祭りの準備10
神樹の森の泉の水は、触れた者の時間を無へと還す。
その者が生きた時間を遡らせ、その体の老化や受けた傷、記憶を含めた全てをなかったことにする。
触れた者の全てを白紙に戻す。それが、神水。
魔素を浴び続けると起きる黒化に対して、神樹の森で神水に触れ続けていたら起きる現象は、名を付けるなら白化、となるのだろう。
放っておけばやがて魔物になるか死へと至る黒化に対して、白化は存在を無に還されてしまう。
己の中の全てが白紙にされてしまう。
始めのうちは老いて増えた皺がのび、白髪も元の色へと戻り……と、まるで若返っていくような錯覚に陥るが、それは単に体が若返ったのではなく、過ごした日々を少しずつ無かったことにされてしまっているのだ。
大事な思い出も、忘れたくないような何かも、全てを消されてしまう。
終いには、己の存在、そのもの、も。
かつて、白化を単なる若返りと誤解した王女が泉の水を浴びるほど飲んでしまったことがあったそうだ。
当時はまだ神樹の森の泉の効能はよく知られておらず、ただ神水を汲む司祭が森から戻ると若返っているように見えたことから誤解してしまったらしい。
王女は何らかの理由で婚期を逃し、すでに成人していたそうだ。
女性にありがちな、より美しくありたい、若い令嬢たちに負けたくないという一心であったのだろう。
森に入れる高位司祭に命じ、魔封じの瓶を作るため以外に甕いっぱいに水を汲んでこさせた。
甕かめを受け取った王女は、まず手に掬って一杯飲み干し、空になった己の手の肌が数年前の張りを戻していることに喜び、もっともっとと浴びるようにして、神水を飲んだ。
付き添いとして共にいた高位司祭や侍女の静止を聞かず、王女はどんどん己の時を戻していった。
結果、王女は泉の水を掬うことすらできぬ赤子まで若返り、それまでの全ての記憶も失ってしまったのだという。
彼女自身の時間は若返った分巻き戻り、その分老衰して亡くなるまでの寿命も長かった。
当時の王家はそのことを公表できず王女は病死したとし、後の世で神樹の森に入る者のためにそのことを口伝でのみ残すことを選んだのだった。
男は、己を鍛え続けてきた。
聖女が初めにここにある光のことを教えてくれた時、それが何であるかの仮説を立てた。
長寿種のエルフに仮説の裏付けを頼んだところ、予想と同じ内容が返ってきた。
神話は真実を伝えているが、抜け落ちている部分や改竄されている部分もある。エルフの長老が語る内容をまとめるとそうなるらしい。だとすれば己もまた、今の状況を打破するために必要な駒なのだ。
仮説が本当に正しいかどうかは、己の全てをかけて試すしかない。
聖女はその身に宿した神樹を育てる必要があった。再び地に根を下ろさせないために。己という植木鉢の中で育て上げ枯れさせるために。
そして、男もまた一日でも長く時間を稼ぐ必要があった。何年も変わらずに鍛え上げた体と強い想いを維持したまま在り続ける必要があった。どれだけ神水に巻き戻されても、戦える体で、聖女を守ると誓った心を持ったまま戻るために。
飛び込んだ男は、真直ぐ泉の底を目指す。
目はしっかりと開いていた。
一掻きごとに、指先から何かが零れて行くような錯覚に苛まれる。
聖衣に守られず晒されている肌の至るところから泉の何かが自分の中に染み入り、そして自分を構成する何かが流れ出そうとしている。
白化。
聖女はここで己の時間が巻き戻る現象をそう呼んでいた。
己を無に還されていく。
無邪気に笑って居られていた子どもの頃も、もがき続けた戦乱期も、彼女を守るために奔走した混沌の時も、仮初ではあれど穏やかで幸せだった日々も。すべてをはぎ取られて行く。
そんなもの、実際に直面しなければその怖さなどわかるものか。
水は冷たくも熱くもないのに、全身にびっちりと鳥肌が立っている。
それでも、男は目指す。
戦うために。
守るために。
分かち合う相手のいない恐怖。
大切な人すらも忘れてしまったまま、ここで一人尽きるのかもしれない。
だとしても、怖いなどとは言ってやるものか。
たった一人、誰も踏み入れることのできぬ地へと挑み、浄化を行っていた彼女の背中をいつも見ていた。その小さな背中に、文字通り他の誰にも背負えぬものを背負い、闘っていた日々を男は知っている。
何度も、何度も、傷つき倒れ、何十年も死の恐怖と闘い続けながら、この世界を守っていた聖女。
彼女が耐えたように、己も耐えてみせよう。
吸い込んだ息を少しずつ吐きだしながら、光を目指す。
どれぐらい潜ってきたのだろう。
あらゆるものが男の生きた世界とずれてしまっているここでは、明度すらも当てにならない。
随分と深い位置まで来ているはずなのに辺りは水面近くと同じぐらい明るいままで、滝つぼのように抉れた泉の底は暗く見えた。
これ以上は息が続かない。
諦める気など毛頭ないが、限界はある。どうしたらいい。
もがくように両手で水を掻き、両足で水を蹴る。
ぶくり、と、肺の中に残っていた最後の空気が男の口の端から零れ、水面を目指して泡となり昇って行った。
それでも近くなったように見えない光に、男は必至で右手を伸ばした――……
執筆中のお供、ダンジョン飯BGM集より「戦いに備えよ!」
力強い低音金管の音色がリドルフィのイメージに近かったので。




