夏の嵐24
懐かしい、夢を見た。
もう戻れない昔の、夢。
毎日が楽しくて幸せだった頃の、夢。
甘いにおいで意識が浮上した。
少し香ばしくて優しい、幸せな匂い、だ。
私は、上掛けの中で、もぞりと姿勢を変える。
このままもう少し眠りたいような気もするし、起きてこの匂いの元を知りたい気もするし。
ふっかりとした枕に何度か頬を摺り寄せてから、薄く目を開ける。
暗い。
まだ夜明け前なのか、と、もう一度目を閉じかけて、音に気が付いた。
外から聞こえる雨音。ざぁざぁと続く強い雨音と、時折、ごぅと響く風の音。
「……あー…………」
そうだ、嵐が来ているんだった。
暗いのは、窓の鎧戸を閉めているから。
いつもと微妙に違う手触りの枕に、自分が客間の方に寝ていたことに気が付いた。
そこから芋づる式に昨夜のことを思い出せば、年甲斐もなく頬が熱くなるのを感じる羽目になった。
念のため衣服の乱れを確認するが、寝てたことによる捩れがあるぐらいで乱れてはいない。
「……そりゃ、そうよね」
私をそういう意味で食えないことは、誰よりもあの人が一番よく知っているのだから。
なんだかとても懐かしい夢を見た気がするのは、多分あの頃と同じような姿勢で寝ていたせいだろう。
その原因になった壮年マッチョの姿は見当たらない。
……そして、この甘いにおいから察するに。
「……」
体を起こし、そのままベッドの下に足をつく。
近くにかかっていたストールを肩にかけて、室内履きをつっかければ、扉を開けた。
甘い匂いがもっと強くなる。
そのまま廊下に出て階段を下りていけば、厨房に明かりがついていた。
「よぉ、起きたか。おはよう」
こちらの姿を見つけた男が笑顔で言う。
……って、なぜ私のエプロンを付けてるの。サイズが全然合っていないのだけども。
「おはよう……」
「まだ寝ぼけてるだろ。ほら、顔洗ってこい。その間に焼いちまうから」
「……いや、起きてはいるけれども」
……とは言え、確かに顔も洗わずに降りてきている。
リドルフィは楽し気に料理してることだし、言葉に甘えて身支度してくるのはありだろう。
ふわ、と、つい出てきた欠伸をしながら、促されて二階へ戻る。
今度は自室の方の扉を開き、明かりの呪文を唱えて室内を明るくする。
外の雨音からして、今日誰かがこの家にやってくることもなさそうだ。
こんな雨風の中、外に出るのは危ない。
……ならば、もういっそのこと今日は一日部屋着でもいい気がする。
どうせ見るのは気心知れた自称ハンサムのリドルフィ一人だ。
その彼も部屋着めいた柔らかいズボンにシャツと、緩い恰好をしていた。
私は顔を洗い、今まで着ていた室内着から、違う室内着に着替えるという怠惰を実行する。そのついでに髪を緩く結わえた。
食事をするなら髪は結んでいた方が楽だからね。
村を興してからで考えると、こんな風にのんびり過ごすのはすごく稀だ。
農家などと同じで、皆の食事を賄っていた食堂も休みなんて基本なかった。
「……嵐が休暇、ね」
そういえば、昨夜そんなことも話してたっけと思い出す。
目が覚めるまでたっぷり寝坊をして、しかも人が作ってくれた食事を食べて、その後ものんびり過ごす。
確かにこれは甘やかされてる。
ちょっと照れ臭いような気分で階段を再び降りる。
「おかえり。ちょうど出来たぞ」
そこに座って、とカウンターに促された。
エプロンを外した男が厨房から出てきて、私の前と、その隣の席に皿を置く。
のっているのは、ふっかふかに焼きあがったパンケーキ。
甘いにおいの正体はこれだ。
綺麗に丸く、こんがりきつね色のパンケーキが、私の皿には二枚、彼の皿には五枚重なってる。
その上に盛られたバターがじんわり溶けている。
とても美味しそうだ。
「……あぁ、昨日良いものを貰ったんだった」
思い出して、カウンターに置きっぱなしだったダグラスからの紙袋から、蜂蜜の瓶を出した。
「お、いいな。俺にもくれ」
こんな時だし、と、いつもより多めにかけてから、瓶を男にも渡した。
彼もたっぷりかけたのを見てから、手を祈りの形に組む。
食前の祈りを二人揃って捧げてから、改めて、パンケーキを作ってくれた相手の方を向いた。
「ありがとう。頂きます」
「おう、召し上がれ」
久しぶりに食べたリドルフィの焼くパンケーキは、昔と同じ優しい味がした。




