まぼろしの聖女(前)
百年以上ぶりに聖女が現れた、と聞いたのは、いつだったか。
確か、生きるのだけでがむしゃらにならざるを得なかった十代の頃だったように思う。
その頃の私はまだ司祭にもなれていない見習いで、聖女なんて存在は、神話やおとぎ話にしかいないような、自分とは次元の違う生き物だと思っていた。
世は。戦乱期の真っただ中。
人もそれ以外も疲弊していて、死は日常的に転がっているものだった。
そんな中、王都の神殿にいた私はラッキーだったのだと思う。
国内で一番護りの固い場所は王都で、それはすなわち、まだ自分の身すら守れぬ私でも生き残れる、数少ない場所だったから。
神殿の誰かが教えてくれた聖女の噂は、国の各地で名乗り出た勇者たちの存在と同じぐらい人々に希望を齎して……そして、いつの間にか消えていった。
今でこそ、その存在を守るために隠匿されたのだと分かるが、当時の私はとてもがっかりした。
百年に一人とかそれぐらいの尊い存在だと聞いたのに、噂だけだったのか、と。
身勝手な私は、彼女が何を為したのかも碌に知らないまま勝手に期待し、失望した。
自分と同じ神殿所属であるはずなのに姿を見たことがない聖女に比べると、聖騎士の方は現実的な存在だった。
人々を守るために日々戦いに身を置き、その実力を持って確かな戦果を挙げてくる。
当時現存していた十名の聖騎士。
そのうちの何人かは王都から勇者として、もしくは勇者の仲間として旅立ち、残念なことに還らぬ人となった。
あの時代に勇者と名乗り出た者たちは無数にいたけれど、その中で最も本物に近かったのは勇者になった、九の聖騎士だと思う。
私自身も彼の出発を王都で見送り、彼こそがこの凄惨な世の中を平和に導いてくれるのだと信じていた。
そんな憧れと無責任な期待は、何かに縋らないと心が壊れてしまうような世の中だったから、ある種の自己防衛だったのかもしれない。
私が見習いとして入ったばかりの頃はいつも明るく清潔で真っ白に磨き上げられていた王都大神殿も、戦いが続くにつれて野戦病院のようになり、いつも治しきれぬ傷に呻き苦しむ人で一杯になった。
それでも、その後も神殿にいたのは、多分、己は優秀な司祭だという自負と、後はまだ心が壊れ切っていなかったからだろう。師から託された聖典。それを扱えるだけの技量がある自分は、他より多少なりとも抜きん出ていると思っていた部分もあったから。自分が居なければここが回らなくなると頭のどこかで思っていた。
……なのに。
日々、運ばれてくる重傷者を治癒しながらも、世界を救うのは自分とは縁遠いどこかの誰かだと、他人事のように思っていた。
やがて、長かった戦いの時代が終わった。
何がどうなって戦いが終わったのかは、残念ながら私にはわからなかった。
殆どの人たちは私と同じだったのだろう。情報は与えられなかった。
でも、戦いが終わったのだけは、間違いなかった。
生き残った神殿の仲間たちは一様に摩耗し、疲れ切っていた。
人を守り、癒すことができる神聖魔法。
どうしても戦場に行かざるを得なかった仲間も多い。志願して、乞われて、旅立ち……皆、死んでしまった。
神殿に残って奉仕していた者たちもまた、過労で倒れたり、心を病んで自ら命を絶ったりで随分と減ってしまっていた。
戦いは終わったのに、その後も病気の蔓延や復興のための工事での事故、人々の諍いなどで簡単に人の命は失われて行く。
誰かを救える力を得たのだと喜び、厳しい見習い期間も頑張ったのに。
一人前になってからも必死に神殿で、戦場で戦い続けたのに。
振り返ってみたら、私が救えたのはほんのわずかだった。
戦乱期の後の混沌とした時間は、五年ほどで終わった。
他人事のように、受け身で目の前のことでいっぱいだった私には長く辛い五年間だった。でも、冷静な目で見れば、極めて的確に物事を進められる誰かが必死で頑張った結果の奇跡の五年だ。
誰もが待ち望んでいた平和で、死が隣り合わせではない日常。
それが戻ってきた頃に、今更のように聖女の話を聞いた。
戦いの遺物とも言える魔素溜まりで時折見つかるあれを、年に一度ほどの割合で浄化しにくる女性。
強い光の守護を受けた神聖魔法使い。
聞けば、あまりの守護の強さに普通の司祭見習いとは違い聖騎士見習いたちと一緒に育てられたのだという。道理で同年代でも会ったことがなかったわけだ。
先輩司祭の中には、確かに聖騎士見習いとしてヴェルデアリアの養成校で育ち、卒業時にその適正から司祭になった人たちもいた。そういう先輩は皆、格段に腕も良く知識も豊富であこがれの対象だった。
そんな養成校卒でも別格扱いされた女性司祭。それが聖女。
戦乱期にはほんのわずかの間しか話題にならなかった彼女はちゃんと存在していて、でも、務めを果たしているようには、残念ながら見えなかった。
あれの浄化をできるのは、確かにほんの一握りの司祭だけだ。
でも、それ以外のことはそれで免除とは……なんて良いご身分なことか。
その認識が変わったのは、彼女が浄化する様子を見た時から、だ。
神殿奥の聖堂。
通称、聖杯の間。
そこには、時に浄化されていない、あれが安置される。
魔素溜まりの元にもなり、瘴気を生み出す黒い欠片。
しっかりと魔封じの瓶に入っていてもなお、外で魔素溜まりを浄化する時と同じように本能的な拒絶を感じる。人の生きる場所にあってはいけないもの。
聖杯の間の警備は、司祭の中でもある程度実力のある者たちでの当番制で、仲間たちの中でもっとも嫌がられる仕事の一つだった。
聖堂の中の結界で隔離されてはいるが、もしその許容量を超えたら真っ先に犠牲になるのを覚悟の上で対処しなければならない。
せっかく戦乱期を生き延びたのに、ここはまだ死と隣り合わせのままだ。
……その聖堂に、自ら入って浄化を行う女性。
それが聖女と呼ばれる彼女だった。
初めてその様子を見た時、私は、自分の無知さを知った。
勝手に失望した自分の愚かさを知った。
時に一人で、時に最後の聖騎士を伴って二人で、彼女は浄化のために死の地へと入っていく。
大丈夫だ、問題ないという顔で毅然と臨み、必ず自分の役目を果たしてくる。
出てきた時には顔が真っ白になるほど疲弊していても、私たちの前ではふらつくことも自分に許さずにしっかり自分の足で立ち、時には患者の治療や他の頼まれたこともこなしていく。
自分には出来ないことをやってのけて、しかし、けして驕らず、すっと去っていく。
神殿のほんの一部、それも聖杯の間を守る者ぐらいにしか認知されていない、まぼろしの聖女。
エルノ視点のお話です。
オマケのはずなのに何気に書くのがとても大変でした。
しかもすごく長く……気がついたら5000字を越えていたのでオマケなのに分割、前後編にしました。すみません。




