光の聖女
王都の奥の神殿は、こんな時だというのに、静かだった。
ここに来るのは何年ぶりだったか。
真っ白な法衣を着た女は考える。
確か、最後は一番近しい養成校の先輩が、聖騎士になった時だった。
その前は、そこから更に数年前。戦いが始まる前の頃。
幼い頃、養成校で育った仲間たちと一緒に、聖騎士になる先輩をここで祝った。
聖騎士宣誓の儀式はとても厳かで、子供心にとても神聖で尊いものに思えた。
参列した人々は皆希望に満ちていて、あの日の自分と同じようにきらきらした目でその儀式を見ていた。
一つ上の先輩が聖騎士になった時は、戦いが始まろうとしていた頃。
新たな聖騎士になる彼を含め、歴史上はじめて全十名の聖騎士が揃った。
これから来る混乱の時代を見据えて、華やかさはなかったものの荘厳なものだった。
……どちらの時も、このたった数人しかいない、これから行う儀式とはまったく違っていた。
「……」
聖騎士の儀式もカッコいいけど、聖女のもすごく華やからしいよな!
そんな風に、あの時話していた仲間はもういない。
限られた者しか入ることのできぬ奥の神殿は、あの時と同じように穢れなき純白を保っている。
けれど、ここに至るまでに通った表の神殿は負傷者であふれかえり、優しい乳白色の床は拭ききれぬ血のしみであちこち黒く染まっていた。
神殿で働く司祭たちは皆、いつ倒れてもおかしくないほどに疲弊していた。
戦いが始まっておよそ九年。
……本来は、もっと早くにこれから行う儀式をする予定だったと、誰かが言っていた。
それが叶わなかった背景に何があったのかを女は知らない。知りたいとも思わない。
ただ思うのは、もし、もっと早くに行えていたなら、何が変わっていただろうかということ。
あと五年……いや、一年でも早ければ、助けることが出来た命はいくつあったのだろうか。
それも、今更言っても仕方のないことだ。
「そろそろ時間です」
付き人役をやってくれている司祭に告げられて、女は顔を上げる。
少女とはもう呼べない歳だ。成人してかなりの年数が経っている。
乙女と呼ぶには愛らしさが足らない。表情が険しく悲しみに満ちている。
小柄な体は痩せ細り、やつれていて、纏う気配に疲労がべったりと張り付いていた。
それでも、蒼い瞳は、強い光を宿していた。
まだ、諦めてきってはいない。
死の淵を何度も覗き、幾度となく絶望したはずなのに、それでも、すべてを投げ捨ててしまった者の瞳ではなかった。
まだ己にできる何かがあるのなら、と、手を差し伸べ続ける。
その背負う覚悟からくる表情も相まって、人は女のそんな容姿を美しいと言う。
儚く、脆く、だからこそ鋭利で、目を放せなくなる。
いつ砕け散ってしまってもおかしくない、壊れる寸前のものにのみ許される、煌めき。
「ありがとう。行きます」
声をかけてくれた司祭に礼を言って、女はすっと立ち上がった。
試練を越えた者にのみ許された聖衣を纏い、その上に聖女にのみ許された意匠のオーバースカートと上着を合わせ。
豊かな黒髪には、夜空の星を散らしたかのような髪飾りが輝いていた。
促されるままに控えの間を出て、自分たち以外誰もいない廊下を歩き、大きな扉の前へと辿り着く。
待っていた司祭見習いらしき少年たちが女に一礼し、奥の聖堂の大扉を開いた。
「……」
あの時のような華やかな楽曲は聞こえてこない。
期待に満ちた参列の人々の気配も感じない。
扉の前で目を伏せていた女は、そうと瞼を上げる。
そうして、見えたものに目を細める。
知ってはいたけれども……あの頃に想像していたものに比べるとあまりにも違う、光景。
両側にある参列者の席は、全て空席だった。
この戦いが始まってからずっと共に生きてきた仲間たちが参列したいと言っていたが、神殿は人間以外の種族や魔導師が奥の神殿に入ることを嫌がった。
彼らがギリギリまでごねていたことは、こっそり司祭の一人が教えてくれた。
向かう先、参列席からは一段上、本当ならここに十名の聖騎士が揃っているはずだった。
一から十の数字を持つ聖騎士。
聖騎士は同時に十名までしか存在できないと伝えられているが、そもそも王国の歴史を紐解いても多くて八名、少ない時は三名程度。
聖女の儀式の際にはその時代の全ての聖騎士が整列し、剣を掲げ新たな聖女の誕生を祝福する。
聖女の、剣となり盾となる者として誓いを立てるのだ。
……女は、グラーシア王国史上初めて、十の聖騎士を一人も欠かさず揃えた状態で聖女となるのだと言われていた。
学び舎で共にいたのは九と十の聖騎士だけだったが、女は十名の聖騎士全員を知っていた。
ゆっくり、ゆっくり、一歩ずつ祭壇へと歩いていく。
静まり返った聖堂に、女の歩く足音だけが静かに響いている。
そこに立つはずだったのは、一の聖騎士。
もう老人といっていい歳なのに、姿勢はよく目尻にある笑い皺そのままに、優しく朗らかな人だった。
その向かいは、二の聖騎士。
貴族出身で聖騎士長を務めた彼は、政治にも明るく国王の良き相談役だった。
そこに立つはずだったのは、三の聖騎士。
同じ年の子どもがいると言ってよく目を掛けてくれた。女を娘のように可愛がってくれた人だった。
その向かいは、四の聖騎士。
騎士には見えないような学者肌、分からぬことは彼に訊けば大抵教えてくれる博識な人だった。
そこに立つはずだったのは、五の聖騎士。
武器職人の一家の出で、ありとあらゆる武器に精通し学校に残り後輩を厳しく鍛えた鬼教官だった。
その向かいは、六の聖騎士。
旅慣れていて日々各地を巡り、一早く異変に気が付いては対処してくれていた人だった。
そこに立つはずだったのは、七の聖騎士。
神聖魔法に長け、聖騎士にならなかったら次の大司教になっただろうと言われていた人だった。
その向かいは、八の聖騎士。
豪快で闊達、口は悪く、よく問題児扱いもされた聖騎士だったのに、どこか憎めない人だった。
そこに立つはずだったのは、九の聖騎士。
幼い頃よく膝に乗せてくれた先輩。許嫁との結婚式では女にお前も幸せになれと言ってくれた人だった。
そして、その向かい。
たった一人、今、ここに居る最後の、聖騎士。
十名の聖騎士が整列するはずだったそこに、たった一人で佇む男は、ずっと女を守り続けてきた人。
女は祭壇の前で立ち止まり、顔を上げる。
そこにいるはずだった大司教も、少し前に亡くなった。
優しくて温かなあの声に導かれて宣誓する日を、ずっと夢見ていた。
今まで碌に顔を合わせたこともなかった高位司祭がじっと女を見つめ、口を開く。
「宣誓を」
促されて女は静かに文言を諳んじる。
その言葉を聞くのは、目の前にいる司祭と、参列した唯一の聖騎士、そして扉を開いた見習い司祭たちだけ……。
祝う者のいない儀式は、静かに、進行していく。
やがて、誓いの文言は終わりへと差し掛かり、女は、最後の力ある言葉を口にする。
その言葉をきっかけに。
女を中心にして、爆発するように光が溢れた。
光の中、女は空を見上げる。その頬から、一筋の涙が流れた。
奥の大聖堂のドーム状の天窓を越えて、空へと光の柱が起立した。
その光は、遥か遠い地からも見ることが出来たという。
人々は、その光に希望を見た。
女は、たった一人の騎士しか持たぬ聖女になった。




