子どもたちのみるもの11
けして開くことのない、大扉の向こう。
そこは、深い森、だ。
……と言っても、普通の森ではない。
今はもう残っていない植物がここでは生い茂り、遠い昔に絶滅したと言われる小動物や鳥たちがここでは生きている。外界は例え曇天であっても、ここでは緑と青の合間の不思議な色合いの葉の合間から日光が降り注ぐ。魔素とは違う……神気とでも言えばいいのだろうか、そういう不思議な気がこの場にはあって、耐性のない者であれば息をすることすら難しいほどに大気に力が満ちている。
神樹の森。
この地を知る者は、ここをそう呼ぶ。
グラーシア王国の神話にも出てくる、神なる樹があったとされるところ。
今は倒された後の切り株すらも残らず、その代わりに泉が沸いているのだと民に知らされている聖地。
開かずの大扉よりここへと入ることを許されているのは、ごく一部の王族と、そして試練を越えることができた高位司祭のみ。
現在、ここに立ち入る資格を有しているのはたったの三人だけだと聞いている。
そのうちの一人が私、だ。
そして、今、聖水をあの扉の向こうへ持って帰ることができるのは、私一人だけ。
あの扉は有資格者しか通さない。何かを持ち込むことも許されない。
例外は、その有資格者が己の力を持って具現させる法具と、特殊な作り方をされた聖糸のみ。
まさにその聖糸を織り服の形に縫われたのが、私が司祭として仕事をする時に身に纏う法衣だ。
この法衣、いや、聖衣は、私が聖女の称号を得るに至った時に賜った。
これを着ていることは、己が聖女だと誇示しているようで内心は複雑なのだが……あぁ、認めよう。とても便利なのだ。
けして汚れることなく、どんな季節に着ようと暑さや寒さに苛まれることもない。上に重ねるオーバースカートや上着とは違い、けして破れることもなく、そして見た目を裏切る防御力まで持っている。
こんな便利なものを使わないなんて選択肢はない。
私は神樹の森へと踏み入れると、すり抜けてきた扉を一度振り返り、それから前を向く。
素足で大地に生えた苔を踏んで、真直ぐ奥へと歩き出す。
しっとりと湿度を感じるのに清々しく、植物の香りに満ちた大気を吸い込む。
己の背の樹が、さわりと反応するのを感じた。
ここに長く居てはいけない。そう、何かが警告を出している。
そもそも、ここは生身の人が居られる地ではない。
ここには、たくさんの動物や植物といった命があるように見えて、その全ては現実で生きているものとは何かが違う。生きているようで、生きてはいない。生命を模倣した、違う何か。長くここに居たら、私もあれらと同化してしまい、戻れなくなる。
……ある意味、魔素溜まりと同じだ。
人が踏み入ってはいけない場所。
方向性が真逆だが、留まれば人ではなくなってしまう。
足元をリスに似た何かが数匹走って行った。
頭上で美しい声の鳥が歌っている。
素足で踏む大地は柔らかく生えた苔のおかげで、靴を履かなくとも足を傷めることはない。
湿度を含む風が、私のスカートを、髪を、いたずらに揺らしていく。
木漏れ日を浴びながら歩いていく。
杖の代わりにもった錫杖が時折しゃらりと音を鳴らす。
木々の葉擦れの音、鳥たちの歌、小さな何かの息音、私の足音、錫杖の、音。
とても、とても、静か、だ。
本来は大広間一つ分程度の広さしかないはずの森。
なのに、空間が歪んでいてその何十倍も広さがあるように思える。
私がここに来たのは、これが三度目だ。
前回きたのは確か村が軌道に乗ったぐらいの頃。
もう十五年ほど前のことになる。
その時の記憶を頼りに進んでいく。
やがて。
目指す先にきらきらと光を跳ね返すものを見つければ、私は小さく息を吐いた。
小走りになりながらそこへと向かう。
頭上が拓けて、さんさんと光が差し込む明るい空間へと出た。
その、真ん中。
唐突にそこにある泉の縁で、膝をつく。
まるで何もないかのような透明度の水。
覗き込めば底が見えないほど深い。ただ、奥の方に何かがあるらしく時折きらりと光る。
呼ばれているような気がしてあの光の正体を知りたいとは思うが、この神気に満ちた場所で更に水に入りあの場所まで潜ろうとまでは思えなかった。そこまでの覚悟は私にはない。
今回も、今までと同じようにしばらくその光る何かに目を凝らして、やめる。
あれは、きっと私ではない誰かを待っているのだ。
「……」
錫杖を置き、そうと両手をお椀にして泉の水を掬う。
触れたそこから何かが自分に染み入り、何かを、白く、していくのを感じる。
私は声を出さずに呪文を唱えると、掬った水を球にして錫杖の輪に纏わせていく。
一つ作り終われば、また手で泉の水を掬い、また球にして……。
それを数度繰り返し、錫杖の輪全てに纏わせれば、錫杖を持ってゆっくり立ち上がる。
もう一度だけ、水底の光る何かを見やってから来た道を辿り戻り始める。
魔素を浴び続けると起きる黒化に対して、ここであの水に触れ続けていたら起きるだろう現象は、名を付けるなら白化、となるのだろう。
放っておけばやがて魔物になるか死へと至る黒化に対して、白化は……おそらく、無に還されてしまう。
己の中の全てが白紙にされてしまう。
始めのうちは、老いて増えた皺がのび、白髪も元の色へと戻り……まるで若返っていくような錯覚に陥るが、それは単に体が若返ったのではなく、過ごした日々を少しずつ無かったことにされてしまっているのだ。
大事な思い出も、忘れたくないような何かも、全てを消されてしまう。
終いには、存在そのもの、も。
昔、白化を単なる若返りと誤解した王女が泉の水を浴びるほど飲み、その結果、赤子となってしまったことがあったという。赤子となってしまった彼女は、それまでにあったことを全て忘れてしまっていたそうだ。彼女自身の時間は若返った分巻き戻り、その分老衰して亡くなるまでの寿命も長かった。
当時の王家はそのことを公表できず王女は病死したとし、後の世で神樹の森に入る者のためにそのことを口伝でのみ残すことを選んだ。
水を纏った錫杖の輪を見上げ、私は考える。
今、泉の水を汲んだことで私は何を失ったのだろう。何を忘れてしまったのだろう。
昨日のこと、その前のこと、一つずつ思い出しながら扉へと歩を進める。
早く、あの腕の中に逃げ込んでその温もりを確かめたかった。




