その五
川の上へと繋がる石段の一番上にはベンチが一脚置かれている。川沿いを散歩する人がほっと一息ついて休憩するためだ。濃い青色のペンキが薄く削れ、所々剥げ落ちたベンチは一体いつの頃からそこに設置されているのかは分からない。何度かペンキも塗り替えられた。よく小さな老夫婦が座っているのを通りがかると見ることがあるが、今日はいない。あのベンチに座るとこの辺りが一望できる。自分たちはどう見えているのか。
浩太郎は踏みだし、手にした石を目一杯で投げた。石はすぐに着水せずに遠くへ飛び、そこから細かく水面を跳ねて水へ沈んだ。八回?九回?浩太郎にははっきりとは分からなかった。
「今のは?」と浩太郎。
間をおいて年は答えた。「今の記録は八回だな」
浩太郎はほっとしてうなずいた。「そうか、じゃあ一勝負目はあんたの勝ちだな」
「そう、俺の勝ち・・・」
浩太郎はぞくっとした何かを感じて(それは多分恐怖だったんだろうと思う)、一歩だけ後退した。小さな石に足を取られてよろめいた。
「プロ野球選手、千葉ロッテマリーンズの渡辺俊介ってピッチャーのことなんだが、知っているか?彼は水切りで三十二回って日本記録を持っているらしいぜ。あっ、ちなみに世界記録は五十一回だよ。それにしても三十二回!今の君の記録何かよりも四倍も多い!ふふふっ、もしも彼との勝負だったら勝負にはならないだろうな。水切りには最高の角度や速さみたいなものがあるんだとさ・・・でもそんなことを考えながら子供たちは水切りをするかい?しないね」
「それがどうかしたのか?渡辺俊介?」
「待ちなよ、俺は精神的にも通じる話をしているんだ。つまりこういうことさ。彼らは勝利するためにならあらゆる計算をしてあらゆる準備をしてから挑戦してくる。自分たちが納得した上で決定するために。そうすれば認められるからね」年の目が浩太郎を見据えていた。「さぁ一段階進んでもらおうか」
「えっ?」
考える間もなく浩太郎は奇妙な感覚を足下に感じ取った。足下が冷たい。最初浩太郎は間違って川の中へ入り込んでしまったのではないかと思った。だが違う。自分はちゃんと川縁に立っている。冷たい感覚は靴の中へ染み入ってくると徐々に足を這い上がってきた。ズボンを濡らしパンツに入り込み、腰の上辺りでその感覚は止まった。そんな馬鹿なことって・・・何も見えはしないが確かに自分の腰から下が川の中へ入っている感覚が浩太郎にはあった。よろよろとよろめいたが水による抵抗があるわけではない。しかしそこには水があり、自分はそれにどっぷりと浸かっているではないか。
「さぁ、君、あとがなくなったね。次負けたら全身川の中へ沈んでもらう。それが計画。それが目的」冷徹で低い声で年は言った。
「どうして俺が・・・そんな、川に入っていたのは自殺するためじゃあなかったのか?」浩太郎は焦って言った。
「そんなことは一度も言ってはいないよ。ずっと。俺の計画は一つだけなんだからさ」
「これは一体、どういうことなんだ?」
「さぁね。ただ一つ言えるのは今度君が負けることになったら君は確実に溺れ死ぬんだろうね」
浩太郎は愕然として肩を落とした。どうして?何が起こっているのか分からない。呼吸が乱れて心臓の周りを不安な靄みたいなものが渦を巻いて取り囲んでいるのを感じた。
「ふふふっ、言ったはずだぜ、真剣にやることをお勧めするとな。なめていた?さっきの一投、君は手を抜いたな?」
「そんな、俺は手を抜いてなんか・・・」
「いいいいいや!君は抜いたね?」年は荒げながらも青ざめた微笑みを向けた。「こんな風に思ったのか?これにわざと負ければ相手を救えるし、勝負も早く終わる・・・そんな風に」
「・・・その通りだよ。だって俺が負ければと思って・・・第一こんなこと・・・」
「それがなめていると言っているんだぁ!」年は激しい剣幕で浩太郎を指さした。「公平でなければいけないとさっきから言っているだろうが!理解できないのか?この間抜けが!公平さは相手を尊重することだ!尊重は相手を認めることだ!」
浩太郎は見えない川に沈んだ自分の下半身を見下ろした。川は深く遙かな闇に続いているような気がする。だが深い深い何よりも暗い川底はしばし気を落ち着かせた。
「すまない、俺は知らなかった」と浩太郎。
「すまないなんて言うんじゃあない!」年は首を振る。「聞きたくもない。お前はいつもそうだ。納得した、認めた、そんな風に自分に言い聞かせて判断し決定しているくせに、くだらない考えで、くだらない感情を生み出すんだ!親父とお袋の離婚のとき、お前はお袋の料理を食えなくなる、抱きしめてもらえなくなるからと躊躇しただろう?小娘を叱るとき、こんな可愛らしい子がイジメ何てするだろうかと勘ぐっただろう?自分は間違っていると・・・」
浩太郎は絶句した。何かを言おうとしたが唇が震えだして、浩太郎は唇を噛んだ。目の前に鏡があったら見られたもんじゃないだろう。きっと大きなクマが目の下にできて死人のような面をしている。
「お前は・・・一体何者だ?」浩太郎は絞り出した。
「まだ気づいていないのかい?」
「一体誰だ?どうして俺のことを知っているんだ・・・」
「俺は・・・君自身だぜ・・・」
浩太郎ははっとして年の手首を見た。そこには父が自分にくれたのと同じダイバーズウォッチが巻かれていて、日の光に反射しながらキラキラと光っている。汗を吸った苔色のベルトも同じ。不格好で必要以上に大きな文字盤も同じ。全く同じダイバーズウォッチだった。
「俺だって?」
今や事情は明らかになった。俺は昨日飲み過ぎて眠ってしまった。一本だけ飲んだつもりだったが、一本だけじゃなかったのだ、きっと。それでこんな奇妙でリアルな夢を見ているんだろう。画家のダリが夢の世界を絵画にしたりするけれど、何て言ったかな?シュールレア・・・?目が覚めたらこの体験を文章にして、きっと面白いだろう。父さんにも話して、俺は陸で溺れそうになった魚だと言おう。
冷たい感覚。恐ろしい川底の暗闇。
「さぁ続けるぞ」
年は小石の散らばる場所へ降り立ち早速石を選び出した。そして浩太郎が見定めるまでもなく小石を一つ取り上げると、浩太郎の前へぐいと押し出した。
「これで決めてやる」年は言い残して川へ向かうと石を投げた。低く、鋭い回転をかけたそれは勝負に徹した投げ方だ。記録を狙う投げ方。
石は風を切って突き進み、着水すると、小刻みに震えながら水面を走る。そして二人が見守る中、石は十三度水面を打って沈んだ。
「十三だ・・・文句はないな」と年。
もしもその感情がどこから来たのか?そう聞かれても答えることはできなかっただろう。精神的には車のトランクに飲まず食わずで三日もぶち込まれていたみたいに不安定だったし、肉体的には疲労感があった。しかし浩太郎の中には怒りの感情が込み上げてきていた。今すぐにでもこの目の前の男に飛びかかって殴りつけてやりたい。だがそれだけはしてはいけない。絶対に。俺は勝負で勝たなければいけないんだ。
怒りで口がきけなくなっていた浩太郎は年を押しやり、石を捜し始めた。しかし石は簡単には見つからない。生死をかけた石だ。考えれば考えるほどどれも失敗しそうに思える。それらしい石を取り上げて翳してみるが大したことはない。浩太郎は一つを取り上げると向こう岸に向かって思い切り投げた。石は向こう岸に届き、岩に当たって川へ落ちた。もう一つ力任せに投げ捨てた。石は近くの大きな岩に当たって砕け落ちた。
しばらくしてその姿を見かねた年は鼻を膨らましながら進み出た。
「ルールを一つ追加させてもらうよ」年は言った。
「何だって?」振り返る浩太郎。
「一分だ。石を捜す時間を一分としよう。じゃなければいつまで経っても見つけやしないみたいだ。このまま見つけずに結果をひたすら先延ばしにしようとするって、そう言うことも考えられるからな」
「そんなことはしない」
「可能性を言っているんだ」
「でも俺はそんなルール・・・」
「ふふふっ、ほら、見てみなよ」年は浩太郎を遮るようにして始めた。「腕時計から短針と長針が消えた。秒針だけの時計・・・どういうことか分かるかな?認めたということさ。君がこの新しいルールを納得し、それを認めたからそうなったんだ。ふふっ、特別にここから一分てことにしてあげよう」
浩太郎は時計を見つめた。確かに時計の針は秒針以外のそれが消え、針は無情に時を刻んでいる。
「何をしているんだい?ほら、あと五十秒しかないよ。急いで石を捜して」
浩太郎は石を捜した。時間が迫ってくる。額からは玉状の汗が噴き出していて、腰までの冷たい水の感覚は今に全身を包み込んでしまいそうだ。
カチカチカチ・・・迫る時間・・・
「これだ!」浩太郎は叫び、石を掲げた。ちらりと年に目をやると腕時計と見比べながら納得した表情を見せている。川へ体を向けて自分をイメージした。低く体を構えて投げるイメージ。そして成功するイメージ。
浩太郎は石を回転させて投げた。着水して跳ね上がる石。最初は幅が大きく跳ね、その間隔がだんだんと狭くなって行く。十二、十三、十四、十五、十ろ・・・石は沈んだ。
「今のは・・・引き分け!?」浩太郎は不安そうに言った。
「いや、今の勝負は!」後方から年の声がした。振り返る浩太郎。「今の勝負はどうやら君の勝ちらしいよ」
「そうか、俺の勝ちか、はぁ、はぁ、これで勝負はイーブンになったわけだな」浩太郎が返す。
「勘違いするな、ま、だ、イーブンになっただけだ!」年は言って顔を背けた。
年は余裕そうな顔をしてはいるが、浩太郎は見過ごさなかった。年の額にも汗が浮き出始めているのを見て取ったし、何よりも年の目は憤慨して苛立っているようだった。年は何もついていない自分のズボンを手で何度か払った。多分冷たい水の感覚、あれが彼にも来ているはずだ。浩太郎は繋ぎ止めたことにほっと胸を撫で下ろした。
ふらふらと疲れた様子で年のいるところへ戻った浩太郎は、その窪んだ目を年に向けた。この目は逆に年の心を驚かせた。浩太郎の目はついさっきまでびびって萎縮していたものの目とはどこか違う。怒りのせいか、イーブンに戻したからなのか、少なくとも勝ちに来ている目だった。
「どうして今更出てこようと思った?どうして今?」年の隣に立った浩太郎は手を組んで立ち、出し抜けに聞いた。ささやきかけるように。
「ふん、今に始まったことじゃあない。俺はずっと表に出てきたかった。だが二番手に甘んじ、お前の中に居続けていた。どうしてか?俺は少なくともお前を認めていたからだ」
浩太郎は少し驚いた表情で年を見た。すると年も浩太郎のことを鋭い目で見ていた。
「だがお前は俺のことを認めようとはしない。あのときもそうだ!一人で勝手に決めてしまいやがって!俺はな、親父にじゃなくお袋について行きたかったんだ!あの暖かさの方が良かった。それにあの小娘のことだって、どうして安っぽい正義感で注意なんてしやがった?」年は言った。ほとんど怒鳴っているのに近かった。
「俺はそれが正しい道だと・・・」
「それが安いというんだ!目を閉じていればいいということだってあるんだぜ!わざわざことを大きくしたのが正しい道か?そうさ、お前は周りを見ていない。だから俺のことも無視し続けてきた・・・そうだろう?」
「あんたのことは・・・知らなかった・・・」浩太郎は首を振った。
「知らなかった?いいや、お前は知っていたはずだ」年は人差し指を立て、浩太郎の胸にドンと押し当てた。勢いで浩太郎は二、三歩下がった。「思い返してみろ!いつもお前は自分に問いかけてきた。俺に問いかけていたんだ!俺は色々とアドバイスをしたがね、最後にはお前一人で決めてしまう。俺のことを絶対に認めようとしない。認めないということは尊重すらされないということ。俺には尊厳がないのか?」
「そんなことはない、もしも知っていたら認めていたさ」
「まぁいいだろう。どちらにしたって俺はこれからこの勝負に勝ってみせる。それ俺を俺として認める第一歩になるだろう。お前は引っ込んでもらうよ。今日からは俺が表に立って、この勝負に俺が勝って、俺が決定権を持ってやる!」
年は進み出て石を捜し始めた。浩太郎はその姿を見ながら自身のことを考えてみる。確かに思い起こしてみると昔から自分自身に問いかけるように聞いて、物事を判断してきた。
なぁ、浩太郎、どう思う?なぁ、俺さぁ、どう?お前は父さんにはなれないよ。浩太郎、浩太郎、俺、俺、母さんについて行かなくてもいいのか?こんな子がイジメするもんか。きっとさっきの男子がやったんじゃない?そこは我慢しておけよ、うるさいことに、まずことになるぞ。なぁ、よく聞けよ、浩太郎・・・