その一
橋の上から下を流れる川を眺めて、川の中に足をつっこむその男の姿を一見したときには、最初は男が何か大切なものを川の中に落としたのだと、そう思った。もう一度それをよく見たとき、千原浩太郎は男の手に何か長い棒のようなものが握られているのに気づいた。杖のようにも見えたので、不安定な川底にしっかりと立つために自ら用意したものなのか、たまたまその辺に落ちていたり、流れてきたものを何気なく手にしたのかは分からないが、男は棒切れを川底に突き刺すようにして持っている。
浩太郎はしばらく橋の上で男の様子を眺めていたが、次第に気になり始めていた。
「おい、あんた!そんなところで一体何をしているんだ?」浩太郎は男へ向かって呼びかけた。
しかし男に声は届いていないようで、男は一度顔を上げて周りをきょろきょろとした後、手元の棒切れを見つめてからもう一度作業に戻った。
鼻を鳴らし、もう一度男に呼びかけようとして止めた。どうせ聞こえはしないだろう。浩太郎は橋の欄干に、手にしたパン屋の紙袋ごと寄りかかると橋の下をのぞき込み、それから不思議な男のいる川縁へと降りてみることにした。なぁ、浩太郎、行ってみればいいよ。
―― 物事の決定権は誰にある?それは浩太郎、お前自身の中にあるんだ。だから人は納得するまで考えなければならない ――
父の言葉。
千原浩太郎の父は中学、高校生を教える現代国語の教師だった。毎朝自分よりも数時間も早く学校へ出かけていく父は、自動巻のダイバーズウォッチを腕に巻いてから針を合わせ、靴を履き、少し深めの帽子を被って出て行く。朝は必ずみそ汁を飲んだ。
“治さん”それが生徒たちからの父のニックネームだった。
「お前は将来何になりたいか、考えたことはあるか?」
ある休日の昼食の時間、表面が焦げるくらいに焼いたウインナーをパンに挟んで頬張っていると、テーブルの対面に座った父はコーヒーを啜りながら言った。
浩太郎は父の質問にすぐには答えられず、口の中にパンを詰め込んだまま止まっていたが、頭の中だけはいやに回転していて、様々なことを思った。父さんは食事のときにぺちゃくちゃとお喋りするのは嫌いなのに、こうして自分から話を始めるなんて珍しいな。機嫌も良さそうだ。でももしかしたら僕をはめようとしているだけで、本当は怒っているのかも・・・だとしたら父さんの本を勝手に持ち出したのがばれたか?階段の手摺りに“KC”と掘ったのがばれたか?なぁ、どう思う?
「浩太郎?」
「はい、父さん!」浩太郎はいささか驚いた表情で答えた。
「どうした?そんなに驚かせてしまったか?」父は少しだけ笑った。「まず口の中のものを食べてしまいなさい」
浩太郎は必要以上に長く口の中のパンを噛むと、ゆっくりと飲み込んで、それから長い息を吐いた。
「質問は何だったっけ?」浩太郎は言った
「うん、お前は将来の夢とかを持っているか?夢といわなくても、目標や・・・お前が進もうとしている道を見えているか?」
「・・・分かりません、まだ」浩太郎は首を振った。「でももしかしたら父さんみたいな教師になっているかも。ほら、医者やスポーツ選手の子供が父親と同じ道を進むでしょ?芸能人も多そうだな、うはっ」
「浩太郎」父は少しきつい口調で浩太郎の名を呼んだ。
「はいっ」と浩太郎。
「自分の親がそうだから、周りがそう言うからならなければならないと・・・お前はそんな風に考えているんじゃあないだろうね?」コーヒーカップをテーブルに置き、両手を組んで父は続けた。「お前は私の子供だが、お前はお前なのだ。お前も早十四歳だな。決定権はお前にある。周りがあれやこれやと決めつけていいものではないのだからね。決めるのは自分自身だ。自分自身の声をよく聞きなさい。そして納得するまで考えて決定しなさい」
浩太郎は少し沈んだ面持ちで父親の顔をのぞき込み、わずかに震えて答えた。
「そうじゃないんだ。父さん・・・本当になりたいと思って、父さんのような教師に・・・」
父は浩太郎の瞳をしっかりと見て、一呼吸おいた後「そうか、ならばいいんだ。すまない。お前がなりたいのならね」そう静かに言ってまたコーヒーを飲み始めた。
穏やかな表情だった。
川縁へと降りた浩太郎は男のことを黙って見守るつもりだった。ただ少しだけ話しかけて了解をもらったあと、その辺の石に腰掛けて見守る。川の男とのやりとりはそれだけのつもり。しかし先に話しかけてきたのは予想外にも男の方だったのだ。
男はやはり足を川の中へ入れたままの状態で木の棒を杖代わりに立ち、そして言った。
「君、俺に何か用事があるのかな?それともこの川縁は君の特等席か何かか?」
いきなりのことで浩太郎は、それが自分に向けられた言葉だとすぐに気がつけなかった。それで浩太郎は鹿のように首を伸ばして辺りをキョロキョロしたあと、どうやら自分しかいないのだと分かると自分自身を指さしながら小さく「俺?」と言った。
「そう、君のことだ」男はすっと手を上げて浩太郎を指さした。「俺のことをさっきも上から見ていたね。何か言っていた様子だったが」
浩太郎は男の言葉に一瞬驚いて心臓が強く打つのを感じた。
「そうなんだ・・・なんだ気づいていたのか」浩太郎は言いながら男に近づいていった。「それならいいんだけど、さっきから・・・」
「悪いんだが!」男が声を上げた。「それ以上進まないでくれ、君のために」
浩太郎はつんのめりながら立ち止まり、驚いた表情のまま男を見やった。
「あと五歩右を歩いた方がいい。君から見てね」と男。冷静で丁寧な物言いで。「ほら、そこの下濡れているだろう?さっき見つけたんだが、意外とそこの水溜まりはでかいよ」
一歩進んだ足下には短い草が固まるようにして生えている。浩太郎がその草溜まりをよく見ると、太陽の光にわずかに照らされて、草溜まりの下を水がサラサラと流れているのが見えた。
立ち止まった浩太郎の姿を見ると、男はニコリと笑ってうなずいた。
「あぁ、ありがとう」浩太郎は軽く感謝した。
「いや、構わないよ。ところでもしも用事があるのなら少しだけ待っていてくれないか?もう少しなんだ。もう少しで終わる」男は言った。
浩太郎は乗り出して、一体何をしているんだ?と、そう聞きたかった。しかし男のガラス玉のような薄い目を見ると萎縮して何も言えなかった。浩太郎は五歩右から回り込み、腰掛け程度の小さな丸石に座って待つことにした
男は再び川へと向き直り、今度は少しだけ深いところまで入り込んでゆく。膝下まで川の中に沈み、男の膝のところで水が砕けて白い飛沫が舞った。先ほどと同じように何度か手にした木の棒を川底に突っ込んで、時折何かに納得したらしく、餌をつつく鳥のように素早くうなずいて見せた。
男の姿はこうだ。頭にはベージュと薄い朱色のハンチングを被り(シャーロック・ホームズか、もしくはこちらの方が今や分かりやすいかもしれないが、名探偵コナンが被っているようなやつだ)、薄いピンクのクレリックシャツを着ている。およそウール素材の灰色のチノパンを履いていて、膝から下は川に浸かっていて見えない。歳は二十六歳の自分と同じか、もしくはもう少しだけ上に見えた。ハンチングの下から半分だけ下ろした前髪がユラユラしている。
夏は完全に去ろうとしていたし、気づけば十月もすぐそこまでやってきていたので、もう川遊びをしている人などはいないが、それでもまだ今年は蒸し暑かった。初秋の風が水面を滑るようにして風上から流れ吹き、水面に波紋を立てた。作業をしていた男もしばし作業を止め、川上の方を静かに眺めていた。浩太郎も同じだった。
風が止むとまた川縁は静かになり、音もなく流れる川は綺麗だったが、それでも陰気な印象に映った。川縁に植えられた常緑樹や勝手に生えそろった雑草の茂みは秋特有のもの憂げさからなのか、妙に埃っぽく、これからじわじわとやってくる冬に対してすでに諦めているか、打ちひしがれているようにさえ浩太郎には思える。何年か前に地元の小学生たちが川の緑化運動と銘打って(何か目標か目的みたいなものがあったような気もする。川に生き物たちを呼び戻す、だとか、生き物たちの住処は川の浄化へつながる、のような)川縁に花や木を植えていたが、その管理を徹底していたのはそれから一年あまりで、茂みに潜んでいた水溜まりに小学生が足を突っ込んで大怪我をすると、その後は管理がされなくなった。一体あの運動は何だったのか?おかげで川縁には植物が彼らの楽園よろしく好き放題に生え茂っている。人が手を出さない方がきっといいんだ、とそう思って浩太郎は一人苦笑した。
浩太郎は手にした紙袋からクリームパンを取り出すと、紙袋をクシャクシャに丸めてポケットへ突っ込んだ。昼飯にと買ってきたパンは家に帰ってから食べようと思っていたが、この男を眺めながら食べてしまう。どうやらこっちの方が興味深いし面白そうだと思った。駅前のパン屋“杵屋”のクリームパンは人気があって滅多なことでは残っていないが、今日は偶然にも一つだけ残っていた。小学生の頃父親がもらってきたものを食べて、美味しいと思ったあの味を覚えている。今こうやって食べてみても確かに旨い。クリームの甘さが絶妙だし薄い生地がクリームを邪魔せずに包んでいる。なのにどうしてあそこのあんパンだけは美味しくないのか・・・甘すぎる。
トラックが一台、橋の上を走り去っていった。再び風が吹き、さっきよりも少しだけ強い今度の風は、川縁の色んなものの隙間へ入り込みながら、ウーウーと下手な口笛を吹いた。強い日差しが浩太郎を照らし、浩太郎はそれを手で押しのけるように防いだ。それで効果があるようには思えなかったが、気持ちだけは幾分ましになった。
「何だあれは・・・雲?」浩太郎は呟いた。
空の端の方に、一際大きな雲が見えた。真夏の積乱雲のような巨大なやつだったが、それとはまた違う風に見えた。それはどうやらこちらに向かってゆっくりと流れてきているらしく、この忌々しい日差しが止んで日が落ちるのが早いか、あの巨大な雲が空を紫色に覆い尽くし、日差しを遮る方が早いか、いずれにせよその内に暗くなりそうだった。
おい、相棒、お前はどっちが早いと思う?雲が早い?それとも時間の方が早い?浩太郎は自分に問いかけるようにそう思った。
浩太郎は顔を上げた。すると男が立ちつくしたままこちらを見ている。浩太郎は手を軽く上げて男へ合図を送った。別に何の意図もない、ただ単に合図を送った。それからもう一度空を見上げて大きな雲を眺めた。
ふいに面白い幻想が頭をよぎった。冒険ものの小説やファンタジー作品などを読み漁っているようなものに生まれる、突飛な幻想と言えるだろうか。巨大な雲が突然割れるように左右に裂け、その向こうから巨大な空飛ぶ戦艦かUFO、もしくはドラゴンなんかが姿を現すのだ。浩太郎はぞくぞくしながら想像した。しかしそれは決して味方などではない。火を噴きレーザー光線を雷のように落としながら町を破壊し近づいてきて・・・浩太郎は激しく心臓を鳴らしながら恐ろしい光景に目をつむった。
一度立ち上がって背筋を伸ばしてから、深く深呼吸をして自分に言った。「くだらないことを考えすぎだろ」
男は未だにこちらの方を見ている。手にした棒をだらりと下げ、水に沈んだその先端は白く砕けた波を伴っている。風がまた吹いた。
それからすぐに男が川から上がってきた。音を鳴らしながら川の水を押しのけ、川岸に上がると、男の靴の端から溢れるように水が流れ出した。チノパンは水に濡れ男の足にべったりと張り付いているし、裾からは滴がしたたり落ちている。
「やぁ、待たせたね」男は大きな声で言った。はっきりと浩太郎に聞こえさせるためには大声を出さなければならなかったのだ。男は濡れた足を引きずりながら前へ進み、浩太郎の方へ歩いてきた。
「そんなことないさ」浩太郎は言い返して同じように男の方へ歩いていった。
男はうなずき、手頃な石に片足を乗せると靴を片方だけ脱ぎ、中に溜まった水をはき出させた。男の履いていたティンバーランドの茶色いスニーカーからは水が流れ落ちた。
「もう作業は終わったのかい?」浩太郎は聞いた。
「あぁ、とりあえずはね」と男。
「本当に?」
「あぁ、もう確かめたからね」
「確かめたって・・・川に入って何を?」
男は答えなかった。代わりに浩太郎の目を爬虫類みたいに鋭く見返して、浩太郎を驚かせた。浩太郎は目を見開いたままで息をのみ、それから目をそらした。
「服のまま入っちゃって、大丈夫なのかい?」
「大丈夫さ」
まだ日差しは大地を照らしていたが、空の端にあった巨大な雲は音もなく空全体へと広がろうとしていた。雲は灰色の不気味な雲で、どうやら雨雲のようだった。この巨大な雲は雷を落とすかもしれない。それならばさっきの突飛な考えもあながち間違いではないかもしれない。男は足元を見ながらもう片方の靴の除水作業を始めている。浩太郎はぎこちなく肩を回した。
「雨が降りそうだな」男が言った。「もう少しで本格的なやつが」
「そうみたいだな、さっきからどんどん大きく広がってる」
「向こうの方だと、あの雲の下だともう降っているな」
「かもね」簡単に答えた。
「かも?かもだって?」男は顔を上げた。その声は少しだけ苛立っている様子だ。「降ってるに違いないだろ」
「あ、あぁ、降ってるよ、絶対に」そう言いながらも全くもってどうでもよかった。
男は満足したように優しい表情を取り戻して浩太郎に向けた。
浩太郎は雨が降り始めるのを想像しながら雲を見た。色づいていたものが全部雨の灰色に変じてゆくだろう。予期せぬ突然の雨に人々は走り回り、商店の店先に肩も狭しとみんな雨宿りをする。その前を傘もささない元気な学生たちや急いで走るサラリーマンが通り過ぎて行く。自動車はワイパーを全力で動かしながら、道路にできた水溜まりをはね除けて進むのだ。しかし雨が止めばこの暑さも止んでゆくに違いない。冬に向けて寒さがゆっくりと包んでゆくに違いない。