④ 『家庭の事情』
俺はただ、黙ってそこにいた。
唐突に泣き出したあいつを前に、どうすればいいのかまったくわからず黙ってぼうっと立っているしかなかったというのが本音だが、怪我の功名というか、それがあいつにとっては気楽で良かったらしい。
ひとしきり泣いた後、あいつは手の甲で涙をぬぐい、きまり悪そうに笑ってよろよろと立ち上がった。
「ごめん。カッコ悪いとこ見せた。大丈夫だから、田中くんは帰って」
「……ホントに大丈夫なのかよ?」
俺がそろっと訊くと、あいつは妙にすっきりした顔でうなずく。
「うん。母方の叔父にあたる人がこの近くに住んでるから、雨がおさまってきたらそこ行く予定」
「その叔父さん、今、家にいるのか?」
「んな訳ないじゃん、今の時間なら仕事してる。あ、暗くなるころにはちゃんと帰ってくるから、玄関で待ってたら……」
「……ウチ、来いよ」
相手の言葉に被せるように、俺は、考えるより先に言ってた。
玄関で待ってるとか暗くなるころには帰ってくるとか、早川は無残なまでに何でもないことのように言うが。
梅雨寒の夕方、濡れた髪や服(『べちゃべちゃ』ではないが、『しっとり』くらいは濡れている)のまま、玄関先で、いつ帰ってくるかわからない叔父さんを待つなんてとんでもない。
風邪をひいてしまう。
早川自身は何とも思ってなさそうだが、『何とも思ってなさそう』なのが却って、他人の俺的にはいたたまれない。
……なんとなく、だけど。
もっと過酷な経験を、こいつは嘗めてるんじゃないかと思ったんだ。
「……は?」
あいつはポカンとした。思いがけなかったのだろう。
当然だ、俺だって直前までそんなこと、欠片も思っていなかったんだからな。
「いやさァ。ウチで、その叔父さんが帰ってくる時間まで待ってりゃいいんじゃね? ボロアパートだし散らかってるけど、外にいるよりはマシじゃん」
「え? は?」
早川は本気で俺の言うことがわからなかったらしく、パチパチと瞬いた。
そんな顔をするとこいつも年相応の子供だなあと(己れもガキの癖に)思って、ちょっと嬉しくなった。
「ウチはうるせーこと言う大人、いないし。兄貴はもうじき仕事から帰ってくるだろうけど、親はいねーから遠慮すんな」
「……え? 親、いないの? ……仕事で遅い、とか?」
怪訝そうにそう問う早川へ、俺は苦笑い気味に答える。
「いや。マジでいねーんだよ、一緒に暮らしてないって意味だけど。ウチの親は、それぞれオトコやオンナこしらえて別れたあげく、邪魔になった俺を兄貴に押し付けたっていう不良でね。『家庭の事情』で転校してきたってのは、つまりそーゆーこと」
俺は、初日に担任が言った言葉をわざと繰り返してみせた。
……間違っちゃいない。
間違っちゃいないが、なーんか引っかかったんだよな、あの言い方。
ま、他に言いようもないっちゃないが。
早川は、思いがけないことを色々と聞かされたせいか、目を見開いたまま黙っていた。
「そんな感じだから気ィ遣うな。叔父さん帰ってくるまで、俺んちで雨宿りしてたら……」
「ショーヘイ!」
急に後ろから呼びかけられ、俺は驚いて振り向く。
ペールブルーの作業服を着たウチの兄貴が鳥居の辺りにいた。
「どうした? なんかあったのか?」
大股で歩いてきながら兄貴は問う。
早川が一瞬、鋭く身体をこわばらせた気配があったが、俺はあえてそれを無視し、兄貴の方を向いた。
「おかえり、にーちゃん。いや、なんかってほどでもないんだけど。この子おんなじクラスの子なんだけどさ、家に帰れない事情があるらしくって困ってるっぽいから、ウチで雨宿りしたら?って、話をしてるとこ」
兄貴は瞬間的に、不審そうに眉根を寄せた。が、何か思うところがあったのか、すぐに眉を開いてのんびりした感じの笑みを浮かべた。
「……そっか。まあ、どっちにしたってこんな雨の中にいるのは良くないし。散らかりまくりの男所帯だけど、彼女が気にしないなら来てもらえ。えっと……ナニさん? 彼女?」
「早川です」
低めの冷ややかな声であいつは答え、軽く頭を下げた。
「いえ、大丈夫です。心配かけてごめん、田中くん。ありがと。もう行くね」
「待てよ」
俺は思わず、あいつのパーカーの袖をつかんだ。
「お前さ、叔父さんの携帯の番号とか、わかる?」
あいつはちょっとびっくりしたように目を見張り、小さく頷いた。
「にーちゃん」
俺は無い知恵絞って、なんとか少しでも事態が良くなる道を模索する。
「こいつの叔父さんへ、連絡入れてやってくれる?」




