祭りの準備11
男の指先に、何かが当たった。
そう認識した瞬間に、視界が反転した。
ぐい、力強い何かに引っ張られるように、水の中、翻弄される。
意識だけは手放すまいと、男は奥歯をぎりりと噛みしめ耐えた。
やがて、唐突にすべてが静かになった。
気を失った覚えはないのに、いつの間にか泉の前に佇んでいた。
男の体を淡く儚い光が包んでいる。
「……」
この光を、男はごく最近、見た。
柔らかく優しい、その光を召喚した者の気配に似た、温かさを感じる、光。
あの時、彼女は男に祝福を与えた。
すべてを守れと男に願って。
「……グレンダ」
愛しい女の名前は、するりと唇から出てきた。
彼女の眼差しを覚えている。失っていない。何よりも大事な想いを。
男がこの泉に挑むことなど、彼女は知らない。
おそらく想像すらもしていないだろう。
なのに、また己は彼女に守られたのだ。
男は肩を上下させて息を吸いこみ、吐き出す。
いつの間にか強く握りしめていた右手を前に出し、ゆっくりと開く。
指の隙間から零れていた光は、男が認識したのを確かめるように強くなり、やがて実体を現した。
柄が男の背よりも長い、戦斧。
大きな斧刃には流麗な紋様が刻み込まれ、刺先も複雑に捻じれた模様の入った流線形をしている。
ぎらりと黒銀に輝くその全体が、まるで美しい彫刻品のような戦斧だった。
「神樹を倒す、もの……」
それは、神話の中の男が神なる樹を切り倒すのに使った、斧。
男はその凶悪な刃に映る自分を見て、はっと息を吐きだして笑う。
見返していたのは、出掛ける前に自宅の鏡で見たのと同じ青い瞳。目尻の皺すら同じだった。
白化の泉の水を飲むどころか、文字通り頭のてっぺんから足の先まで全身浸かってきたのに、同じ姿で戻ってきた。
記憶もしっかり残っている。
男は確かめるように戦斧を一度持ち上げる。大きさに見合う重さ。握りの端と端のぎりぎりを両手で持ち、振るってみる。
銀の軌跡を残して、ぶん、と、空気を裂く音がした。
男は、笑みを深める。
まるで男のために設えたかのように、戦斧はしっくりとその手に馴染んだ。
確かにこれは騎士団長が言っていた通り、自分専用だ。
男は斧を持って、泉に背を向ける。
あちら側でどれぐらいの時間が経ってしまっているだろう。
急がねば。
男は、走る。
走り出して気が付く。見た目は変わっていなさそうなのに体が軽い。肉体が若返ったのかと思ったが、違うようにも思う。まるで風のような早さで走っているのに息が切れない。
不思議に思って、ふと視線をやれば戦斧を持つ手が淡く光っていた。いや、手だけではない、腕もそれ以外の部位も。
原因は聖女の祝福だと気づいた男は、扉の前で立ち止まり小さく頭を横に振った。
「あいつはすごいな。……俺も負けてられんな」
苦笑しながら男は現世へと戻る扉に手を伸ばす。
早く戻って、彼女の温もりを確かめたかった。
見た目は硬質な扉は触れるはずのところでぐにゃりと視界が歪み、手が中へと埋没していく。神樹の庭に入る時同様、何度やっても慣れそうにないし、慣れたくもない。
伸ばしたのと逆の手はしっかりと抱くようにして戦斧を持っている。
男はそのまま扉の方へと歩みを進める。指先から手首へ、肘、腕が扉に飲み込まれ、視界めいいっぱいに扉が迫ったところで、思わず目を閉じる。
薄い膜のような何かが頬を撫でいく。粘質のある水へと体を突っ込んだならこんな感覚になるかもしれない。不思議な抵抗感を無視してそのまま前へと進めば、ほんの数歩でまた膜を感じた。
歩いていたはずなのに水から上がってくるような不思議な感覚に、扉を抜け切ると思わず息を吐きだした。
戦斧を杖代わりに床につき、目を閉じたまま全身にまとわりついた神樹の森の感覚が抜けるまでゆっくりと呼吸を繰り返した。
「お疲れ様。おかえり、聖騎士殿」
来る時は無人だった大扉の間に、待っていた者がいた。
男は気怠げに瞼を上げ、声の主を確認する。
「……賭けに勝ってきた」
ソファに足を組んで座っているエルフに、男はにやりと笑ってみせる。
エルフも、うん、と、その美しい顔に笑みを浮かべた。
「そうみたいだね。おめでとう。これでリドも勇者だ。しかも伝説の、って付きそうな」
「そんな称号は要らんな」
「そうだね。呼び名はどうでもいいね」
男は片手で戦斧を持ち上げ、机の方へと歩いていく。
その武器を見てエルフは、本当にでっかい斧だね、と愉快そうに笑った。
戦斧を机に立てかけ、男は机に置いておいた騎士服を身に着け始める。
エルフは立ち上がると、男が置いた戦斧の方へと近寄る。しげしげとその刃や刺先に施された彫刻を眺める。触れてみようと指を出せば、ぱちりと光が弾けて拒絶された。それすらも楽しそうにエルフは振り返る。
「あぁ、そうだ。陛下から伝言を預かっているよ」
「ん?」
「リドの思うままに、だって。自分は今こっちに来られないから、代わりにって私をここに入れてくれたんだ」
「そうか」
王族の他は限られた者しか入れぬはずのここに、エルフが居たのは兄のおかげだったらしい。
しっかりと聖騎士の騎士服を身に着けて戦斧を持った男に、エルフは問う。
「……グレンダはここに来ると疲れるって言ってたけど、リドはどう? 動けるの?」
「あぁ、鍛え方が違うからなと言いたいところだが、きっとこれは祝福のおかげだろうな」
「ふぅん?」
男の言葉に、エルフは意味ありげににんまりと笑う。
男は悪びれず、いいだろう? なんて自慢してみせた。
「……そしたら、一人で帰れる?」
「もちろんだ」
「わかった。それなら自分で帰って。私はこっちの人たちの会議に出てから戻るよ」
先ほど男が追い出された各部門のトップが集まる会議に顔を出すつもりらしい。多分王都の陣営と村とのパイプ役を引き受けてくれるつもりなのだろう。
「……あ、なら俺も伝言を頼んで良いか?」
「伝書鳩じゃないんだけど。何?」
「ランドのやつに、やっぱやらん、俺のだ、で」
「了解。……大人げない」
「さっき殴られそうになったから、お返しだ」
聖騎士とエルフの剣士は、並んで大扉の間を後にした。
書いてる途中で何故か一度バグって文章がダブってしまいとても焦りました。
修復したつもりなのですが、もしかしたらどこか抜けたりダブったのが残ってるかも。(汗)
もし可笑しいところが残っていたらすみません。




