人類の未来を背負っているのだから。
今まで手加減していたと思わせる豹変に、どこか違和感を感じながらも、どの道倒さなければいけない相手であることに変わりはない。
勇者は戦意を燃やし、真っ直ぐに悪魔を見つめる。
見てから対応するのでは遅い、敵の動きを読め、思考を模倣しろ。何をするのか、何をしたいのか。そして盾を、攻撃を先に置け。ほんの少しの予備動作から、起こり得る可能性を最大限引き出せ。
痺れるような手の痛みが思考を研ぎ澄まされたものにし、充満する死の気配と血の匂いが感覚を鋭敏にする。
「ッ!!」
側面から切り上げる薙ぎ払いに聖剣を合わせ、両手で振り下ろして軌道をそらす。頬に鋭い痛みが走るが、致命傷以外は無視する。致命傷のみ防ぐことに集中することで、連撃を何とか捌いていく。
剣での攻撃に挟み込まれる足払いを受け、勇者が地面に倒される。そこに断頭台を幻視するが、全力で足を振り上げることで迫る刃を蹴りつける。
勇者のすぐ頭上の地面に刺さる剣。伸ばした足をそのまま悪魔の首に巻き付け、全身を使って引き倒す。
聖剣を振り下ろす隙まではない。逆の手の指をぴんと揃え、首に向かって突く。鋭利でもなんでもないただの貫手だが、それでも皮膚くらいは突き抜ける。
――悪寒。
勇者は貫手を止め、素早くその場から飛び上がる。
「殺れたと思ったんだがな」
それは檻だった。捕まえた者を逃さず、寸寸に切り刻む残酷な檻。まるで腹を引き裂かれ肋骨が飛び出たかのような、悍ましい姿。
離脱していなければ間違いなく死んでいた。
「片腕だけか」
血の吹き出る腕。勇者は傷口を魔法で焼き、血止めを行う。本当に厄介な変形だ、予備動作が殆どなく発生が早い。今咄嗟に離脱したのだって、予測や予備動作を見てなんかではなく、単純に嫌な予感がしたからでしかない。
それでも完全回避には間に合わなかった。
戦意は未だ失っていない。
だが、片腕でどれだけのことが出来るか。
勇者は聖剣の切っ先を悪魔に向ける。どんな状況に陥っても希望を捨てないことだけが、勇者としての矜恃。
覚悟はとうに出来ている。
受け身ではもう戦えない。
ならば選択肢は一つしかないだろう。
勇者は瞳を真直ぐに向ける。
「…………」
空気が変わったのがわかる。
嘗て、雲を超える程の山に住む賢者は言っていた。
世界は理で出来ている。それは自然の本質を知り、法則を解き明かす鍵となる。天理と言われるそれの解答を得ることは、賢者にとっての終着点だ。自然を理解し、魔力を編み上げろ。天理を歪めるのではなく、流れを利用し、指向性を持たせろ。
――と。
嘗て、世界に名を轟かせた魔法使いが言っていた。
魔力とは強い想いに呼応する。起こる現象はその結果でしかなく、本当の意味で魔法使いに成りたいのならば、そのことを忘れてはならない。今、詠唱を唱えるだけで簡単に魔法が発動するのは、いつか昔、相応の想いを持っていた誰かが居たということなのだと。魔法が想いを反映する限り、それに不可能はなく、つまりそれは、人の可能性に比例する。
――と。
大地を流れる龍脈と、空気に漂う魔力の流れを感じる。
勇者の心臓の鼓動が次第に二つの流れに共鳴する。
地を、蹴る。
後方に衝撃を振り撒き、勇者は走る。
地を踏み締め、風を切り、音の壁を越えて尚駆ける。
足取りは今までになく軽い。何処までも飛んでいけそうな、そんな気さえしてくる程に。
勇者の意志に反応したのか、聖剣が強く光り輝いていた。それは尾を引き、一本の線を描く。いつの間にか、背中には翼が生えていた。
「ああ、漸くだ」
悪魔が囁き、真黒な剣を引き絞る。
「ハァッ!!」
なあ、勇者よ。
薙ぎ払いを受け止め、刃先を滑らせて切り上げる。後方にステップを踏んで躱す勇者を、それよりも早く踏み込んで突きを繰り出す。
速さを重視した一撃はそれ故に軽く、聖剣で撫でるように逸らされて当たることはなかったが、それでも体勢を整える時間は作らせない。更に踏み込み、上段から振り下ろす。勇者はどうにか聖剣を掲げて防いだようだが、流石に片腕で防ぐことは無理だったようで、直ぐに力を抜いた。
急に抑えがなくなったことで、力を止めることが出来ず、振り下ろした剣はそのまま地を斬る。
気がついているか? 仮にも悪魔と呼ばれ、恐れられる俺と、打ち会えているという事実に。
出来た隙で横腹に回し蹴りが打ち据えられ、衝撃で体がくの字に曲がる。そのまま地面と水平に吹き飛ばされた。
だが直ぐに剣を地に突き刺して衝撃を吸収し、止まる。微かな殺気に顔を振り上げると、そこには――目の前に迫る聖剣があった。
「あ''あ''ッ!!」
先程までとは比べるまでもない、明らかに異常な速さ。それもこれも、聖剣に魔力が宿ったことに起因する。理由はわかっている。何故なら、元々聖剣は俺のものだったのだから。
聖剣は所有者を一人しか認めない。そして、例え所有者が死亡しても所有権を上書きすることは出来ない。つまり、勇者が振るう今となっても、その武器は俺を所有者としているということだ。
だからこそ、勇者は聖剣に魔力を注げない。だからこそ、俺の魔力を纏う攻撃の総ては聖剣に吸収され、所持者に還元される。その衝撃までは吸収することは出来ないが、確かに、打ち合う度に聖剣の輝きは強くなっている。
体を反らせて回避するが、致命傷になることを避けられるだけで、片目を一閃される。頭蓋を両断されることはなかったが、それでも片目が潰れたことはかなり痛い。
黒い血が頬を伝って地を汚す、その色は害悪の証明。
思わず口元が愉悦に歪む。笑え嗤え。こんなにも嬉しいものなのか、死ねるということが。ああ、それでこそだ勇者。どうか俺を、殺してくれ。俺の望みはそれだけだ。
そして願わくば、来たる災厄を越えて未来を繋げ。
さぁ、貴様の光で総てを覆い尽くせ。
俺は……悪だ!!
下段から切り上げられる聖剣を打ち払い、側面に回り込んで薙ぎ払う。煌々と光を放つ聖剣。必至の一撃を飛び上がって回避し、背中から生やした刃を伸ばす。
死角から飛来する根。円蓋状の盾を生成して受け止め、安全圏から自分で作った盾ごと両断する。
殺気を感じて後方に飛び、振り抜かれる聖剣を避ける。
「はははっ!」
速い、速すぎる。人智を超え神の領域に足を踏み入れている俺に、追いつくとは。
まさに英雄。
剣を弾かれ、続く振り払いを柄から離した手で受ける。
それで聖剣を止められる理由もなく、初めからそうであったかのように切り落とされた。だが、その落とされた腕が黒い固まりとなって変化し、そこから槍の穂先を伸ばす。流石に切った腕を操作できるとは思っていなかったらしく、それは勇者の脇腹を抉りとる。
――筈だった。
「ッ!!」
咄嗟に残った腕で剣を振るうが、簡単に聖剣に打ち負け、衝撃で剣が手から離れる。ははっ。
「まさか、距離感を見誤るとは……な」
肩から斜めに引かれた切創を撫でる。
止めどなく溢れ流れ出る黒い血が、薄れゆく意識と共に自らの死を鮮明に教えてくれる。
「……だが、これでいい。良くやった、勇者」
もうまともに立っていられず、崩れ落ちる。
終わった。ああそうだ、これで俺の役目は終わり。
後はこの世界から消えるだけだ。
「終わった……?」
勇者。
ありがとう、貴方に特大の感謝を。
そしてこれは、次の時代を築く人々への、餞別だ。
「勇者、少し話をしないか?」
「悪魔と話すことなんか、ない」
「そう言うなよ、気にならないか? 俺が何者なのか」
「その沈黙は肯定だと受け取るが……そうだな、何処から話すべきか」
ゴブリンを殺すこと、それが最初の仕事だった。
魔物もいない、敵という敵もいない。魔法はないが科学が進歩し、国としてではなく世界として平和な土地。内戦や紛争をしている国はあったが、全体から見れば極小数だ。
おいおい、ここで有り得ないなんてことをいうなよ。話が進まないからな。これはただの物語だ、そういうものだと思っておけばいい。
さて、そういう命の危機がなく、平和ボケしていた男に初めて下された命令が、それだった。
例えばの話だ。
肉といえば血抜きのされ、初めから部位ごとに切り分けられたものだと思っており。自ら狩りに行くことは一生の内で一回もない。動物を捕まえ殺し解体し、精肉する過程などは知識としてしかわからず、現場を見れば可哀想だとか残酷だとか、そういう戯言を軽々しくぬかす。命を食べているということの重さをわかっていない。勿論例外はいるが、殆どの人間がそういうことを口にする。
そういった土地から来た男にとって、ゴブリンを殺す、それだけのことが、どう写ったと思う?
今でも鮮明に思い出せる。この世界で精一杯生きる命を殺す、最低な感触を。
そこから殺して殺して、望んでもいないのに背中には人類の無数の命を背負わされ、戦う以外に道がなかった。そうして、ゴブリンを殺すだけで吐くような男がオークを殺せるようになり、サーペントを殺せるようになり、竜をも下せる程になった。そして、人類の悲願だった魔王を討伐することに、成功した。
どうなったと思う。
英雄として讃えられる?
王の信頼を得て王女を娶れる?
若しくは、勲章が与えられ、石像が建てられ、後世に語り継がれると思うだろうか。
違う。
魔王を討伐した男に向けられたものは、恐怖だった。魔王とは魔物を従え、世界を手中にしようとしていた化け物だ。そして、それを討伐するような者もまた、人の目には人として映らない、どちらも同じ化け物だ。
見も知らぬ他人の為に命を削り、心を削り、一度たりとも命令を拒否せずにいたのに。それを当然とでも思っていたのか。あまつさえ、悲願を成した人に向けられる視線が、恐怖ときた。興味が失せた、もうどうでも良くなった。
だからこそ、たった一人、そんな視線を向けてこなかった聖女と共に森の深くで暮らしていた時に、男を封印する軍が組まれた時も、抵抗をしなかった。
「嘗て、もう何千年も昔、魔王を討伐する為に召喚した勇者。それが、俺だ」
「一つ聞いていいか? お前は何故、俺に挑もうとしたんだ。相手は不老不死の悪魔だ。怖いと、死ぬかもしれないとは思わなかったのか?」
「妹が、泣いていたから。君が暴れることで、僕の大切な妹が、泣いていたから。それだけだ」
「ぶっ……あはは! そんな、そんな理由で命を懸けて俺に挑んだのか! 妹の為に、世界を救ったのか!」
「笑うなよ」
「いやいや、すまない。別に貶している訳じゃない」
「ただ、お前みたいな馬鹿に負けて、良かった」
「やっぱり悪口じゃないか」
話し過ぎたみたいだ。
体の端々がまるで砂のように崩れていく。
もう、魔力が体を構成出来なくなっている。
「だが勇者。これで終わりではない。ここからが始まりだ。来る災厄は人類を蝕む毒。時代が変わる、次の時代、戦火は何処までも広がる。気をつけろ」
それが、最後の言葉となった。
もはや視界も白く染って何も見えない。
感覚も徐々になくなっていき、もう触覚は殆どない。
その夜、その場所に満天を見上げ歩く女性がいた。
「おつかれさま、今までありがとう」
それは以前、とある男と契約をしていた悪魔だった。
「これで漸く次の段階かな? まぁあいつらがどう出てくるかなんて、私にはわかんないけどね」
話している内容の殆どは意味のわからないものだ。
「まーなるようになるでしょ! さて、私たちも準備しなきゃね」
これから来るのは神魔の時代。過去の罪を曝け出し、懺悔しろ。そして、無礼にもこの世に足を踏み入れんとする神々の、その翼を捥いで地に落とせ。
人類よ、試練を乗りこえた人類よ。
今度こそ苦難を乗り越え、自由を獲得しろ。
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