その六
浩太郎はもう一度年の姿を見た。汗を流して必死に石を捜している。そして彼のことを認めざるをえなかった。彼はいつも側にいたんだ。浩太郎は思った。
「三十六秒だ!」年は嬉しそうに石を取り上げた。
息を吐き、構えを作ったあとで年はぴたりと動かなくなった。集中しているらしい。その緊張感が浩太郎にも伝わってくる。彼は生きようとしている。表に出ようとしている。そして認められようとしている。
風がぴたりと止んで、全てが静まった瞬間に年は石を投げた。石はこれまでに一番の勢いと軌道で水面を飛び跳ねる。綺麗な光景だ、浩太郎は本心で感じた。石は水面を十八回も打った。年の石が作った波紋は綺麗にしばらく残り、川の流れに消えていった。
「十・・・八回・・・やったぞ、やったぞ!」年は叫んだ。
年が最高の記録を出した。しかし浩太郎は自分を落ち着かせていた。父からもらったダイバーズウォッチをそっと片方の手で覆い目を閉じると、フォンフォンという自動巻時計特有の音が聞こえてくる。冷たく小さいその中から聞こえてくる音は、言わばこの腕時計の心臓の音なのだ。ふっと息を吐くととても落ち着いた。冷静でいられて、まさか死が間近に迫っている状況でこんなに穏やかな気持ちになれるとは、浩太郎自身も思いもよらなかった。
「さぁ、交代だ。これで最後だからね」戻ってきた年はやりきった顔をしていて、しかし疲れていた。
浩太郎は何も言わずに年の横を通り過ぎて小石の散らばる場所へ降りた。年は自分のことを笑みを浮かべて眺めている。それは勝利者の表情だった。浩太郎は石探しを始めた。だがやはり二勝負目と同じだ。どれも同じ石に思えてくる。どの石にも顔がついていて、眉間にしわを寄せながらそっぽを向いているようだ。僕は成功しない、別のを選んでくれよ。僕は勘弁してよ。僕は・・・まるでそう言っているようだ。
落ち着いてはいたが次第に心臓が高鳴り始めた。そして喉が渇き始めた。唾液を飲み込もうとしても舌が張り付いて飲み込むことができない。代わりに咽せて、浩太郎はひどく咳き込んだ。しかし時間は過ぎてゆくばかり。浩太郎は時計を見た。あと十五秒しかない。続いて年を見た。彼は腰に手を当てて見守っている。石を何個も手に取る。駄目だこれでは勝てない。他の石を取る。これも、これも駄目だ。
俺は・・・勝てないのか・・・
―― 物事の決定権は誰にある?それは浩太郎、お前自身の中にあるんだ。だから人は納得するまで考えなければならない ――
「父さん」浩太郎は呟いた。
父さん、俺は勝てないかも知れません。今まで俺自身よく考えてして物事を決定してきたけれど、間違っていたんでしょうか・・・僕は、母さんに父さんの気持ちを知って欲しかった(父さんの気持ちは知っていたけれど、母さんはいつも新しい父さんができるって話しかしなかったから)。女の子にはノートをへし折られた子を認めて欲しかった。その子の存在を。単純な感情なんだ。悪戯じみたことじゃないか。どれもこれも難しくはない、単純な感情・・・
でも、本当に難しいよ。僕には・・・。
―― 大切なのはお前がしっかりと自分の判断をして、それを伝えることだ。きっと分かってくれる。お前が信じていればな ――
「ありがとう、父さん」浩太郎はぽつりと言った。
「一分だ!一分経った!さぁ早く石を取って!」年が呼びかけた。
浩太郎は年に向かってゆっくりと振り返り、石を翳して見せた。年は小さく、あっ、と声を漏らした。握られた石は二勝負目に浩太郎が退かして投げた石がぶつかって割れた、あの石だった。浩太郎は手にした石をじっと見て、息を吐き、川へそっと近づいた。
穏やかな風が吹いてしんと静まっている。誰も何も声はしない。最後の一投。浩太郎は一呼吸したあと石を投げた。
鋭く切り裂くような唸りを上げて石が飛んでゆく。水面を削り取り失踪する浩太郎の石。浩太郎にとって最高の一投だった。十四、十五。石は水面を走った。しかし浩太郎の石は力と勢いをなくしている。どうやら届きそうにもない。十六、十七・・・
「勝った!俺が!」年が両手を挙げて叫び声を上げた。「表舞台へ立つのは俺の方だ!」
浩太郎は何も言わずに跳ねる石を見ている。
年が自身のその勝利を確信した、自身が表へ立つことが確実となるそのとき。目の前で予期せぬことが起こった。川の中を何か黒いものが泳いでいる。偶然にもそれに当たって石は距離を伸ばし、水面を十九回打ったところで沈んだのだ。
年は驚愕の表情を川に向けていた。
川の水面に黒いものの正体が現れる。それは一匹の体がオリーブ色のアオダイショウだった。石はアオダイショウに当たって十九回跳ねたのだ。
浩太郎は振り返り、年を見据えたが何も言おうとはしなかった。
「そんな、認めないぞ。はっ、二勝負目に、さっき投げた石で・・・反則だ!やり直しだ!今すぐにやり・・・!」そこまで言って年は口をつぐんだ。観念した表情になり、肩を落としている。年は悔しそうな顔をしながら自分の体を見下ろして、深いため息をついた。「・・・俺の負けだよ、どうやら・・・心が負けを認めてしまったらしい。冷たい感覚が体を登ってきてるんだよ、今ね。もう少しだったのに・・・」
浩太郎は年に近づいてゆっくりとうなずいた。
「聞かせてくれよ」年は言った。「あの蛇はあそこにいることが分かっていて石を投げたのかい?」
「いや偶然だよ」浩太郎は答えた。
「そうか、やっぱり蛇は俺にとってのアンラッキーアイテムだったってことか・・・」
「すまない」と浩太郎。
「謝るなって、そう言ったろう?」年は笑った。すると浩太郎も笑いだし、最後には二人して声を上げて笑った。
年の体は今にも消えてしまいそうな、川の水のような透明になっていた。浩太郎は肩に手を置こうとしたが、すり抜けて触れることすらできない。
年は観念したように目を閉じ、最後に一言だけ言った。
「浩太郎、俺の代わりに、あとはよろしく」
浩太郎が瞬きをすると、そこにはすでに年の姿はなかった。
数日後、浩太郎は川へ散歩にやってきて、青くペンキの剥げたベンチに腰掛けていた。よく晴れた日で雲の少ない穏やかな日だ。最近涼しくなってきた。冬が来るとすればもうそろそろだろう。川縁に生えた背の高い枯茶色の草を、風がのんびりと揺らしている。
年の言ったことは全て当たっていたのかも知れない。俺自身は正しいと思っていても、心のどこかでは間違っていると判断してしまう自分がいるのだ。そういった心が年を生み出した。年はそんな俺に、あとはよろしく、そう言って消えてしまった。
「難しいな。正しい判断は」
川では大学生くらいの若者が水切りをして遊んでいた。浩太郎はベンチから腰を起こし、彼を横目にその場を離れていった。川縁からは学生の嬉しそうな声が聞こえた。
「よし!俺は十回だ!」
「不安定な戯れ」完結です。
もう一人の自分、ドッペルゲンガーと出会うと、出会った人は死んでしまうといいます。一方で現れたのは自分の危険を知らせてくれるためだとも。もし彼らと面と向かって話を出来るとしたら、彼らは一体どんなに興味深い自分の知らない自分を知っていてくれるのでしょうか?
“水切り”という誰もがしたことのある“戯れ”を、いかに真剣に描くかに挑戦しました。
感想を聞かせてもらえたら嬉しいな。