その二
浩太郎が八歳の時、父と母が離婚することとなった。教師である浩太郎の父浩助は寡黙だが仕事熱心で真面目な人物で、どんな生徒にも分け隔てなく接することができる人物だった。生徒たちからは尊敬され、太宰治の肖像と似ていることから“治さん”と呼ばれた浩助。だが一方でそれが気に入らなかった母。母は実際の歳よりも遙かに若く見える美人で、浩太郎には子供ながらに自慢の母親であったし、母の胸に抱かれると何よりも暖かく、何かもっと偉大なものに包まれている感覚が体全体を駆け巡るのだった。そんな母は父親が自分にかまってくれないので外で男を作り、それは父の責任だと決めつけた。
「あなたが私を見ていないから!」母は怒鳴った。「あなたのせいで私がどれだけ辛く思ったか分かってるの?」
父は何も言わずにソファに腰掛けうつむいていたが、浩太郎には分かっていた。父は不器用なだけで誰よりも母のことを愛している。こうなって一番悲しんでいるのも父なのだ。だが父は何も言わなかった。
結局二人は離婚することとなった。
母は息子を抱きしめながら言った。「これ以上はお父さんとは暮らしてはいけないの。お母さんとこの家を出るのよ。あなたにはもっとあなたと遊んでくれる、新しいお父さんが待ってるわ」
しかし息子は母の手をゆっくりと解き、少しだけ微笑んだ。
「僕はお父さんと一緒に暮らすよ」
父は驚いたように息子に駆け寄って抱きしめたが、はっと我に返ると息子からわずかに離れて見守った。
「どうしてこんな人と」母は動揺していた。「いいえ、浩ちゃん、あなたには・・・新しいお父さんは何だって買ってくれるわ!ゲームだってサッカーボールだって、それに欲しがってた自転車だって・・・それに・・・」
「僕のお父さんは一人だけだから」
母は打ちひしがれたような表情を見せたが、すぐにいつもの強い表情を取り戻し、ほとんどの怒りを露わにした。
「あなたね!あなたが浩ちゃんに何か吹き込んだのね?そうに違いないわ!」
「違うよ、僕は・・・」
「あなたは黙ってなさい!」
浩太郎は母の見たこともないような迫力に気圧されて黙った。
「いいわ、どうせ裁判になれば親権を取るのは大抵母親の方なんだから」母はそう言って鼻を鳴らした。「あなたが何を言ったって・・・」
父は黙って聞いていたが、すっと浩太郎の隣に進み出ると、息子の肩を優しく、しかし力強く抱いて「すまない」と一言だけ言った。それが自分に対してのものなのか、母に対してのものなのかは分からなかった。
母は父の言葉が自分に対してのものだと思ったようだが、それよりも父がそうやって謝ったことに驚きを隠せなかったらしく、それ以上はほとんど黙って、バツの悪そうに両手を組んだまま天井の隅っこと浩太郎たちとを交互に見やったりしていた。
最後に出て行く直前、母はリビングの扉の前で浩太郎を抱きしめてさめざめと泣いた。浩太郎は父と母の離婚という現実を理解していて、それ相応の覚悟をしていたために泣かずにすんだが、この先母親のこの胸の中の暖かさと特製のコロッケが食べられなくなることは残念に思った。
何もかもがどうでもよくなって、朝起きても母親がいないことに困惑することもなく、周りから冷たい子供だなどと思われようが、浩太郎は一向に構わなかった。それよりもむしろ父親が母親を追い出したなどと、近所でちらりとデマを聞いたことが許せなかった。たちの悪い噂話は子供の悪戯と一緒だ、と子供の浩太郎は憤慨して、その噂話をしていた家の玄関先にあった鉢植えを、道路に向かってごろんと転がし、走って逃げたことさえもある。
しばらくして裁判やら何やらがあったらしいが、結局浩太郎は父親に引き取られることになった。これはどういう理由からかは子供の浩太郎には素知らぬことだが、双方が納得したらしい。
一年後に母は再婚した。
二人で暮らすようになっても父と浩太郎のお互いに対する接し方はさほど変わらなかったが、二人で家事をしていかなければならなかったので、必然的に父息子の接する時間は増えた。
「浩太郎は周りの人を大切にしているか?」
土曜日の晩、台所に立って慣れない手つきで夕食を作っている浩助は、テーブルを拭いていた浩太郎に向かって言った。
「えっ?周りの人?」浩太郎は少し考えて「どうかな、でも友達は多いしみんな気に入っているよ」
「いいことだ」父は肩越しに笑った。「お前はいい友達に囲まれている。みんなのことを大切にして、尊重しなさい。それは尊厳に繋がる」
「尊厳だって?」
「あぁ、分かりやすく言うとみんなの存在を認めるということだ」父は続けた。「もしかしたらお前が大切に想っても中々伝わらないことがあるかもしれないが、大切なのはお前の心。お前はいろいろな人に囲まれて生きている。父さんも同じ。誰もが同じなんだから、自分に関わる人を大切にしなくちゃあな」
浩太郎は必死に考えてうなずき、父親に微笑みかけた。
「もちろんそうするよ。父さんの言うこともよく聞く」
「それは嬉しいな。でも浩太郎、物事の決定権は誰にあると思う?それは浩太郎、お前自身の中にあるんだ。だから人は納得するまで考えなければならない」父は言った。
「自分の中?」
「そうさ、自分の中に決定権はある。しっかりと自分で見定めて物事を決めるんだ。考えて納得して決めたことなら、それはきっと明るい道に続いている。その道は正しい道に違いないんだ」父は出来上がったカレーライスをお皿に盛りつけて、浩太郎の拭いたテーブルの上へと運んだ。「さぁご飯を食べようか。ほらお茶を入れておくれ」
「はい、父さん」浩太郎は嬉しそうに取りかかってお茶を入れると、ついでにスプーンを取り、先に席に着いていた浩助に渡した。
「ありがとう」父は言った。
「自分で決めた道だね、格好いいや」
「あぁ、格好いいだろう?尊厳と納得。それは信ずる道さ」
「ちょっと待て、畜生、こいつは蛇だ!」突然男は言った。
男が目を向けている先を見やると、オリーブ色の体に尻尾の先が黄色がかった一匹の蛇が茂みの中から出てきていて、水辺の小さな石と石の間を器用に進んでいた。アオダイショウという種類の蛇だった。
「俺は蛇が大の苦手なんだ!昔右のふくらはぎを噛まれたその痕が今でも残ってやがるんだぜ!」男は先ほどの落ち着いた態度とは一転した取り乱した態度で声を上げた。それはまるで一人で喜劇を演じているようだ。そう浩太郎は思った。
男は持っていた棒を振って蛇を威嚇している。棒で近くの岩を弾き、衝撃で棒の先が折れて飛んでいった。
「あぁ!近くの公園で遊んでいるときだった。ボールが茂みに入って、そこに蛇がいたんだ!きっとこいつはあのときの蛇に違いねぇ、また俺の足を、今度は左に食いつきに来やがったんだ!」
「おいおい、どうしたんだ?大げさだなぁ、こいつはただの蛇だぜ?アイダイショウ。毒を持っていない種類のやつだ。噛まれたって大したことないし・・・こいつらは手足がない代わりに体の筋肉が発達しているけど、おたくは腹筋鍛えただけでケンカに勝てると思う?」そう言って浩太郎は蛇の尻尾を慣れた風につかみ挙げた。「ほら、こうすればいい」
蛇は何事かと浩太郎のつかみ挙げた手に攻撃を仕掛けたが、それよりも早く浩太郎は蛇を投げ縄みたく振り回し始めた。そして川へ向かって放り投げた。
蛇は音と小さな飛沫を上げて川へ落ちると水面に浮き上がり、体を鞭のようにぐねらせながら泳ぎ、向こう岸へとたどり着いた。忙しく岩の隙間へと姿を隠した蛇も内心は焦ったに違いないだろう。小さな頃は昆虫や爬虫類なんかを捕まえてよく遊んだ。トカゲやオタマジャクシは簡単に捕まえられる。残酷な殺し方をしてしまうこともあったが・・・子供の頃の話だ。そう、子供の考えること・・・自分のことであっても思い出せないような、難しい昔の記憶の話だ。なかなか理解はできない。だがしかし、小さな頃にそういったものに触れ合っていたおかげで今は何の抵抗もなく接することができる。
「大丈夫、あいつらは泳げるから」と浩太郎。
男は目をしばたいて、蛇の様子をしばらく見ていた。
「そういえばあんた、さっき右のふくらはぎに蛇に噛まれた傷が残ってるって、そう言ったよな?偶然だが俺にも同じような傷があるんだぜ。あんまり覚えてはいないけれど、親父には蛇に噛まれたんだと聞いてる」
浩太郎は屈んで右足のズボンの裾を上げようとした。しかし裾に手をかけた瞬間に男が口を開いて、浩太郎はそのままの姿勢でぴたりと止まった。
「あぁ別に君の足に傷があるかどうかなんて興味はないんだ。知っていても何もならないし」
「そうか、ならいいんだけれど・・・珍しかったからさ」浩太郎は残念そうに答えた。
「俺も取り乱したからといって無闇に自分のことを話すのは良くないと、そう教えられたよ。ありがとう、君」男はにやついた。「つまり蛇というやつは俺にとっては最悪のアンラッキーアイテムだってことだけが言いたかったんだ」
川の向こう岸を見ても、泳ぎ渡った蛇はどこに隠れているかは見えないし分からない。だがきっと恨めしそうな目で自分のことを睨んでいるんだろうな。浩太郎は考え、それから自分のアンラッキーアイテムを思った。
俺の場合は・・・なんだろう?
「ところでさ、おたくがあんまり取り乱すから、ははっ、その棒折れちゃったな」浩太郎は男の持つ棒を指さした。棒は先から四分の一ほどの部分で綺麗に折れて、先はどこかへ飛んでいってしまっている。
「あぁ?何だと?本当だ、くそぅ、棒が折れてしまってるじゃないか・・・やはり蛇のやつめ」男は深く息を吐いた。「最高の、一番いい長さだったんだけどな。どこかに代わりのはないかな?」
男がきょろきょろと忙しなく顔を動かしている姿を見て、浩太郎はその姿が妙に滑稽に思えた。何でこいつはこんなことをしているんだ?面白いやつだな。浩太郎はたまらず口の端を持ち上げて小さく笑った。
「ん?どうかしたのかい?」男が気づいて言った。
「いや、何でもないんだ。ただあんたが面白そうな人だからさ。あんたが一体何をしようとしているのかは知らないけれど・・・」
「知りたいのか?」
「えっ?」浩太郎はちょっとだけ考えて、真剣な表情をして向き直ると男を見て言った。「そりゃあ知りたいさ」
「どうして?」
「単なる好奇心さ。それ以上何もない」浩太郎は続ける。「あんただって同じだろう?服を着たままなのに、それなのにズボンも橋の上をゆく他人も同じように無視して足を川の中に突っ込んでいる人間を見れば、どうしたんだろうって誰でも思う。靴だって履いてるだろ?何か落とし物でもしたのか?」
男は体をまっすぐに立て、幸太郎の目を入り込むような勢いでじっと見つめた。幸太郎は堪らずに視線を逸らし、水面に目をやった。
「うん、君の言うことが分からないでもないな・・・特にその、ズボンも他人も同じように無視っていう言葉にグッと来た」男は手をぴしゃりと叩いた。「君はセンスあるよ。ちなみに靴も履いてる・・・」
「やっぱり大切なものを?」
「いや、だけど落とし物をしたわけではないんだ」
「じゃあどうして?」
「この川で死ねるかどうか、それを調べるためさ」男はきっぱりと言った。
冗談なら面白くない冗談だし、同じような冗談を言うやつなら友人にもいる。浩太郎は思った。
「あぁ、何もかも面白くないし死にたいぜ」
そうやって遠くを眺めながら言うやつだ。浩太郎はこうやって簡単に、死にたい、なんて言うやつにはむかっ腹が立ったし、冗談だとしても聞きたくもなかった。その友人は翌日になって見れば、パチンコ屋になけなしの金をつぎ込んで大抵は勝つ。そして満面の笑みでハイライトを燻らせながら、ヤニの臭いのする声でこう言うのだ。
「まだまだ俺には神が付いているんだな。まだ死ぬなだとよ」と。
浩太郎は男が言ったことを半ばすんなりと理解できた。そして連れの時と同じように腹が立つ・・・はずだった。どうして腹が立たなかったのか、浩太郎は瞬時に判断した。友人が言う、死にたい、なんて言葉は冗談だからだ。そんな覚悟も何もないのに重い言葉を軽々と口にするその安っぽい態度が許せないからだ。だがどうだ?この男、目の前のこの奇妙な男は冗談を言っているような目じゃあない。それは分かるさ。空気ってやつがあるだろう?マジな空気ってやつが。誰かが怒ったり、悲しんだりしているとき、どうやら話しかけられるような空気じゃあないって言うじゃないか。これにはあれと似たところがある。男の目は酷く澄んでいて、静かな目をしていた。
そんな男に浩太郎は興味を持ってしまった。
「おいおい・・・っていきなりだな。冗談・・・なんだろ?」浩太郎は言った。
その言葉に男は少しだけ不満そうな顔をして小さく首を横に振った。「やっぱり言わない方が良かったな。どうせそんな反応を見せるとは思ったよ。さぁ向こうへ行ってくれ、君には悪いが邪魔になる」
男は浩太郎を払い退けるように手を振ると、川へと向き直ってまた足を突っ込み、今度は少しだけ深いところへ行って棒を入れたり出したりを始めた。どうやら川の深さやら川底の様子を探っているようだ。浩太郎は川縁の岩の上に腰を下ろして、いささか緊張しながらその様子を見守った。
本当に死ぬつもりなのか?そのためにこうやって調査をしているっていうのか?そんなことって・・・なんて馬鹿馬鹿しいんだ。阿呆な戯れだ。理由は何だ?どうせくだらない、いやくだらないかどうかは俺が決めることではないけれど。うまく注意してやるよ。考え直すようにな、それができるか?俺に、だがなぜ止める?
男は川に入っている。浩太郎は石に座っている。色んな考えが浩太郎の頭を振り子時計のように行ったり来たりしていたが、どれもこれも不愉快な音を奏でていた。草がサラサラとなる音。川の流れる音。男が川の水をかき分ける音。橋の上を鈍い音を鳴らしてトラックが通り抜ける音。蛇が体を地面に擦り付ける音も雲が流れる音も日差しの鋭い音も何もかもが不愉快に思える。本当にそんな音が聞こえるのか?そんな音が、本当に?どれもこれも不愉快だ。本当に不愉快。本当に?本当に?本当。
浩太郎はいきなり立ち上がって鼻を膨らませた。握った手の平の中で汗がじわりと滲むのを感じる。
さぁ早く判断しろよ。
「なぁ、ちょっと聞いてくれ!」浩太郎は声を張り上げた。
声に反応して男が振り返り、ニタニタと笑いながら川をかき分けて戻ってくる。短くなった木の棒を川の中へ放り投げて、棒は音を立てて水着すると川のネズミ色にとけ込みながら川下へ消えていった。男は川縁の石を黒く濡らしながらどこか自慢げに戻ってきて、浩太郎の前へ足を広げて仁王立ちすると顎をしゃくり上げた。
「どうやらここで俺が思っていたことは実行できそうだ。計画を知っている君は分かるね?さぁ、最良の日だぞ!」男は得意気に言った。
「いやぁ、その話なんだけど」と浩太郎。何をどうやって言う?シンプルに言うか?人生の素晴らしさを説くか?それにしても最良の日だって・・・ふざけてる。
「その話?もしかして君、俺の計画を止めようとしているのかな?」
「そのまさかだよ」浩太郎は答えた。
「よしてくれ、そんなこと。君は正義感で言っているのか?それとも平和主義者?心理学の話はできる?もしくは精神理論でもいいが、人の死には・・・」
「そんな話がしたいんじゃあない」むっとして遮った。
「じゃあどう納得するつもりだい?」男がロボットみたく無感動に言った。
納得だと?浩太郎は思った。そんな風に父さんの言葉を使うな!こんなやつに納得などできるものか。
「ただ見過ごすことはできないから」
「そうか、君はいいやつなのかも知れないな、きっと。その目だって真剣だし、それにグッと来るね」男は小さなガッツポーズをして見せた。浩太郎はポケットに手を入れて何も言わなかった。「こうやって目の前にしないと意外と人の良さは分からないかも知れない。尊重もできたもんじゃあないからな。でもしかし君は悩んでいるね。どうかしたかい?」
「どうもしないさ」浩太郎はそう言って男から目をそらした。そらさずにはいられなかった。目の前の男(およそ死にかけの)よりも自分が下に思えて情けなくなった。目の前の男ははっきりとした像の自分を持っているように見えるが、自分は持ててはいないだろう。持っていたとして、崩れやすい砂の城で、波に寄せられればあっという間に飲み込まれてしまいそうだ。押し波に必死に耐えても、きっと引き際に連れ去られてしまうだろう。作っては連れ去られ、作っては連れ去られるが、きっといつかは頑丈な城を築けるはずさ、浩太郎。
「俺は正しいと思うことをしたいだけだ」
「ブラヴォーだよ、君」男は目を見開き口の端を持ち上げて、首を上下させながら手を叩いた。「そう思うなら悩まなくてもいいんじゃないか?え?くだらないことに神経使いやがって、それで悩むなんてくだらないぜ」
男の言葉遣いが徐々に汚くなってきたことに浩太郎は少々驚いたが、浩太郎は冷静に男を見返した。ハンチングの下から見える瞳は恐ろしく澄んだ茶色をしている。入れ立てのストレートティーみたいだ。しっかりと二分間蒸らして入れたやつ・・・もしくはガラス細工のような。
浩太郎がポケットから手を引き抜くと、杵屋のパンの紙袋が地面に落ちて男の足下へと転がった。浩太郎が反応する暇もなく男は屈み込み、丸まった紙袋を拾った。
「むっ、これは!」男の口から言葉が飛び出すように出た。「これはもしかして杵屋の紙袋じゃあないか?しかもこのにおい・・・わずかだがにおいが残っているぞ!クリームパン!これはクリームパンのにおいだ!君、食べたのか?」
「あぁ・・・食べたけど・・・」浩太郎は不思議そうに答えた。
「何てことだ、俺はまだ一度もこれを食べたことがないのに!どうして一人で食べようとするんだ」男は独り言のように始めた。「分けて食べようとは考えないのか?どうしてこんな・・・」
「食べたかったのか?」
「食べたかったさ。せいぜい美味しかったろうよ、君は。滅多に食べれたもんじゃあないからな。知っていたくせに。君は兄弟が食べたがっていても平気な顔して一人で食べるんだろう?そういうやつさ」
「俺に兄弟はいない」
「そうか?本当にそう思っているのか?」
「本当だとも。両親は離婚したけれど・・・」そう言って浩太郎は自分が言わなくてもいいことを口走ったことを微かに後悔した。言ったところで何もならないとも思った。「とにかく家を出た母さんが別のところで子供を産んでいたとしてもそれを兄弟なんて簡単には言えない。俺は父さんと母さんの子供で、一人っ子なんだ。上も下もない」
男は何も言わずに黙って浩太郎を見つめて思案したあと、丸まった紙袋を丁寧に伸ばし始めた。そしてそれを綺麗にたたみ、一度においをかいでから胸ポケットへとしまった。
「これはもらっておくよ。君はいらないんだろう?」
「好きにするといいさ」浩太郎は沈みがちな声でのろのろと言った。
橋の上を見上げると、キリンみたいな細くて背の高い体格のビジネスマンと目があって、彼はぷいとそっぽを向いて腕時計を確認しながら歩いていった。車が三台連なって行く。こうしていると訳もない物音が四方八方から耳へ流れ込んでくる。
「計画は明日の十時に実行する。朝の十時だ。君は計画を知っているんだし、公平に執り行いたい。必ず来てくれよ」男は淡々と言った。
浩太郎は顔を男へ戻して、その場から男が消えていることにはたと気づいた。驚いて左右を確認したが男はいない。浩太郎は視線を地面へと落とした。水に濡れた跡があるはずだ。地面は濡れていた。しかしその場所一部が濡れているだけでほかの場所は濡れていない。馬鹿な、一体どこへ?
突然耳元で男の声がした。
「俺の名前は年と、そう呼んでくれたらいいよ。年だ。明日の十時、きっと来てくれよ」
浩太郎はのどの奥から悲鳴がほとばしりそうなのを必死で我慢して振り返った。年と名乗る男はすでに数歩下がって穏やかに笑っている。浩太郎は何も言えずにいた。年は右手で口元を押さえ、含み笑いをして石段を駆けるように登っていった。彼の進んだ道には水跡が残り、しばらく眺めていると、うっすらと色をなくしていった。