第31話 第3章スタート!!武田信玄と写真
1570年9月15日
甲斐・躑躅ヶ崎館
甲斐源氏第19代当主であり甲斐武田氏第16代当主。
武田晴信(49歳)
(今後は武田信玄で統一します。)
甲州透破忍びの副官・出浦盛清から、歩き巫女の仕入れた敦賀若狭方面及び東美濃の情報を協議するため、甲府にいる重臣達を呼び出した。
それ以外にも武田家に激震をもたらす出来事を2つ、知らせるためもあったが。。。
信玄
「敦賀に特大な港を作り、京の都までの海運を開いた。
信じられん事にその港は一夜で出来たそうだ!
そして今月1日、我等同族の若狭武田に己の息子を養子として入れ、直ぐに武田元明を隠居させた。
跡を継いだのは信長3男の織田信孝だ。いまは武田信孝を名乗り若狭守護職を任命された。
室町幕府から正式にだ。。。」
武田勝頼(24歳)
「ぐぬぅ。。将軍家も何を考えておる。。。」
信玄
「それにしても織田の年初からの勢いたるや、桶狭間にて治部大輔《今川義元》を討ち取った10年前の比では無い。」
山県三郎兵衛昌景(55歳)
「これで陸路では公方様のおわす京の都には入れませんな。」
馬場美濃守信春(55歳)
「やはり駿河から武田海軍にて出ざる得ませんが、遠江の沖に《《あれ》》がおりまする。」
内藤修理昌豊(48歳)
「徳川の城も改築が終わり"浜松城"と命名したとの事。
なのに《《あれ》》は一向に動きません。工事が終われば尾張に戻るとの噂もありましたが。。。」
高坂弾正昌信(43歳)
「確かにあの白く巨大な浮島は邪魔に御座いますが、まずは高天神城を攻めるべきかと。」
勝頼
「駿河国焼津の花沢城に兵を集結し攻めてみるか!!」
信玄
「弾正、勝頼急くな!今はそれどころでは無い。今日呼び出した理由は、東美濃に突如現れた巨城に関する話しをせねばならぬのだ。」
「「はっ!」」
「2つあってな。。。2つとも嫌な話だ。。出浦、まずは御主から一同に話せ。」
出浦盛清(24歳)
「はっ!この三月で我が手の者延べ56人送りました。女中・下男・大工・庭師・商人等々に成りすまし城に赴くのですが、必ずそこを通らなければならない通用門がありまして。。。そこで素性から何から何まで見抜かれます。。。」
馬場
「面妖な。。」
高坂
「素性が見抜かれれば命はあるまい。延べとは?」
出浦
「透破・忍びの類いは拷問に掛けられ、口を割ろうが割るまいが生きては帰れませぬ。
意図は不明なれど織田家では帰されます。延べと言うたのは、2度行って2度バレた者が数人おるからです。」
一同
「?????」
山県
「何から何までと言うたが?」
出浦
「名前、通り名、年齢、生まれ故郷、親兄弟親戚全て、中には好物のふかし芋まで言い当てられ、土産だと持たされた者が出る始末。。。」
勝頼
「ならば出浦、夜間に本来の忍びとして侵入すれば、通用門を通らずとも済むであろう。」
出浦が信玄を見る。
信玄は苦渋の表情で目を閉じながら数珠を握りしめ
「1つ目の嫌な話だ。そちから皆に話して構わん」と促した。
出浦
「それでは、、某の配下16人!
秋山十郎兵衛様の配下12人!
総数28人を夜間に忍び込ませましたが、帰還者はおりません。。。」
一同
「「なっ!。。。。。」」
出浦
「中には上忍3名、中忍7名の腕利きも含まれ、今は編成を組み直している最中です。。。」
内藤
「上忍が。。。3名もか。。」
高坂
「信じられん。。忍の腕前は訓練で何度も手合わせをしてよく知っている。
護衛が居ないという普通ではあり得ない状況ではあったが、上忍とは5回やって2回暗殺された。。。。。」
勝頼
「上忍の暗殺を、3回防いだだけでも凄いと思うが。」
高坂
「いえ若君。3回は急所を防げただけで、腕に傷を負わされました。上忍いわく毒を塗った刃物であれば5回ともワシは死んでおります。。。」
信玄
「ただならぬ事態になっておる事は理解できただろう。武田の忍びに上忍は8名。その内3名が殺られた。。
上忍である出浦と秋山は自らが東美濃に出向いて様子を探っているが、今夜の呼び出しに東美濃から戻ってきたのは。。出浦1人。。。」
高坂
「まさか!!秋山殿が!!!」
信玄が静かに頷く
馬場
「出浦!繋ぎは無いのか!!」
「一昨々日の朝、"今夜東美濃を離れ甲府に立つ"との伝言を受けた下忍が、昨日早朝に繋ぎとして報告に来たのが最後です。。。」
甲斐源氏惣領・武田氏分流の秋山氏の一族でもある秋山十郎兵衛。
上忍であり武田忍び軍団を纏める要でもある。
高坂
「嘘だ!!!あの秋山殿が!!何かの間違いだ!!」
内藤
「落ち着け弾正!どうした?。。。まさか?御主の訓練相手とは?」
高坂
「訓練で2回暗殺された内の1回は秋山殿でした。。。」
「「「。。。。。」」」
馬場と視線を合わせ、2人して頷いた後に山県昌景は
「殿、織田の領地に手を出すのは暫く止めた方が賢明かと。」
山県の意見に対して、普段好戦的な武田勝頼さえ反論する気配は無い。
信玄
「もう1つワシから伝えねばならぬ最悪な話がある。信濃に真田等と視察に行っておる弟の信廉が、一昨日織田家からの書状を受け取ったそうだ。。。」
山県
「書状?織田家。。信濃で?」
「全く同じ物が今朝ワシの寝所にも置かれていた。。これだ。。」
山県昌景に書状を手渡す信玄。
「殿の寝所にですか。。。では失礼して。。。。。。これは!!」
武田信玄と信玄実弟・武田 信廉(42歳)へ織田信長からの書状。その内容は
**********
武田信玄殿
総数《《29》》人の武田忍びを預かっている。
その中には秋山十郎兵衛もいる。
返して欲しくば今すぐに駿河全域から撤退しろ。
返答期限は今月中つまり9月30日!
9月29日昼より全員、東美濃城内城壁から城下の民に見える様に磔にして晒し者とする。
返答無き場合10月1日の朝8時
東美濃"池田城"大手門前で"逆さ磔串刺しの刑"に処す!
朝廷・室町幕府
甲斐・信濃・駿河・遠江・三河
尾張・伊勢・志摩・美濃・飛騨
越前・若狭・近江・山城・摂津
和泉・河内・淡路・讃岐・阿波
土佐・伊予・伊豆・相模・武蔵
上野・堺
以上、朝廷・室町幕府及び26カ国と堺自治地区全てに、
この織田信長から武田信玄に宛てた書状と同じ物を9月16日に送る。
市中にも無数にばら蒔く。
その意味が分かるか?
忍びの者に秋山十郎兵衛までいる。
武田信玄は自らの家臣を見殺しにしても、駿河を手放さない人間なのか?
それとも家臣を救うため駿河より撤退するのか?
日本中が注目するであろう。
朝廷も将軍家もしかり。
さて"どうする信玄"?
なおこの書状であるが
武田家領地である信濃国を視察で訪れた、信玄が実弟・武田信廉殿の枕元にも届けておる。
その意味も分かるであろう。
余の"影部隊"の精鋭達は例え敵国であろうと、朝廷・将軍家であろうと、何処にでも《《書状》》を届けられる。
護衛が何人いようと、御主等の《《寝首を掻く》》事くらいいつでも出来るのだ!!
その証拠を近い内お見せしよう。
素晴らしい《《絵画》》だぞ、楽しみに待っておれ。
織田信長
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誰1人話す者はいない。26カ国と堺、朝廷・幕府をも捲き込むあまりもの壮大な事に話せないのである。
長い沈黙を破り信玄が右側に置いていた箱から《《それ》》を取り出した。
「今朝目が覚めたら書状と一緒に寝所の中に置かれていた。。。護衛の者達は誰1人気付かなかったそうだ。
相手がその気なら今頃この首は、胴体と離れていたと言うことだ。。。
それにしてもこれは。。。何度見てもこの世の物とは思えぬ。。。
それと武田は《《丸裸にされておる》》。。。まさかこんな所までとはな。。」
「これは!!ワシじゃ!!」
「こんな事が。。。生き写しではないか。。。」
「覚えてるぞ!!槍の稽古後だ!」
「俺もだ。。。握り飯食べてた時の絵だ。。」
「絵なのか?まるで生き者。。」
「躑躅ヶ崎館がこんなに。。いつの間に。。上忍として。。。失格だ。。」
箱の中から出てきた物は
信玄・信廉・信豊(信玄弟)・信友(信玄弟)・勝頼・山県・馬場・内藤・高坂・出浦、10人を写した10枚と、躑躅ヶ崎館の内部を詳細に写した50枚の"写真"だった。
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甲斐・躑躅ヶ崎館での写真騒ぎより2週間前。
1570年9月1日若狭国小浜
守護館
信長三男・織田信孝(12歳)と若狭武田家第9代当主・武田元明(18歳)との養子縁組の儀が恙無く終了し、織田信孝改め武田信孝となる。
その席で織田信長による武田元明の隠居、若狭武田家第10代当主・武田信孝の襲名が発表される。
室町幕府からは細川藤孝が将軍名代として訪れ、武田信孝を正式に若狭守護職に任ずるとした。
織田家から筆頭家老として織田信興(信長実弟・信孝叔父)。
他にも河尻秀隆・山内一豊等を家老として入れた。
軍事面では直轄第2軍団長・菅野智之3万を配置。
織田家から8千・旧若狭武田家2千・合計4万の兵が若狭国に駐屯し内政・治安維持に勤しんでいる。
その中から現在、1万5千の菅野軍と8千の河尻軍で隣接する丹後国・一色義道の建部山城を取り囲んでいる。
信長
「藤孝まずはこれで良い。6月の若狭平定の帰り、10万の織田軍で京へ雪崩れ込むのを止めた見返り。
信孝の若狭守護職就任を果たしたのだからな。」
細川藤孝
「はい《《殿》》。丹後・丹波の平定が終わるまでは今しばらく、室町幕府の存続をお許し下さいませ。」
信長
「丹波の籠城戦は三月目に入っておる。田植え前に城を囲んだゆえ兵糧が切れる頃だ。
攻撃は手加減をしており降伏を促してるが、八上城の波多野にその気がない様子。
今日井戸を土砂で埋め、調べた地下水脈も水の手を切った。
明朝から飲み水は城内に蓄えておる水瓶だけになる。」
藤孝
「城内の井戸に土砂ですか。。。どうやって?と聞いても、詮索無用としか答えられないでしょうから止めときます。」
「ふん、だが余は兵糧攻めの趣味は無い。
あと1週間ほど取り囲み敵兵の体力気力が落ちれば十分だ。
それでも開城せぬ場合、第10の宮城軍団長に総攻撃命令を出す。午前中で落ちるぞ。
それを一色義道にも知らせる。降伏すれば良いがな、歯向かって来たら滅ぼすしかない。
既に黒井城・国領城・鬼ヶ城等も落ちておる。
八上城は孤立無援!10日もあれば両国とも織田家の支配下に入る。」
藤孝
「それでは死体の山になります。。。穏便にお願いしたいのですが。。」
信長
「ああ、殺しはしない。できる限り足を狙う。投降した者は《《聖女》》帰蝶が回復してくれる。」
藤孝
「お二人は人では無いですよね。。。」
信長
「伴天連ゆかりの秘伝の技を使っておるだけ!詮索は無用じゃ。それよりこれを御主にやろう。絵画も嗜んでおるのだろ?」
そう言って文化人としても知られる細川藤孝に、1枚の"写真"を手渡す。
藤孝
「こっ!!これは!!!」
「写真というものだ。伴天連ではピクチャーと呼ぶらしい。」
「紛れもなく某に御座いますれば。。。昨日、馬を撫でておりました。その場面です。いつの間に???
まるでその場を切り取って貼ったような?これは絵では無い、"切り取り描写"と呼ぶしか。。。」
「だから《《写真》》だと言うておる!これを信玄始め甲斐武田家の者達に送りつける。」
「送る?で御座いますか?」
「ああ、寝所にな。ぐっすり寝て朝起きたらこれが置かれてる。写真にも驚くだろうが、いつでも首を取れるぞという脅しにもなる。
さぞかし肝を冷やすだろうて。」
「。。。それも《《伴天連の技》》に御座いまするか?」
「おうよ、分かってきたではないか藤孝!下手な詮索はせぬ事こそ長生きのコツと言うものだ。」
「畏れ入りまして御座います。」
「それにな藤孝、このやり方は無闇な殺生を避けるためでもある。
《《使える武将》》ならその"写真"の技術の高さ。本人が全く気付かぬ内に写されておる事実。平然と寝所にまで忍び込める隠密の力量。
余が逆の立場なら両手を挙げて降参だ。
勝ち負けも何も戦にすらならぬ。そんな神のような力に抗うよりも、臣従して内政に精を出す方が余程国のためになる。」
「そのために甲斐武田家へ送ると?」
「ああ、信玄公なら直ぐに和平交渉の書状を送ってくるだろう。
だがな戦乱の世を生き抜いた武将や兵達が何万とおる。
数多くの修羅場を経験している甲斐の兵が、戦わずして降りる事を承服するか?
果たして信玄公がどれだけの兵を説得できるか?
そこが無血での開国と、大量の血を流しての敗北との分岐点だな。」
「殿はどうなるかとお考えですか?」
「武田諏訪四郎勝頼、あ奴次第だ。」
「家を割ると?」
「色々揉めたが諏訪の血が甲斐武田の跡継ぎになる事。
それだけはならぬ!と頑なに反対し、甲府衆からの指示を受けていた三条の方が7月に逝去され、世継ぎは勝頼で決まりだろう。」
「勇猛果敢な若武者と聞いております。」
「それよ!勇猛果敢なのは良いがな、奴は負けた事が無いゆえ頭では理解しても、心が納得しないのだ。
勝てぬと理解する事と、それを納得して飲み込む事は別物だからな。」
「1武将ならそれもあり得ますが、武田の跡取りとなると多数の兵が犠牲になりますな。。。」
「その答えの責任の重さを何処まで飲み込めるか?
勝頼が甲府と諏訪を割ってでも駿河に居座ると決断した時、信玄公はどう動くか?
何れにしろ結果は武田家が出す事であり、余の仕事は最悪に備え準備をしておく事に尽きる。故に丹波・丹後は10日以内で決着をつけ家康と合流する!」
「畏まりました。もし武田と戦になる場合、将軍家には何と申されますか?」
「下手な邪魔立てをした場合、明日の御天道様は拝めなくなると伝えておけ!」
「。。。御意!!」
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織田信長と武田信玄・勝頼父子
一気に緊迫度が上がって来ました。
甲斐武田の出す答え。
タイムリミットは9月30日!
あまり人が死ぬシーンは見たくないのですが。。。。。
御旗盾無御照覧あれ
m(_ _)m
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1565年
織田信長養女・龍勝院(遠山の方)と武田勝頼との婚姻がなされてます。
世に言う甲尾同盟の締結です。
がしかし、遠山の方は勝頼の嫡男信勝を出産後死去。。。(死去年代は諸説あり)
悲しいかな織田家・武田家を結ぶ僅か2年の架け橋でした。。。