食堂のおばちゃん32
きちりと準備が整っているのを確認した後。
私は、もう一度、時間をかけて深く息を吸い、吐く。
魔素溜まりの浄化は、過去にも何度もしたことがある。
それこそ、数えきれないほどに。
それでも。
慣れることは出来なくて、毎回緊張もするし、チリチリと感じる本能的な恐怖も消えない。
……昔そんな話をしたら、だからこそお前はあれを浄化できるんだ、なんて言われた。
確かにそうなのかもしれない。
あれを恐怖出来るからこそ、あれに抗い正すことが出来るのだ。
慣れてしまっては、いけない。
怖い、と感じ続けなければ、容易に取り込まれてしまう。
あれのもつ黒に、呑まれて、しまう――……。
若手冒険者たちが待機しているところから、数歩分。
護衛役のカイルとリドルフィを両側に伴って、一歩ずつその瘴気へと近づく。
本来であれば介添えでもある護衛役は補佐の司祭の役割だ。
しかし、人手不足で今回は私一人で浄化を行う。
そのため、今回は、光の祝福をもち、過去に浄化に立ち会った経験のある二人が護衛役だ。
確かめるように一歩ずつ進み、予定していたところで私は一度足を止め、両脇を固めていた二人に視線を送り、頷いた。
普通の人が近づけるのはここまでだ。
これ以上はどんなに意志が強く、こういう場を何度も経験した者でも近づけられない。
あと少し進んだだけで澱みに嵌り、意識を保てなくなる。
引きずられて、人ではないものへと、堕とされてしまう。
私は前を向いたまま錫杖を右手だけで持ち直し、左手をカイルの方へと差し出す。
カイルは予め渡してあった呪い粉の小袋を出し、私の掌にその中身を盛った。
ありがとう、と礼を言う代わりに一度頷きを返す。
ちらりと右側に視線をやれば、こちらを見守っていたリドルフィが頷いた。
大丈夫だ、という風に大きな手が一度私の肩に置かれる。
私も大丈夫だという風に頷きを返す。
一度目を閉じる。
……大丈夫だ。
温かな手が離れていったのを感じ、瞼を上げれば、瘴気の塊と向き合った。
左手に呪い粉を乗せたまま、右手の錫杖で一度大地を突く。
しゃん、と、澄んだ音が響く。
「――――……」
唇を開き、音を出す。
今の言葉ではない、今は意味を知る者もいない、歌。
それに合わせて、もう一度錫杖を鳴らす。
しゃん。
ふわり、風もないのにローブが空気を纏い膨らんだ。
ローブのフードが勝手に外れ、ところどころ白いものの混ざる黒髪が、空気を孕む。
しゃん。
歌を止めずに、私は一歩踏み出す。
先ほどまでは肌がチリチリする程度だった瘴気が、ねっとりと濃くなった。
しゃん。
もう一歩、進む。
視界が、明らかに暗くなる。
じりじりと何かに焦がされているような感覚に、体の至るところで鳥肌が立ちはじめた。
しゃん。
もう、一歩。
魔素溜まりの中心である倒木の根元まで、あと五歩ぐらいだろうか。
体が重い。
言葉にできない本能的な拒絶。これ以上進むことを、体が拒んでいる。
分かっていても――……。
しゃん。
もう、一歩………。
息苦しさを感じても、歌は止めない。
掠れようとする声を腹で支える。
ひどい耳鳴りの中、
世界に己の鳴らす錫杖と、己の歌う聖歌だけが響いている。
しゃん。
ぎぎぎっと音がしそうなぐらいぎこちない動きで、さらにもう一歩……。
喘ぎたくなるのを堪える。聖歌は、止めない。止めてはいけない。
跪き、手を伸ばせば、その中心に届く、その距離で。
しゃ、しゃん!
震える体を鼓舞し、大地に錫杖を二回打ち付けた。
左手を振るい、辺りに呪い粉を舞い散らす。
「――……
ここは生あるモノの場所。
風とめぐり、水に育まれ、
火に教えられ、地へと還るモノたちの場所。
闇に許され、光に守られ、
健やかなる命のための場所。
光よ、この地を照らせ。祝福を……!」
しゃんっ!!!
私の声と呪い粉を触媒にして、私の前に、ぶわりと光が噴き出した。
圧をもった光にバサバサと私のローブが、法衣が、髪が、なぶられる。
眩しいのに、けして目を射ることのない、聖光。
息をすることすら辛いほどに重く淀んだ魔素が、その光に押しやられるようにして一気に霧散した。
光の奔流は、ほんの数秒ほどで止まり――……。
やがて。
柔らかく薄れて、本来あるべき森の光景が戻ってきた。
倒木の根元に凝っていた暗がりはなくなり、ごく普通の朽ちた根っこが見えるようになった。
その根っこの陰、一抱えほどの黒い毛皮が落ちているのを見つけ、私は空の左手で印を切る。
「……あぁ、あの子は、あなたのお母さんだったのね」
暴れまわっていた双頭の熊。
本来なら野生の獣ほど瘴気には敏感で、こんなところに近づこうともしないはずだ。
なのに、敏いはずの熊が立ち入って魔物と化してしまった理由。
木が倒れる時に巻き込まれてしまったのか、まだ幼かっただろう小さな熊の遺骸が、そこにあった。
すでに毛皮と骨を残すだけになってしまっているそれに、私は、一昨日親熊を送った時と同じ葬送の印を切る。
印を受けて亡骸は光にほどけた。
まるできょろきょろと辺りを確認するように光の粒が舞って……消えていく――……。
「終わったよ」
振り返り、言う。
もう、ここに魔素溜まりはない。
よくやった、という風にリドルフィが頷くのを確認して、私はふぅと大きく息を吐いた。
あぁ、疲れた、と苦笑が浮かぶ。
護衛役の彼らのところから、わずか数歩分。
魔素溜まりさえなければ何の苦もなく歩ける、たったそれだけの距離。
ただ数歩、歌い、歩いただけなのに、疲れ果てている。
「ご苦労。……お前は休んでおけ。後はやるから」
「えぇ、そうさせてもらうよ」
自分では真直ぐ普通に歩いたつもりだが、多少ふらついたりしていたかもしれない。
心配そうに両側から支えるように手が伸びてきた。
それでも気遣う二人の手を断ったのは、若いのが見ていたからだ。ここで意地を張らなくてどうする。
三人組の近くまで戻れば、お誂え向きに、にょきっと出ていた木の根に腰を下ろす。
「リリス、グレンダについててやってくれ。」
「はい!」
「他はこのあたりの確認。見慣れない物があっても絶対に触るな。見つけたらすぐに報告しろ。ジョイス、簡易結界の解除」
「はい」
「うっす」
「了解です」
「……は、はいっ!」
皆がリドルフィの指示に従って動き出すのを、私は座ったまま見守った。
呪文の文言を考えるのに随分時間を使ってしまいました……
誰かの考えたものを借りてしまうわけにもいかないし、現実のものを使うわけにもいかないし。
それっぽく、それっぽくと頭の中の辞書をひっくり返しつつ、あえて小学生でも知っている言葉で選びました。
書きたいのは、祈り、なので。
純粋な祈りは、小難しい言葉ではなくシンプルかな、と思うのです。




