君はこれを愛と呼ぶ。
ガラガラと木が軋む音をたてながら横にスライドされた扉から入ってきた人物に、思わず反射的に声が出た。
「らっしゃーい」
こう云うと酒焼けした声で客を迎える居酒屋の店主みたい だけど、それは外れ。あたしは女子大生で、ここは居酒屋ではなく、あたしの通うお嬢さま女子大学の、森羅万象のサークルたちが詰まった第三校舎、二階の左隅にある文藝研究部だ。
そんな誰からも忘れられたこの部室に、放課後や空きコマに居座るのは、あたしとさっき入ってきた楊雪慧先輩ぐらいだった。
雪慧先輩ってのは、留学生の中国人で、あたしと同じ文藝サークルに所属する、一学年留年しているせいで、元先輩だ。ちなみに身長172cmの竹のようにしなやかな長身に、色香のある桃花眼が艶やかな美女。
そしてあたしと同じレズビアンで、セのつくお友達でもある。
今日もヤんのかなぁ、って下世話なことを思いながら、あたしはさっきまで読んでた戯曲に視線を落とす。
キスしたいばかりに男の首をちょん切る美女の話。普通に引くけど、あたしたちみたいな貞操観念希薄なレズビアンも世間からしたら、まぁまぁ引かれるんだろーな。盛りすぎだろ、って。
ぱらっと次のページをめくろうとしたら、今までずっと黙ってた雪慧先輩があたしに向かって、
「ねえ、咲谷、私と付き合わない?」
と、特大のウェポンであたしの頭を貫いて、ついでに爆破させた。
「・・・は、はぁ?え、なんで?」
「なんでって、咲谷のことが好きだからだけど?」
いや、答えになってねぇよ!
あたしはオーバーキルされた脳味噌の中でそう叫びなが ら、ぐるぐると雪慧先輩の言葉を反芻する。何度も何度もこねくり回して。
____そしてひとつの結論に辿り着いた。
本を閉じ、あたしにしては珍しく真面目な表情を作り、まっすぐ雪慧先輩の目を見つめる。
「・・・先輩、傷つくようなこと云って悪いんですけど、あたしは白江先輩の代わりにはなれません」
白江桃先輩。
雪慧先輩の元恋人で、あたし達と同じサークルに所属していた、人目を惹く絢爛な容姿とは正反対な、引っ込み思案で大人しい性格の女の子。
そして彼女はもういない。この世界のどこを探しても。
あれは大二になったばかりの頃、瑞々しい葉と淡い桜がふぁさふぁさと揺れる、アンバランスな空気が停滞する四月のことだった。
白江先輩とその親が乗った車に、飲酒運転をしていたトラ ックがぶつかって、二台の車は炎上。そして両車に乗っていた人達は全員死んでしまった。
雪慧先輩の絶望っぷりは当たり前だけど半端なかった。
授業中の講義室で過呼吸を起こして倒れ、そのまま救急車で病院まで運ばれ、そしてその病院で自殺しようとしたらしい。それで今度は別の病院に一年ほど入院した。あたしは一度だけ、同じサークルのメンバー数人と、一緒にお見舞いに行った。
ベッドの上で上半身だけ起こした先輩は見たことないけど蝋人形ってこんな感じなんだろうな、って思うくらい生気がなかった。
サークルの部長や皆はあたしの隣でやたらと前向きな言葉で雪慧先輩を元気づけようとしてたけど、人形の彼女にはそれらを吸収するのは無理そうだった。
あたしは雪慧先輩にかける言葉なんて全くなかったから、ただ点滴に繋がれている彼女の骨ばってるけど白くてキレーな手を見ていただけ。だった気が、する。
あたしは白江先輩の名前を出して目を見開いた雪慧先輩の顔を、なるべく誠意を込めて見つめ、そう確信する。
すると彼女はあたしの目から、ふいと目を背け、焦がしたべ っこう飴みたいな色をした床に視線を落とした。そして絞り出すみたいに云う。
「・・・確かに、桃は関係ない・・・とは云えない、わ。けれど、」
ふと先輩の指が震えていることに気づいた。
あたしの柔い肉に滑っては下腹部を仄かに疼かせ、身体の線をゆっくりとなぞると何度もあたしの腰を弾ませていた、全能の雪慧先輩の指。
そんな彼女のゴッド・フィンガーがこんなに弱々しい動きをするのを初めて知った。驚き。産まれたばかりの子羊じゃん。指だけだけど。
そんなことを思いながら、うなだれて、なんて云うのかしら・・・と物憂げな表情で頭と、ヘアアイロンで緩く巻かれた長い髪を一房垂らした、先輩の頭頂部を見つめる。
この世界の色を全て混ぜたかのような、深い黒髪に覆われた形のいい頭と、その上の可愛らしいつむじをしばらく眺めていると、雪慧先輩がバッと頭を上げたので超びびった。
「・・・一年のとき、咲谷、トラックにぶつかったことあるでしょ?」
「へ?」
記憶をがりがり掘り起こして、ああ、あれかっ!って、納得した後、座っていた椅子を軋ませ、リラックスな格好に姿勢を崩した。
「あー、あのサークルの合宿の待ち合わせ場所に、自転車で向かってたら、軽トラに正面衝突して、そ の反動で近くの金木犀の生け垣に飛ばされて、ちょっと怪我しただけだったときの話ですか?」
「ええ、それよ」
自転車大破したけど軽傷で済んだのに、軽トラの運転手が めっちゃ心配しちゃって(まぁ普通慌てるわな)学校に連絡しちゃったんだよね〜。それで夏休みだというのになぜかいた大学の事務員さんが、勘違いして半狂乱になって「咲谷さんが自転車ごとトラックにぶつかって、意識不明の大怪我をしたらしい!」みたいなことを、サークルの顧問と部長に電話越しで叫んだらしい。
でも、そんなこと知らないあたしがぴんぴんして「遅れてサーセン、ちーす」と待ち合わせ場所に姿を現し、顧問やサークルのメンバーたちを、パニくらせたっていう、黒歴史すぎて記憶から抹消していた事件は確かにあったわ~。
そういや、あの合宿のとき確か先輩いたな。
「で、それとあたしをカノジョにするのってどんな関係があるんですか?めっちゃ意味不なんですけど」
あたしの当然の疑問に、雪慧先輩は見惚れるぐらいキリッと答えた。
「生命力が強いから」
「・・・・・・・・・は?」
ナニイッテンダコイツ。
フリーズしたあたしに構わず、先輩はペラペラ喋りだした。
「桃は大人しくて可愛いから、入学当初からテニサーの先輩にストーカーされたりして、私に泣いて縋るようなコだって、その儚い愛らしさに私は彼女に恋に落ちたの。
それに昔、左手を大怪我したことがあったらしくて、その後遺症で握力が平均よりかなり下回ってて、ハードカバーの本すら持てなかったのよ。だから桃の荷物はほとんど私が持って、恋人だからって理由だけじゃなくて、いつも一緒に行動してたのよ。けれども、誤解しないで。それは私にとって全然苦じゃなかったわ。私は少しでも桃の役に立ちたかったら。
…まあ要約すると生きるのがかなり困難な娘だったのよ、桃は」
ちょいちょい惚気入ってません?って、思わず云いそうになったんだけど、どうにか我慢する。
そして雪慧先輩は一呼吸置くと、すうっと息をつくとまた話し始めた。
「桃が死んだ後、私は天国で彼女はやっていけるのか、それだけが心配で自殺しようとしたの。けど、私は死ぬことができなかった。だから生きるしかなかったんだけど、そんなときに咲谷が事故にあった」
なんか話の展開が読めてきたぞ・・・。
あたしは心なしかキラキラしてきた雪慧先輩の平行二重の吊り目にガチで引いた。いや引いちゃ駄目なんだろうけど、まぁ顔に出さなけれ ばいいよね。
「咲谷だったら、ずっと私の傍にいてくれるんじゃないか。 急にいなくならないんじゃないか・・・そう思って私はまず身体 で咲谷を縛り付けたの。私の指で弾く咲谷の声・・・、あの桃花色の声を私しか知らないんだと思ったら、すごく愛しかったわ・・・」
そう云いながら、コツコツとあたしの元に歩み寄ってきた先輩に、あ、コイツやべぇって本能的に危機感を覚えて逃げ出そうとした。
が、運の悪いことにあたしは本棚を背にした、しかも一番奥の椅子に座っていることに気づく。運悪すぎ。右は机に塞がれ、後ろは壁が仁王立ち。そして左にある本棚は、あたしが蹴ったところでびくともしないだろう。
あたしが焦ってる間にも時は進み、それに比例して雪慧先輩はあたしにどんどん近づいてきて、そして腕をがっしりと掴まれた。
「何逃げようとしてるの・・・私が怖い?」
いや訊くまでもねーだろ! 今この状況でアンタ以外に怖い ものなんていないわ!
心の中では盛大にそう叫んだが、あたしはただ口をはくはくと開閉させることしかできなかった。そんなあたしを雪慧は、モデルのように高い背から見下ろして、満足気に顔を歪ませる。 チッ、酷ぇゲス顔なのに、そんな顔も国が傾くほどの美女だ。ムカつく。
「そのぎらぎらたぎって燃える瞳、何かに似てる・・・」
そんな詩人めいた言葉をいきなり云い放つと、そのまま雪慧は背を屈めて、その無駄に整った顔とあたしの顔をぴたっとくっつけた。吐息が耳と首筋をくすぐって、あたしの女の部分が小さく揺らいだ。
「 ああ・・・狼、狼ね。咲谷・・・・・・芳乃の瞳は狼だわ」
先輩、あたしの名前覚えてたんだ。
あたしはいきなり狼みたいと云われたことより、雪慧先輩があたしの名前を覚えてるってことに度肝を抜かれた。
「狼・・・? そこは猫みたいとか云うところじゃないんですか?」
「そんな三流ホストみたいなこと云うはずないでしょう。芳乃はそんな可愛いもんじゃないわ・・・芳乃は狼よ。夜の森を駆け抜けて獲物を喰いちぎり、星屑を映した瞳で月を睨みつける・・・ 狼、だわ・・・」
そして顔は近づき、あたし達は何十回と繰り返したキスと云う行為を、今日も飽きずに堪能する。
でもなんだか今日は物足りなくて、あたしはかぷりと口を大きく開けると、
犬歯で彼女の唇に思いっっっきり、噛みついた。
「っ…!」
予想だにしなかった痛みに反射的に頭を引いた雪慧先輩は背後にあった本棚に思いっきり後頭部をぶつけてウッと呻いた。 ざまぁみやがれ。
あたしは頭を抱えてうずくまる先輩のリボンブラウスのリボンタイを掴み上げると、狼らしくにいっと嗤った。
「確かに先輩とヤるのは気持ちいいですし、顔やら身体目当てで告ってくる男共よりは、アンタの告白は百倍良いですよ」
だけど、とあたしは呟いて彼女の、血で妖艶に濡れた赤い唇をそっと拭う。
「身体だけじゃなく、あたしの心も縛ってみてください。 運命の赤い糸なんてそんな生温いのも、チンケな犬を縛るリードなんてのも、すぐに噛みちぎってあたしは逃げますよ」
それでも良いんですか?
そう云ったあたしに、雪慧先輩は粉雪をまぶしたみたいに白い肌を恍惚に赤く蒸気させ、ふるふると首を横に振る。
「・・・私はアナタが逃げ出したら、地獄の果てだって追いかけて、つかまえるよ」
そう呟いたときにはあたしは先輩の唇にまた触れ合った。そしてあたしは両腕で彼女の華奢な背中を抱きしめる。
傷だらけの背中。弱々しい背中。
____そして癪に障るが、何より愛おしい背中をあたしは力いっぱい抱きしめて、「我爱你」とやけくそ気味に一声吠えた。