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不安定な戯れ  作者: 野狐
3/6

その三






「パパ、ほら早くこっちへ来てよ」女の子が父親の手を引きながらいそいそと言った。

 手を引かれる父親は苦笑いを浮かべながらも、言われるがままに従っている。その少し後ろでは母親が微笑ましい表情で二人を見守っている。

 親が子供を愛するのに、親は何も見返りを求めたりはしない。無償の愛というやつだ。それを見ず知らずの子供や老人に向けて抱くのは中々難しい。それが電車の中で酔いつぶれて大いびきをかいているビジネスマンや、一人暮らしの老人に息子を装って電話をかけて金をだまし取ろうとするような輩に対して抱くとなるとほぼ不可能になる。たまにそんなカスのような人間にも無償の愛を振りまけるような希有な人間たちがいるようだが、もしも全員が全員そんな人間ばかりだったら、世の中は平和になってみんながニコニコして、そしてその中に突然変異みたいに悪人が生まれると、結局はそいつが世の中を占めるようになるのだろう。面白いことがあるとすれば悪人が悪さをしていても、善人たちは無償の愛とやらでニコニコと許すんだろうことだな。浩太郎は思った。

「ねぇ、わんちゃんがいるよ。白いやつ」女の子はペットショップの子犬のガラス窓にべったりと張り付いて、白いシーズーを無垢な目で眺めている。それを両親は互いに見つめ合いながら優しく眺めている。

 テレビの中で行われているホームドラマを、浩太郎はソファに横になり、クッションに頭を半分沈めたままぼうっと眺めていた。テーブルの上には飲みかけのコーヒーが置いてあり、すでに冷め切っていて黒光りする塊と化している。部屋の中は電気も付けられてはおらず、テレビから漏れる明かりが壁や浩太郎の顔を様々な色に染め上げていた。

 家へ帰ってきてからというもの、川での出来事が頭を離れず浩太郎は寝てしまおうと考えた。それで電気も付けずソファに横になって目を閉じた。しかし浩太郎に慈悲深い眠りは与えられることなく、結局寝付けなかった浩太郎は青白い暗闇の中テレビのリモコンを探し出してこうしてテレビを見ていたのだ(眺めていたという方が正しいかも知れない)。

 先ほどから雨が降り始めていた。ポツポツとベランダを打つ音が聞こえる。しかし思っていたよりもそんなにひどくはならないらしい。風も弱くてどちらかというと静かな夜だ。

「わんちゃん可愛かったね」

 少女が笑うのを見て、浩太郎は台詞を繰り返した。

「わんちゃん、かわいかったね」その声は機械的で、浩太郎の目は遠くを見つめているようで、冷たい。

 浩太郎はもぞもぞと体をくねらせてソファの上に小さくなり、もう一度目を閉じた。やはり寝付けなさそうだ。年の姿が脳裏に浮かんでくる。彼は自分の顔をのぞき込みながらなにやら話しかけてくるようで、溜まらなくなって浩太郎は体を起こした。テーブルの上の冷めたコーヒーを一気に飲むと、あまりの苦さと酸っぱさにカップの中へ全てはき出してしまった。苦い顔をしながら台所へ持って行き、シンクの中へ流し捨てる。

 ソファに戻って目一杯背伸びをした。それからだらしがなく背もたれに体を預けると、いつ切れるやも知れない長い息を吐いた。

 気がつけばお腹が空き始めていた。雨はまだ僅かにふってはいるけれど・・・コンビニでも行こう。

 浩太郎は家を出た。

 コンビニの前には数人の若者の集団が居を構えていて、地面にべったりと座り込み、そこいらにジュースのペットボトルを置いて話に夢中になっていた。父ならばきっと何か言っていただろう。自分もそうしたいが、なにぶん歳が近い故に逆に反感を買いそうだ。浩太郎は車を止めて店の中へ入った。

 軽くファッション雑誌や漫画本を立ち読みしたあと、適当に弁当とジュース、チョコレート、それに暖かいお茶を買ってレジへ持って行った。

 弁当を暖めてもらっている間店員との会話は一切なかったが、ビニール袋に商品を放り込むようにして入れる姿を見て、浩太郎はいらついた。

「おい、もっと丁寧に扱いなよ」

 店員(大人しそうで外に溜まっているような連中には何も言えないが、ネットの掲示板では他人をボロクソにけなしているようなタイプ)は浩太郎の顔を一瞥してからあからさまにめんどくさそうな表情をし、舌打ちをした。その行為はさらに浩太郎をいらつかせた。

「それに暖かいものとチョコレートって、別に構わないがせめて聞いたらどうなんだ?袋分けるかとかよ」

「すいません」

 蚊がなくような声で店員が言うのを聞くと、浩太郎は袋を受け取り、コンビニを出た。

 若者の集団を過ぎ、車に乗り込むと強い力で車を発進させた。しかし駐車場を出る寸前で車を止めてバックさせ、若者の集団の前に止めた。お前は父さんのようにはなれないからな、と浩太郎は自分に言う。

「おい、お前ら!」浩太郎はドアを開けて若者に向かって言った。「悪いことは言わない、早く帰りな。向こうで警察がウロウロしていたぜ。それに君らの親だってきっと心配してる!」

 それだけを一気に言ってドアを閉めた。ミラーで彼らを見たが、予想外に反感は買わなかったようだ。若者たちはみな立ち上がり、小鳥のような、呆気にとられたような顔をして車の方を見ていた。浩太郎は車を発進させて家へと帰った。

 家へ帰って弁当を食べ、チョコレートを一つ口に入れると、ふいになんだかもの悲しくなった。

「死ぬだって?最良の一日?許せるもんか」浩太郎は呟いた。

 浩太郎は無意識の内に携帯を取り上げていた。時刻を見ると一時を回っていたが、構わず携帯を開き、父親の浩助へ電話をかけた。起きているだろうか?眠っているかも知れないな・・・だとしたらごめんなさい。

「もしもし?浩太郎?」父の声。

「やぁ、父さん。元気にしてる?」礼節じみた挨拶をした。

「あぁ、元気だが・・・こんな時間に一体どうした?」

「ううん、何でもない。ただ声が聞きたかっただけ」

 束の間沈黙があった。電話の向こうからは紙をめくるような音が聞こえてくる。まだ仕事をしていたのか、本を読んでいたのか。

「父さん?聞いてもいい?」浩太郎が始めた。

「ん?何だ?」

「誰かが死のうとしていたら父さんなら止める?」

 電話の向こうで紙をめくる音が止んだ。

「止めるだろうな」浩助ははっきりと言った。「考えなくてもいいことじゃないか?父さんはそれがお前だろうが見ず知らずの人だろうがきっと止めるよ」

「そうだね」浩太郎はうなずいた。

 再び沈黙があった。これはつい先ほどのよりも少しだけ長かったが、その間携帯電話の向こうから紙をめくる音は聞こえてこなかった。どうやら浩助は浩太郎のことを辛抱強く待ってくれているらしい。これも無償の愛の一部なのか?浩太郎は自分の感情とはつゆ知らずの別のところで泣き出しそうになっていた。すぐに何か言おうとしたが何も言えず、片手で口をふさいだ。そして落ち着くまで深呼吸をしてテレビの漆黒の画面をちらりと見た。

「もう一つだけ質問してもいい?」

「言ってみなさい」浩助は静かに言った。

「その、女の子がいて、もしもその子が間違ったことをしたとする。そのことが間違っていることを分かって欲しいと思って真剣に伝えるけれど、それでも伝わらなくて・・・そんなときはどうしたらいいんだろう?」

 浩助は少し考えてから「私も女の人には本当の気持ちをうまく伝えられずに失敗しているからな。母さんには理解されなかった」

「ごめんよ、そんなつもりじゃ」

「ははっ、分かっているさ。お前の生徒の話だろう?」浩助は言って、もう一度小さく笑った。「大丈夫、お前は自分で納得して決定したんだ。その子に伝えることを。その子は今はお前のことを疎ましく思うかも知れない。だが大切なのはお前がしっかりと自分の判断をして、それを伝えることだ。きっと分かってくれる。お前が信じていればな」

 浩太郎は膝の上に両方の肘を乗せた。「・・・そうだね。ありがとう、父さん」

「いつでも連絡しなさい」

 感謝の言葉をもう一度言ってから浩太郎は電話を切った。なんだかほっとしたような気分になった。まだ眠くはなかったが、しばらくしていれば眠れそうな気分だ。浩太郎はビールを一本だけ引っかけてから、眠りにつくまでソファの上に寝ころんで青白い天井を見つめながら耳を澄ましていた。そして明日、川に向かうことを決めた頃には意識が朦朧とし始めてきて、眠った。


 一週間前、とある小学校の五年生の教室で突然一人の女の子が泣き出した。面白がって集まってくる男子生徒や驚いて距離を取る生徒、または素知らぬ顔でお喋りを続けている生徒などがいた。先生を呼びに教室を飛び出した生徒もいた。生徒たちの反応は様々だったが誰もが彼女のことをひとしきり心配した。

 すぐに担任の千原浩太郎が駆けつけて女の子を慰めにかかった。女子生徒は浩太郎の顔を見るとさらにひどく泣き始めたが、しばらくして落ち着きを取り戻すと、鼻の頭を真っ赤に染めながら、もう大丈夫、と言った。

 女の子の話を聞くと、大切にしていたノートが折り曲げられていたのだという。

「大切にしていたものだったので動揺しちゃったけれど、ただのノートなんだから我慢する」女子生徒は強い意志で我慢したが、目は悲しみを抑え切れていないようだった。しばらくすると唇が震え、嗚咽の発作とともに涙の滴が頬を伝わり落ちた。

「俺は誰がやったのか知ってるよ」

 クラスの男子の一言で犯人は分かった。同じクラスの女子生徒数名。リーダー格の女の子がいて、その女の子が主犯だそうだ。担任はクラスの男子にその理由について心当たりがあるか訪ねた。

「あいつらにやる理由何てあるかな?ただ面白いからやった。ただ気に食わないからやった。そうじゃないの?」

 しばしその答えに担任はたじろいだが、慌てることなく、半日考えたあと、リーダーの女子生徒を生徒指導室へ呼んだ。放課後のことだった。

「ちょっと聞きたいことがある。どうして呼ばれたか・・・分かるか?」

 女子生徒は驚くほど単純に自分の方から罪を認めた。担任は思った。この子はきっと分かってくれるはずだ。大人びているし頭もいい。ただちょっとした悪戯だったんだ。それに少しだけ、どこか母に似ている・・・と。

 担任は女子生徒の肩へ優しく手を置くと、ゆっくりと、だが厳しい言葉を使って女子生徒を叱った。女子生徒は僅かに瞳を潤ませながら、震える唇をかみしめてうなずいた。

 翌日担任は相談室に呼ばれ、そこには教頭と生徒指導主任、そして上下紫色のスーツを着た三十代後半くらいの女性(まだ若いのに発言や立ち振る舞いから実際よりも上に見られるタイプ)が座っていて、その女性は目をレース直後の競走馬のように血走らせていた。

 女は昨日叱った女子生徒の母親だった。そして謂われのない罪で自分の娘が咎められたことへの謝罪をしろとぶちまけた。さらには女子生徒の肩を掴んだことは恐怖を女子生徒に与えたことに繋がり、強制的なセクハラともとれる行為だと喚き立てると、「教育委員会への報告も考えている」そう言い残して帰って行った。

 担任は厳格な態度で教頭へ今回のことの説明をした。自分は間違ったことをしてはいない。女子生徒もきっと分かってくれているはずだ。何ならもう一度話を聞いてもいい。

 しかし教頭から出た答えは違った。教頭は小さく舌打ちをすると振り返って、不機嫌そうに言った。

「そんなことは必要ないよ、千原先生。君はまだ若いからその安っぽい正義感で熱血教師を演じたのかも知れないがね、処理をするのは我々の役目なんだ。分かる?これ以上問題を深くする必要はない」教頭はぐいっとその埃くさい体を寄せて続けた。「千原先生、あなたも疲れているようだし、一週間、休みを取りなさい。その間に全て終わっているだろう」

 担任は反論した。「我々が全て悪いと?黙って女子生徒の行為を認めろと?」

「我々じゃあない、君が、だ。今回のことは君が責任をとれ」と教頭。「教師に成り立ての何も分かっていない、まだ学生のつもりか?いいか、社会には目をつむるべきことがいくつもあるんだ。それを勉強したまえ。どうやって渡って行くかをな」

 ではノートを折り曲げられた少女の尊厳はどうなる?

 そんな無意味な戯れなんかで・・・

 何をしたら正しいのか、何が女子生徒のためになるのか?担任は考えて結論を出した上で女子生徒を叱ったつもりだった。しかし正しいと思った道は暗闇で、そこには道はなかった。あったのかも知れないが彼には見えなかった。彼の選んだ道はあまりにも脆く、細く、そしてクリスマスの七面鳥のようにくたびれている。


 川に着いた浩太郎はつま先で小石を蹴り飛ばしてから辺りを見渡した。川の水面は驚くほどに穏やかで青緑色に輝いている。対岸のごつごつした花崗岩は、時の経過で川の流れによって削り取られたものだが、今やその割れ目から植物が生え伸び、小虫羽虫の住処となっている。浩太郎は石に腰掛けて両手を揉んだ。

 どうやら年はまだ来ていないようだ。

 腕にはめたダイバーズウォッチをみると十時まであと五十秒だった。父から受け継いだダイバーズウォッチは父が若い頃、教師になった初任給で買った古いものだ。父はこのダイバーズウォッチを自分がずっと欲しがっていると思い込んでいた(あながち嘘ではなかったが)。それで浩太郎が大学を卒業した卒業式の日の朝、ダイバーズウォッチは受け継がれたのだ。抹茶色のベルトが汗を吸い、小気味よく光っている。小さな灰色のシミも“アジが出てきた”というやつだ。いつか結婚して息子が生まれたなら、自分も父と同じように時計を息子に託したいと浩太郎は思っていた。

「やぁ待ったかい?」

 突然耳元で声がして浩太郎は悲鳴を上げそうになった。心臓がハンマーで殴りつけられたみたいに跳ね上がったしまいそうな気がした。

 振り返ったそこに年がいた。忌まわしき年が(忌まわしき?)。服装は首元に薄い苔色のスカーフを巻いている以外は先日と全く同じだが、何か昨日とは印象が違って見える。それは自分の、この年という男に対しての精神的なもののせいだろう、と浩太郎は思った。昨日は面と向かって彼のことを見られなかったが、今はこうしてしっかり見られる。もしくは年自身の精神的な変化によるものかも知れない。

 もちろん他の理由があるかも知れない。例えば昨日は空を覆いつくさんばかりに広がっていた、あの巨大な灰色雲がないとかの。

「ついさっき来たばかりさ」浩太郎は紛いものの笑みを浮かべて伝えたが、声が上ずっていた。これから何が起きるんだろう?俺は少しでも年に恐怖を抱いていた?会いたくはないと。でもこうして真っ直ぐに見られるんだし、決着をつけてこいって、そういうことなんだろうな。「いや、やっぱり、待ちわびていたよ」

「いいね、その言い方」年は破願して、「借りになったみたいだな」

 浩太郎も笑った。「別にいいさ」手をふらふら振った。







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