最後の奇跡
その日の午後。
私は、またリドルフィの屋敷に戻されることになった。
「食堂にいると気になって休めないだろう」が、彼の言い分で、毎度代理で食堂を切り盛りしてくれるリンもエマも、ついでにリチェまでもが、その言葉にうんうんと頷いた。大丈夫だという私の意見は、その場にいた全員に却下された。
私自身は気が付いていなかったのだが、エマが言うには、歩いている時や料理をしている時に、私は何度もふらついていたらしい。確かに言われてみるとここ最近小さな痣が増えているように思う。
私も祭りの準備をしたいとごねてみたら、調子のいい時に少しなら椅子に座ってやれる作業限定でやって良いとお許しが出た。
前に寝込んでいた時と違い、今は一人で歩けているからね。皆が準備をしているのに私は寝ていて何もしません、は、ちょっといただけない。申し訳なさで祭りが楽しめなくなってしまう。
自室に戻されて着替えやら、編みかけの毛糸やらまとめながら、私は辺りを見渡す。
厨房の上に位置していて、一部が斜め天井になった細長い部屋。
机の前とベッドの横に窓があり、薄緑色のカーテンが揺れている。
この部屋にあるものは全て私のものだ。一つ一つに、それなりに思い入れがある。
家具はどれも、村の誰かが作ってくれたもの。
私が日記を書く時にいつも座っている椅子は、この村で初めて冬を過ごした時に、リドルフィが目の前で作ってくれた。わざわざ私を何度も座らせて、ちょうどいい高さになるよう調整してくれた私専用の椅子。
椅子の背にかけてある白いストールは、子どもの頃に亡き母が作ってくれた物を模して自分で編んだ。形見のストールそのものはあの戦いの間に失ってしまったから。
机に置かれた小物や筆記用具、日記帳……は、持っていかなきゃ。籠に入れておこう。
手元を照らすための明かり、小さな花瓶。どれも自分で一つずつ選んで買ったものだ。
ベッドに掛けてあるパッチワークのベッドカバーは一冬かけて作った。よく使うものを入れている籠も、ミリムに教わりながら自分で編んだ。壁にかけた小さな絵は村に来た人に贈られたもの。本棚に並んだ何冊もの本は何度も読み返した。
窓から見える湖は、今日も穏やかに日差しを受けて輝いている。
背の低いチェストの上にあるミリエル用の小さなベッドや椅子は、リチェが貸してくれた人形用のもの。
愛用しているハンドクリームの入った入れ物は、ちょっと洒落ていてお気に入りだ。
長く使った布張りの小物入れには、どっかの壮年マッチョがくれたアクセサリーがいくつか入っている。
クローゼットの服たち。出掛ける時に使ういくつかの鞄。履き慣れた靴……。
私は、それらの物を目に焼き付ける。
毎日、当たり前に見ていた、自分の部屋。
十年以上過ごした、私の、部屋。
体が動くうちはまた帰ってこられるかもしれない。もしかしたら、蒼き風が言っていたように、神樹と供に枯れずに済む道を歩むことも出来るかもしれない、
……でも、これでもう最後かもしれない。
リドルフィに運んでもらうために大きな籠に着替えなどを入れていた手が、止まっていた。
「……」
この生活に終わりが来ると知りながら、
少しずつ片付けておかねばと思いながら、
それでも、中々手をつけることが出来なかった。
まだもう少し、大丈夫。きっと、まだ大丈夫。
今は他にやることがあるから。ちょっと疲れたから他の時に。
そんな言い訳をして、ずっと先延ばしにしていた。
でも、本当は分かっていたんだ。
私は、できなかったのだ。
そうしてしまうと、自分の死を認めるようで。抗わずに死を受け入れると言っているような気がしてしまって。
そうするべきだと聞き分けの良い子のふりをして自分に言い聞かせても、そんなのは嫌だと泣く心の中の自分を無視しきれなくて。
自主的に新しいものを増やすことも、
今あるものを減らすこともできないまま、
いっそ、時が止まればいいとさえ願って――……。
ベッド横の床にぺたりと座って、籠に畳んだ着替えを入れていた姿勢のまま、私は項垂れる。
視界を揺らし、ぽろぽろと零れ始めた涙が膝に落ちて、前掛けにシミを作っていく。
一階には、祭りの段取り決めで村人たちがいっぱいいる。料理をしているエマやリンだっている。
だから、声は出せなくて。
一人、声を押し殺す。
早く泣き止まなきゃと思うのに、どうやって止めたらいいか分からない。
次々に睫を伝い零れ落ちる涙と、喉から零れ出てしまう嗚咽に、両手で前掛けを顔に押し付ける。
何故、私は今、泣いている?
死がこわいから?
自分が可哀そうだから?
それとも動けなくなるのが辛いから?
どれも、違う。
死への恐怖はあるけど、理由としてしっくりこない。
自分を可哀そうだなんて思ってない。
動けないのは確かにつらいけれど、もっと、違う、何か……。
「……一人で泣くな」
いつの間に入ってきたのか、うずくまっていた私の横に、リドルフィが膝をついた。
覗き込んでくる相手に、私は顔を上げる。
「……上手く出来なかったの」
「ん」
「この部屋」
「ん」
「片付けなきゃって」
「ん」
「思ったのに……」
途切れ途切れな声に、自分で、まるで子供みたいだと思った。
リドルフィは覗き込んだ姿勢のまま、ぐずぐずと泣きながら言う私の言葉に、一個ずつ律義に頷く。
「私のものは、もう処分しなきゃって……」
「……やらなくていい」
強い力で抱きしめられた。
びっくりして見開いた私の目から、涙が散る。
「そんなことはやらなくていいっ!」
けして大きくないのに、ずしりと重く、私の体に響く声がもう一度言う。
かき抱くように、強く強く私をその胸に押し付けるように抱いて。
リドルフィは、まるで怒っているようだった。
「お前はっ! またこの部屋に帰ってくるんだっ! 俺が……! 俺が、絶対に帰してやるっ」
常にない、余裕のない口調に。
この人もまた苦しんできたのだと、今更のように気づいた。
「……片付ける必要なんてない。ここは、この先もお前の部屋だ」
いつも自信たっぷりに、揺らがず不敵に笑っている人なのに。
こんな泣くのを堪えるみたいな声で。
……それでもきっと、この人は、今も前を見ている。見ようとしている。
「お前に、何も無くさせたりなんてしない」
彼の言葉で、私は自分の涙の理由にやっと思い当たった。
死が怖かったのではない。
自分が可哀そうだったわけでもない。
ましてや、今ある苦しみが続くことに怯えていたわけでもない。
大切にしてきたもの、ずっと使い続けてきたもの、積み上げてきた私が生きた確かな証。私が生きた象徴とも言えるこの部屋に別れを告げること。
それは、彼やたくさんの仲間たちと見ようとしていた明日を、皆で描いた夢の先を、私は見られないのだと、自分一人だけリタイアするのだと、認めること――……。
私は、それがとても悔しくて、悲しくて、耐えられなかったのだ。
「……リド」
苦しいほどに私をきつく抱きしめている男の名を呼ぶ。
ゆっくりと手を上げて、その背に回す。力の入らなくなってきた両腕で、今の私が出来る限りの全ての力で抱き返す。
私が抱き返したら、逆に彼の腕の力が少し弱められて……、私は顔を上げた。
真直ぐに、彼の目を見る。
深い、吸い込まれそうなほどに深い、青。
その目の端がほんの僅かに濡れているのを見つけて、私は微笑んだ。
誰よりも強く、けして揺らがないのだと思っていた人。
でも、あなたも私が知らなかっただけで苦しんだり泣いたりしていたのね。
「……リド。あなたはまだ、諦めていないのね」
何を言い始めたのかと、彼が私を見つめ返す。
「信じるよ、あなたを。誰よりも。何よりも」
こうしている今も、私の背で神樹はざわざわと主張している。
何日も前から耳鳴りが止まない。泣いたせいで頭痛もして、体もだるくて、ただ座っているだけでもつらい。
これがこの先どんなに酷くなっていくのだとしても。
「どこか遠くで見ているだけ神様よりも、そして、私自身よりも……。リドルフィ。私はあなたを、信じる。あなたなら、信じられる」
多分、これが最後だ。
あの時シルバーが戻してくれたから使える、私のとっておきの切り札。
私の神樹が最後に暴れた時のためにとっておいた、力。
大切なものを守るための、力。
神樹を宿したことで使えるようになった、奇跡。
過去、この力で何人も救ってきた。絶望的な場面をひっくり返してきた。
そして、その何倍も助けられなかった人たちがいた。
この世界にこれ以上の悲しみを増やしたくないから、私は神樹を最後まで育て切らなければならなくて。
そのために、ずっと己の命のろうそくの長さを見ながら、苦しい選択もたくさんしてきた。この人に半分背負ってもらいながら、そうやってここまで永らえてきた。
奇跡は、自分のために使って良いものではなかった。
私の命は、私のものではなかった。
……でも、この最後の一回ぐらいは。
私自身のために使っても、
私を思ってくれる彼のために使っても、許されるのかもしれない。
「……ねえ、リド。私が聖女じゃなくなっても、そばにいてくれる?」
「何を、当たり前なことを……」
「……よかった」
その答えに満足して、私は微笑む。
ゆっくりと、顔を近づける。
近くなる青い目が、びっくりしたようにこちらを見ていた。
「リドルフィ。私の聖騎士。……私の残りの全てを、あなたにあげる」
私はゆっくりと瞼を下ろした。小さく謡うように呪文を唱える。
初めて使う、祝福を与えるための呪文は、これまでに使ったどの呪文よりも美しい旋律をしていた。
柔らかく優しい音に、なんだか唱えている私自身が涙が溢れそうになる。
そうして、唐突に気が付いた。
歪んでしまった神話。斧の男の物語。あのお話には存在を消されてしまった聖女がいて……、きっと彼女もこの呪文を使ったのだ。
誰かを無理矢理助けるためではなく、信頼できる誰かに未来を委ねるための奇跡。
悲しみの中使う呪文ではなく、たった一人の信じられる人に向けた呪文は、どこか愛のささやきに似ていた。少し照れくさくて、それ以上に愛おしくて、自然と笑顔になる。
本来あるべき形の祈り、奇跡、が、そこにあった。
淡く儚い光の粒子が、私を、彼を、静かに包み込みはじめる。
「……グレン、ダ?」
固まったままになっている男の唇に、私は、そうっと自分の唇を重ね合わせる。
人の唇ってこんなに柔らかくて温かいんだ、キスってこんな幸せな気分になるんだ、場違いに、私はそんなことを思った。
その温もりが名残惜しくて、ただ重ねただけの唇を離すのが惜しくて。
でも、それ以上に何かなんて出来る訳もなくて。
ゆっくり、ゆっくりと体を引けば、口付ける前と同じように見開いたままの青い目が、私を見つめていた。
「リド。すべてを守って」
聖女とは、その命を苗床とし、神樹に捧げることで世界を守る者。
それゆえに、聖女は誰とも交わらず、婚姻も結べない。子もなせない。
蒼き風が言っていた通り、贄、なのだ。
その身に与えられた絶大な力は、すべて神樹に吸われていく。
聖女は、まるで神話の神樹のように、奇跡を起こすことが出来る唯一の存在。
しかし、聖女が起こしている奇跡は、聖女が自らに宿る神樹に願いを伝え、叶えてもらっているに過ぎない。その命と、引き換えにして。
聖女の唇は、神樹へ奇跡を願うためのものだ。
……誰かに与えてしまった唇では、もう奇跡は、起こせない。
「……この村のみんなも、この世界のことも。あなた自身のことも」
ごめん。もうこんな風に託すことしか、私にはできそうにない。
不甲斐ない私が為しきれなかったことを、あなたに押し付けてしまう。
それでもきっと、あなたは私の願いを受け取ってくれるのだろう。
その大きな背ですべてを背負って、光を目指してくれる。
どこまでも諦めずに歩き続けてくれる。
ずっと前から信じていた。何よりも、誰よりも、私自身よりも。
だから。
そんなあなたが最後まで、思うまま、戦えるように。
私は、私のすべてをあなたに捧げよう。
「……あぁ」
私が起こす、最後の奇跡。
それは、愛しいあなたに、願いを叶える力を与えること。
「……最後の聖騎士、リドルフィ。あなたに、祝福を」
私たちを包んでいた光は次第に集まり。
彼の中へと吸い込まれるように消えていく――……。
「……約束する。俺は、何一つ、諦めない」
彼は、私を強く抱きしめた――……。
これにて第6話完結となります。次より最終話に突入になります。
特大級に甘いシーンのつもりが、あまり甘くなかったかなぁとそれだけがちょっと悔しい。
一応こそっと補足を入れると、リドがグレンダの前でここまで余裕のない状態になるのは初めてなのです。作中で何度か叫んでるけど全ておばちゃん気絶したりで聞いてません。いつも太々しく笑ってる姿しか見せてなかったのが、ここにきて、だったのでした。(物語中で書ききれてない己の未熟さよ……)
気が付けばep数も200をこえました。
拙い私の物語をここまで読んで下さった全ての方に感謝を。
そして書こうともがく私を支えてくれた全ての方に感謝を。
このままの勢いで最終話も最後まで走り切ります。どうか最後まで見守って下さい。




