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何かを食べてしまう男シリーズ

呑み込んでみる

 (僕)

 僕は寝ている間に“何か”を食べてしまう事がよくある。それが何かは分からないけど、腹に残っている感触だとか、夢の残滓だとかから、何かを食べたとはっきりと分かってしまうんだ。

 食べたその何かがどういう類のものであるかを説明するのは難しい。何しろ僕自身にも分かっていないのだから。ただ、誤解を与えかねない事を承知で説明してしまうのなら、何らかの霊的なものとでも言えば分かり易いかもしれない。

 ただし。繰り返し断っておくけれど、僕にもそれが何かは分からない。だから、その解釈が本当に正しいのかどうかも分からないんだ。ただ、それっぽいというだけ。“何か”の感触は、快いものでは決してない。どちらかといえば、不快だ。質量がないのに圧力があるその違和感が気持ち悪いというか、なんというか。とにかく、その違和感は大体の場合は、奇妙なものだ。

 ……そして、その時に、寝ている間に食べてしまったそれは、いつもにも増して妙な感触だったのだ。


 圧力自体は、それほど大きなものではなかった。ただし、存在感は強い。朝起きて、腹の中のあったそれには、何かが渦巻いているような感触があった。複雑な感情が入り組んで混在しているような。

 子供の、何かかな。と、それで僕はほぼ直感的にそう思った。アイデンティティが曖昧で、感情の力だけはやたら強いとくれば、僕には子供しか思い浮かばなかったんだ。それに、よく覚えてはいないのだけど、寝ている間で、僕は子供の頃の、しかも嫌な夢を見たような気がしていたから。

 その何かは、腹の中に消えないで一日中あったけれど、別に話しかけてくるとか、そういう事はなさそうだった。そうやって消えないでいるものの中には、偶に僕に話しかけてくるのがあるんだ。それに、ゆっくりだったけれど、徐々に消えていっているようでもあって、夕暮れ時にはもうかなりその存在感は希薄になっていた。僕はそれで安心した。どうやら、大きな問題にはならなそうだ。――しかし。

 その日は珍しく仕事が早く終わって、僕は夕刻過ぎの18時頃には自宅の近くを歩いていた。

 自宅の近くには、空き地があってよく子供達が遊んでいるのだけど、そこを通りかかった時に、不意に泣き声が聞こえたんだ。小さな女の子の泣き声。見てみると、暗闇の中に小さな子がうずくまっているのが見えた。どうしたのだろう、と思って近付いて話しかけてみると「靴が見つからないの」と、泣き声まじりにそう説明してきた。どことなく言い難そうに思えたから、僕は深くは追求しなかった。それから「ちょっと待ってて」と、そう言うと、急いで自宅から懐中電灯を取ってきて、一緒に靴を探した。三十分くらい一緒に探すと、なんとか靴を見つける事ができた。女の子はお礼を言うと、見つけた靴を履いて帰っていった。多分、あの女の子は、いじめられているのじゃないかとそう僕は思った。まったく、人間というのは、しょうがない生き物だ。集団になると簡単に残酷になってしまう。

 そして、その時に、腹の中の何かが微かに反応したように思えたんだ。ただし、腹の中の何かはそれからすっかり消えてしまったけれど。


 その日の晩、夢を見た。よくは覚えていないのだけど、スーパーヒーローが登場する変な夢。スーパーヒーローは、気持ちの良いヤツで、うじうじと悩んでなんかいない。例えば、誰かがいじめられていたら、周囲の目なんか恐れずに、大きな声でそれに反対する。そしてもちろん、いじめられっ子を助け出す。だけど、それは別にいじめっ子達をやっつけるとかそういうのじゃないんだ。そのスーパーヒーローは誰一人傷つけない。どうやるのかは分からないのだけど、とにかく、いじめっ子達もいじめられっ子も誰一人傷つけないで、スーパーヒーローは、その場を丸く治めてしまうんだ。現実にはほぼ有り得ない光景で、まったく子供っぽくて、馬鹿馬鹿しくもあったけど、それでも、それはとても優しくて気分が良くなるような光景だった。そして、その日の朝だった。

 『スーパーヒーロー見参!』

 目覚めるなり、腹の中で声がした。そう。そのスーパーヒーローは、僕の腹の中で元気いっぱいにその存在を主張していたのだった。


 (ぼく)

 ……ぼくは、今まで自分をそんなに駄目なヤツだと思ってはいなかった。そりゃ、多少はうじうじしてて、空想が好きで、気が小さいところはあるにはあるけど、でも、それでも、みんなと比べて、それほど劣っている訳じゃないと思っていたんだ。でも、最近は、ぼくは自分を駄目なヤツだとそう思っている。

 ぼくは空想が好きで、よく頭の中に何かを思い浮べては、それを紙に描いたりする。チラシの裏とか、画用紙だとか、そういう場所に色々なものを描く。それはとても小さい頃からの癖で、ほとんどの場合は一人きりでやっていた。その方が、気楽に楽しめるから。だけど、ただ一人だけ、それを一緒にやって遊んだ友達がいるんだ。その子の名前は友香ちゃん。女の子。友香ちゃんは、ぼくのその空想お絵描きに付き合ってくれた、いや、気楽にぼくがそれに誘えたただ一人の友達だったんだ。ぼくがキャラクターをまずは描いて、それについて二人で色々言い合って、全く別の新しい何かにしていった。友香ちゃんはとても優しい女の子で、例えばぼくがスーパーヒーローを作って、それに悪人をやっつけさせたりすると、それを嫌がるんだ。やっつけられる悪人が可哀想だって言ってさ。じゃ、一体、どうするのとぼくが言うと、友香ちゃんは、

 「悪人も、何もかも、みんなを助けてあげればいいじゃない」

 って、そう言うんだ。スーパーヒーローは誰一人傷つけないから、スーパーヒーローなんだよって言って。

 それで二人で、その為の方法を色々と考えたりなんかしたんだ。そのスーパーヒーローがどんなヤツで、どんな事ができて、どんな事をすれば、そんな風に誰一人傷つけないようにできるのかって。

 ……でも、そういうのは結局のところ、ただの空想だったのだけど。そんな風な、優しい展開なんか現実にはないんだ。ぼくは駄目なヤツで、スーパーヒーローなんかいなくて、そしてみんなは、この世界の不幸を、なんとかしようだなんて思わない。思ってはいない。(思っていない)。

 だから、友香ちゃんは傷ついていて、誰にも(ぼくにも)、彼女を助ける事なんてできないんだ。

 少しでも努力をしてみればいいのに。弱虫なぼくにはそれもできないんだ。あんなに優しい友香ちゃんが、みんなからいじめられているだなんて、そんな事、絶対に許せないはずなのに。


 (僕)

 「スーパーヒーロー?」

 と僕は訊いた。

 『スーパーヒーロー』

 と、腹の中のそれは応えた。朝食を食べながらの話。僕は考える。なんだか変なものを食べてしまった。とにかく、正体が分からない事にはどうしようもない。もう少し、会話をしてみるしかなさそうだ。

 「それで、そのスーパーヒーローさんが、どうして僕のお腹の中にいるのかな?」

 すると、それはこう答えた。

 『君が食べたからだろう』

 確かにそれはそうなのだろうが、もちろん僕が言いたいのはそういう事じゃない。

 「じゃ、どうして、スーパーヒーローが僕に食べられるような事になっちゃうのかな?スーパーヒーローなら、そういう事にはならないはずだと思うけど」

 『そんな事はぼくが知りたいよ。こっちは早くに外に出て、悪者達をなんとかしたいってのに。いい迷惑だ』

 いい迷惑なのはこっちの方だと思いながらも、僕は次の質問をした。とにかく、今はできるだけ会話をして、情報を集めるのが重要だと思ったからだ。こういう時の、セオリーである訳だけど。

 「で、君の名前はなんと言うんだい? まさか、スーパーヒーローというのが、君の本名という訳じゃないのだろう?」

 それを聞くと、自称スーパーヒーローは、『それは、まだない』と、そう答えて来た。まだ? ないというのなら、話は分かる。でも、まだとはどういう事なのだろう? これから、付けられるのだろうか? だけど、それからその自称スーパーヒーローは、何も教えてはくれないのだった。

 そのまま1日が過ぎる。会社が終わって帰ってきても、そのスーパーヒーローについては何も分からなかった。でも、或いはその正体が見えないという点にこそ、重要性があるのかもしれない。そう思って、僕は彼にこう話しかけてみた。

 「君がスーパーヒーローだというのは、恐らくは嘘だね」

 すると、スーパーヒーローは、心外だといった口調で、『なんだって! なんで、そんな事を言うんだ? ぼくは、間違いなくスーパーヒーローだよ!』と、そう返してきた。

 「いいや、もし本当のスーパーヒーローだったなら、もっと自分の事を説明できるはずだ。それができないのは、君が本当はスーパーヒーローじゃないからだよ。

 さて、ここで一つ問題だ。どうして君は本当の自分を隠す必要があるのだろう? それは、本当の君が、実はとても弱虫だからじゃないのだろうか」

 そう僕が言った途端だった。腹の中のスーパーヒーローの気配は一瞬で消えてしまった。逃げたのかとも思ったけど、気配は消えたのに圧力だけは相変わらずにそこにあった。何がなんだか、どうなったのかも分からなかったけど、どうもまた面倒なものを僕が呑み込んでしまった事だけは確からしかった。

 次の日の朝、また別の変なものが僕の腹の中にはいた。昨日のスーパーヒーローとは、打って変わって、そいつはとても情けないヤツだった。

 『メソメソです』

 と、そいつは言った。


 (ぼく)

 メソメソというキャラクターは、ほとんど友香ちゃんが作った。絵を描いたのはぼくだけど、こーいうのがいいって案を出したのは彼女だったんだ。ぼくはヒーローを描きたかったものだから、その時、どうしてそんなのをって文句を言ったんだ。そんなのヒーローじゃないって。すると、彼女はこう言うんだ。

 「違うわ、彼はヒーローなの」

 どうして?って、ぼくが尋ねると、「彼は弱虫だけど、決して自分に嘘をつかないの。自分をヒーローだとか言ってえばったりもしない。とても優しいのよ。困った人がいたら、きっと助けてくれるんだから」って、そう答えてきた。その時は、どうして“これ”がヒーローなのかなんて分からなかったけれど、今はどうしてヒーローなのかがよく分かる。きっと、メソメソなら、自分を大きく見せようとなんかしないで、そんな事は気にしないで、友香ちゃんを助けようとすると思う。

 メソメソは、どうやって誰かを助けたのだっけ?

 ぼくはそれを思い出そうとしてみた。力もなくて、知恵もなくて、ただ優しくて真っ直ぐなだけのメソメソをヒーローにする為のストーリー。そういうのを、ぼくらは考えたはずなんだ。

 でも、どうしてもそれを思い出せなかった。いや、例え思い出せたところで、それはただの作り話だ。意味なんかない。(だけど)。ぼくはそれから、こう思った。

 “覚えてないのなら、新たに自分でストーリーを作ってしまえばいい”

 もしも、彼ならどうするだろう?

 一人でだって、それを考えられるはずだ。

 もしも、彼なら…… 恥ずかしさとか自分のプライドとか考えないで、自分の力でなんとかできなければ、きっと他の誰かを頼るのじゃないかと思う。助けてくれるだろう誰かを、なんとか必死に探し出して、精一杯にお願いするんだ。どうか、助けてください。どんな事でもしますからって言って。


 (僕)

 『とても困っているのです』

 と、そのメソメソとかいうモノは言った。僕は内心では、困っているのは僕の方だとそう思う。一体、こいつらは何なのだろう? どうすれば、消えてくれるのだろうか?

 『どうか、助けてください。どんな事でもしますから』

 メソメソは続けてそう告げた。僕はとにかく、また会話をしてみるしかなさそうだと思って、それにこう応える。

 「詳しい内容も聞いてないのに、助けるかどうかなんて判断できないよ」

 少しでも話を聞き出せれば、これの正体が分かるかもしれない。

 「君は、何を困っているのだい? あ、断っておくけど、僕の腹に閉じ込められている、というのはなしにしてくれ。困っているのは充分に理解できるけど、僕にだってそれはどうする事もできないのだから」

 それを聞くと、メソメソはこう返してきた。

 『実は、ぼく自身の事じゃないのです』

 へぇ、面白い。と、それを聞いて僕はそう思う。自分の事じゃない、ときた。

 「じゃ、誰の事なのかな?」

 思ったよりも情報を得られそうだと思って少し喜びつつ僕はそう尋ねた。本当に自分の事じゃないにしても、“これ”がそう思っているだけで、本当は、これを生み出している“本物の自分”の事だったにしても、どちらにしろ何か分かりそうだ。

 『実は、ある女の子の事なんです。とても優しい女の子。その子を、どうか助けてあげて欲しいのです』

 「女の子? その子が、どう困っているのだろう?」

 女の子と聞いて、僕は先日夕刻過ぎに出会った、空き地で泣いていたあの女の子を思い出した。あの時、お腹の中の何かは微かにだけど、反応していたように思う。とても微かにだけど。もしかしたら、あの子と関係がある何かなのだろうか。

 『実は、その子は、いじめられているのです。助けてあげたいのだけど、ぼくにはどうする事もできなくて……』

 どうも“実は”というのが、このメソメソとかいうモノの口癖らしい。僕はそれを聞くとこう返した。

 「少しは話が見えてきたよ。でも、どうする事もできない、というのは本当なのかな?」

 『え?』

 メソメソはその僕の返答に少し驚いたようだった。

 「僕が手を貸すのは、別にいいよ。僕の手に負える範囲ならね。でも、本当に君にはどうする事もできないのかな?」

 それから、メソメソは黙ってしまった。何も言わない。朝にこの会話をして、結局、帰宅するまで会話はなかった。なんだか知らないけど、まだ“この子”は逃げているようだ、と僕はそれでそう思う。先のスーパーヒーローの時もそうだっだけど、都合が悪くなると、この子は直ぐに黙ってしまうようだ。これを生み出している子の、性質と関係しているのかもしれない。

 ずっと黙っていてくれたお陰で、仕事の邪魔にならなくて良かったけど、これだと話が前に進まない。僕は仕事が終わって、家に辿り着くと、こうメソメソに話しかけた。

 「とりあえず、もう少し詳しい事情を教えてくれないか。どうすればいいのか、そうじゃないと何も分からないから」

 すると、メソメソは、ようやく詳しい内容を話し始めた。既に消えかかっていて、声はとても小さかったけど、何とかその内容を理解する事ができた。ただし、それでもこのメソメソを生み出しているモノの正体は、見えなかった。いじめられている女の子本人が生み出しているのかとも疑ったけど、なんだか違う気がする。それで僕は、よっぽどこの子は、自分を隠していたいのだな、とそう思った。

 翌朝、また別のものが僕の腹の中にいた。

 『チキといいます』

 と、それはそう言った。なんだか、随分と礼儀正しい口調だった。


 (ぼく)

 ヒーローの一人に、ぼくと友香ちゃんは、チキという名前のキャラクターを考えた。チキというのは、知己と書いて、友達とか、そういう意味だと彼女が教えてくれた。彼は、典型的なヒーローではないけど、メソメソのようなタイプとも違う。チキは頭を使って、なんとか上手い方向へ物事を運ぼうとする、そういうのが得意なキャラクターなんだ。そして、礼儀正しくて、物腰は柔らかいけど、ちょっとだけずるくって、ルール違反くらいなら、簡単にやってしまう。

 多分、こいつをぼくが思い出したのは、友香ちゃんがこのキャラクターを気に入ってくれていたからだと思う。彼女は、乱暴に力技で物事を治めるようなヒーローはあまり好きじゃなかったんだ。

 今回ぼくは、メソメソが何とか協力者を見つけ出した後で、こいつを登場させるストーリーを考えた。友香ちゃんを助ける為には、ピッタリだと思ったから。

 さて。

 チキに何かしらの方法を提案させなくちゃいけない。こいつなら、どんな案を出すだろう?

 どうすればあいつらが、友香ちゃんをいじめなくなるのか。まずは、それを考えなくちゃいけないはずだ。

 そこでぼくは思い付いた。そんなのは簡単じゃないか。友香ちゃんがとってもいい子だって事を、あいつらに教えてやればいいんだ。あいつらだって、それを分かれば、きっと友香ちゃんをいじめたりなんかしないはずだと思うから。

 ……その為には、どうすればいいだろう?

 考えながら、ぼくはなんとなくチキをノートに描いてみた。何も思い付かなくて、ついそんな事をしたんだけど、チキを描き終ると、いきなりそのぼくの描いたチキはこんな事を言ったのだった。

 『そのいじめっ子たちをピンチに追い込んで、それを友香ちゃんが助ける、というのはどうでしょうか?』

 ぼくは当然、驚いた。

 これは、一体、何なのだろう?


 (僕)

 『そのいじめっ子たちをピンチに追い込んで、それを女の子が助ける、というのはどうでしょうか?』

 そのチキとかいう、変わった名前のそれは僕にそんな事を言ってきた。どうしてなのか分からないけど、チキには今までの事情が分かっていなくて、僕は昨日メソメソから聞いた内容を、そのまま説明してやらなくちゃならなかった。多分、これを生み出している子の中では、メソメソとチキは全く別のキャラクターじゃなければいけないのだろう。そして、チキは全く何も知らないという設定なのだと思う。

 「でも、ピンチに追い込むって言っても何をどうすれば良いのか、全く分からないよ」

 僕はチキの案に対して、そう応えた。そもそも僕は、何処の誰がいじめっ子なのかすら教えてもらっていないんだ。

 『ふむ』

 と、それを聞くとチキはそう言った。それから一呼吸の間の後で、こう続けた。

 『あなた、煙草は吸いますか?』

 「吸わないけど?」

 『なるほど。ですが、煙草を買う事くらいはできますよね?』

 「まぁ、そりゃね」

 『よろしい。それで充分です。煙草さえ用意してもらえたなら、後はこちらで何とかしましょう。

 明日の休日に、空き地まで煙草を買って持って来てください。そこで策を実行します』

 元々、これを頼んできたのはそっちなのに、随分とえらそうな態度だな、と思いながらも僕はそれに「分かったよ」と、答えておいた。何にしろ事を進めなくちゃ、僕の腹の中からこれは消えないのだろうし、それに、まぁ、やっぱりあの女の子を、助けられるのなら助けたい、とも思っていたから。

 それと。

 これを生み出している“子”にも、もし会えるのだったら、会っておかなくちゃいけないのかもしれない。


 (ぼく)

 チキが立てた作戦は、とても単純なものだった。まずはぼくが空き地にいじめっ子達を誘っておく。そこには、大人の男の人が置いていった煙草があるから、皆をそそのかして盗んで吸うように仕向ける。そこに煙草の持ち主の男の人に帰ってきてもらう。その男の人は、ぼくらを捕まえて叱る訳だ。親に連絡するくらいの脅しがあって、皆が怯えている最中に友香ちゃんが助けに現れる。その為には、もちろん友香ちゃんをその場に呼ばなくちゃいけない。

 もちろん、それは僕が描いたラクガキのチキが立てた作戦だ。そんな幻のようなヤツの言う事を、そのまま信じて良いのかどうかなんて分からない。そもそも、協力してくれるという男の人なんて、一体、何処でどうやって見つけてきたのかも分からないし。

 だけど。とにかく、空き地へいじめっ子達を誘うくらいはしてみようとぼくは決めた。そこに煙草がなければ、何もしなければいいだけだし、煙草があったら作戦通りに実行すればいいんだ。友香ちゃんは、一応誘っておいて、もし何もなかったら事情が変わったと謝ろう。

 駄目元で、やれるだけやってみればいい。

 だけどぼくは、どうしてなのか、そう思いながらも、煙草も男の人も恐らく本当にあるだろうと、何故か確信めいたものを抱いていた。

 次の日。

 いじめっ子達は、簡単に誘う事ができた。“空き地に煙草が置いてあったんだよ。それを皆で吸ってみないか”と言ったんだ。臆病者だと思われたくなかったのだと思うのだけど、そう言うと呆気なく彼らは、空き地へ集まって来てくれた。煙草がなかったらなかったで、誰かに持って行かれちゃったかな、と言うつもりでいた。

 「さぁ、吸ってみようよ。こんなチャンス滅多にないよ」

 そう言って、煙草を一本取って、差し出してみた。普段は大人しく、危険な橋を渡ろうとしないぼくがそう言うのを皆は拒絶できなかったようだった。強がって、それを受け取る。同じ場所に置いてあったライターで、ぼくはそれに火を点けた。

 その瞬間だった。

 「こらぁ!」

 と、そう背後から怒鳴り声が聞こえたのだった。見ると、男の人が酷く怒った表情で、ぼくらを睨みつけていた。

 ぼくはそのあまりの迫力に、怖気づいてしまった。これが本当に作戦の内での演技なのか、不安を覚える。

 「誰の煙草を吸おうとしているんだ!」

 皆も竦み上がっているようだった。

 「他人の物を盗んだ上に、煙草まで吸おうとしてやがるなんて、一体、どこの悪ガキだ。隠したって、お前らの小学校は分かっているぞ。絶対に親に連絡してやるからな!」

 男の人がそう怒鳴ると、皆は青い顔をし始めた。多分、ぼくも同じ様に青い顔をしていたのじゃないかと思う。ぼくはこれが実は演技なんかじゃなくて本物かも、と思い始めていた。やっぱり、チキの話はデタラメだったのじゃないかって。そして、“学校と親に連絡するのだけは、勘弁してもらわなくちゃいけない”と、本気でそうぼくが思いかけた時だった。男の人の背後に、友香ちゃんの姿が見えたのだ。

 友香ちゃん。

 ぼくは少しホッとした。やっと来てくれた。さぁ、この男の人を説得して。ところが、それから友香ちゃんは、その場に立ち尽くして、動こうとはしないのだった。なんだか、酷く困惑した表情を浮かべている。

 そういえば、ぼくは今日の段取りを友香ちゃんに何も言っていない。そんな話をしなくても、彼女ならぼくらを助けてくれるとそう思い込んでいた。

 まさか、彼女は何もしないでいる気なのか?

 それも無理もないかもしれない。考えてみれば、ここにいるのは、ずっと彼女をいじめ続けた、そして、(ぼくのように)それを無視し続けた連中なんだ。

 彼女は悲しそうな目で、ぼくらを見続けていた。いくら彼女が優しくても、ぼくらを見捨てることは充分に考えられる。

 だけど。

 だけど、それでも彼女は、それからその場を離れようとはしなかった。そして、手を震わせながら、恐る恐る、何かを言おうとしているようだった。口を開く。

 「あの……」


 (僕)

 「あの……」

 背後から声が聞こえた。

 正直、怒るのがあまり得意ではない僕が、演技とはいえ、ここまで怒れるとは思っていなかった。恐らくは、また、何かを呑み込んだからなのだろうと思う。僕の中には、怒りが、憎悪が渦巻いていたのだ。

 それが誰のものなのかは分からなかったけど。もしかしたら……、

 背後から声が聞こえた時、僕は少なからず安心をした。まさか、このまま本当に親や学校に連絡する訳にもいかない。確かにこの子達が煙草を盗んだのは事実だけど、“集団心理”によって半ば心理操作された上で行った事だ。集団になった時に、果たしてどこまで個人を責められるのだろう? 僕にはそれが分からない。それには“いじめ”という現象も入っている。それは集団心理によって発生する、人間のエラーみたいなものなんだ。よほど確りした人でない限り、そのエラーに当てられれば、行動を制御できなくなる。

 声に振り返ると、そこには怯えた表情の女の子が、僕をじっと見つめていた。

 「なんだい、君は?」

 不思議な事に、その女の子を一目見た瞬間に、僕の中に渦巻いていた原因不明の怒りは何処かへ消えてしまった。だから、怒った振りをするのが少々大変だったのだけど。

 「あの…」

 と、再び女の子は言った。その怯えた表情に、僕は思わず笑顔になった。反射的に安心させなきゃ、と笑顔を作ってしまったんだ。後の子達からは見えないだろうから、大丈夫だったろうと思う。女の子は、おずおずと言葉を発した。

 「その男の子達は悪くないんです。実は、あたしが、煙草を吸ってみてくれないってお願いしちゃって。煙草を盗んだのもあたしなんです。だから、あの、できるのなら、許して欲しいんですが……」

 「本当か?!」

 僕はできるだけ迫力を出したつもりでそう言ったけど、声からは怒りが失われてしまっていた。ただ、大きいだけだ。しかし、それでも女の子はビクッと震えた。

 「はい…」

 竦みながら、そう言う。

 「そうか。なら、こっちに来なさい」

 僕はそう言うと、女の子の手を掴んで引っ張っていった。いじめっ子達を置き去りにして、そのまま塀の向こう側に行く。彼らから見えなくなっただろう位置まで来ると、手を離す。僕は振り返ると女の子に言った。

 「えらいね。よく彼らを庇えた。君は、大した子だよ」

 ニッコリと笑ってみる。女の子はびっくりした顔をしていた。それから、不思議そうな表情を見せる。僕はその表情に向けてこう言う。「つまり、君に免じて、彼らを許してやろうと言っているんだよ。もちろん、君を叱ったりもしないよ」。僕がそう言っても、女の子はまだ不思議そうにしていたけど、やがて状況を察したのか、その後で「ありがとうございます。あの中に、仲の良い、友達もいたものだから……」と、照れ隠しなのかそう応えて来た。

 どうやら、本当にいい子みたいだ。僕は彼女を直ぐに解放した。女の子は、ペコリと頭を下げるとそのまま去っていった。これで、きっと僕の腹の中に現れる“あれら”も消えてくれるはずだと思う。でも、まだ僕にはやるべき事が残されていた。


 (ぼく)

 友香ちゃんがぼくらを助けてくれた。

 友香ちゃんが連れて行かれた後を、いじめっ子達は誰一人追っていなかった。誰も友香ちゃんを助けようなんて思わないらしい。ただし、全員、複雑な表情をしてはいた。ぼくは内心で思う訳だ。あんなに優しい子をいじめて、君らは恥ずかしくないのかい?って。もっとも、それはぼくにもほぼ同じ様に当て嵌まる事ではあるのだけど。

 やがて、誰からともなく無言で一人、また一人とその場を離れた。相当に効いているみたいだ、とぼくはそれでそう思う。しかし、この珍事はそれでは終わらなかった。皆と別れ、一人になった時に、いきなり話しかけられたんだ。

 「やぁ」

 驚いて振り返ると、そこには先の男の人が立っていた。ぼくらを叱ったあの人。わざわざ追いかけて来て、ぼくだけ叱るつもりなのかとも思ったけど、それにしては、どうにも表情が穏やかだった。

 「正体は、君だったんだな」と、男の人はそう言う。何の事だろう?と、そう思ったのだけど、ぼくの表情を読んだのか、それからこんな事を言ってきた。

 「スーパーヒーロー、メソメソ、チキ」

 驚いた。それは、ぼくが、いやぼくらが作り出したキャラクターの名前だったからだ。

 「どういう事ですか?」

 ぼくの質問を聞くと、男の人は「あっはっは」と大きな声で笑った。

 「いやいや、実はそんな連中が、毎日、僕の所に現れてね。それで、今回の事を手伝わされたんだよ。大元は、どんな子なのかと思って興味があったんだけど、今日会って、なんとなく君だと分かった。どうやら君自身も無自覚だったみたいだね」

 ぼくは目を丸くして驚いた。多少は、思い当たる節がない訳でもない。でも、まさかそんな事が起こっていただなんて。

 男の人は、それからこう言った。

 「君と話してみたかったんだよ。まさか、君は今回の事だけで、全てが上手くいくなんて思っていないよね?」

 「どういう事ですか?」

 「今回の事は、あの女の子を、いじめられている立場から救い出す切っ掛けにはなるかもしれない。でも、決定的な要因にはなりはしない。その可能性が高い、と僕は言っているんだよ」

 え? あれだけじゃ、いじめは終わらないかもしれないって事?

 男の人は更に続けた。

 「いじめっていうのはね、人間関係の中に生じたある種のルールみたいなものなんだ。もっとも、個人で独断で行う嫌がらせもあるけど、それは集団行動とは本質が違う。

 人間は、自分の所属する社会に従ってしまう性質を持った生き物だよ。そしてだからこそ、一度固定化してしまったそれは、なかなか消えてはくれないんだ。分かるかな?」

 ぼくはそれに首を振った。そんな難しい事を言われても分からない。

 「うん。じゃ、ある集団心理の実験の話をしよう。ソロモン・アッシュという人が行った実験なのだけどね。

 答えの分かりきった簡単な問題を、ある人に解答してもらう。ところが、同時に参加している他の人達は、別の間違った答えが正しいと主張するんだ。この実験の結果、なんと全体の三分の一もの人達が、間違った答えを選んでしまったんだよ。他の人達の意見に合わせてね。

 これは単なるクイズだけど、もしも、これが例えば“誰かをいじめる”だったらどうなるだろう。或いは、“盗んで煙草を吸おう”でもいい。もっと大きく、世の中全体で“戦争をしよう”というのもあるね。もう分かっているかもしれないけど、それが“いじめ”という現象の本質なんだ。

 そして、そういうのは生まれてしまうと、中々消えない。大きくなればなるほど、強くなればなるほど、個人はそれに抗い難くなるからね。しかも、集団の幻想でしかないそれを、本当だと信じ込んでしまう人もたくさんいる。独りきりになるのを、恐れるだけじゃなくて」

 今度は、なんとなく分かった。

 「つまり、皆の意見に流されないで、間違っていると思ったなら、それに反対する事が必要だって事ですね」

 ぼくがそう言うと男の人は、黙って頷いた。そしてそれからこう言う。

 「もっとも、何の勝算もないのに、ただ抗うんじゃ駄目だと思うよ。それだと、結局はその抗った人が不幸になるだけで終わってしまう可能性が大きい。それでもその人が構わないというのなら、別だけどね。もっと上手く全体の雰囲気を変えられないか、その方法を模索するべきだと僕は思う。

 ただ、今回の場合は、今日の事で、もう充分に勝算はあると思うけど。

 ……君は、今回、確かに行動をしたようだけど、飽くまで裏方としてだ。君自身の立場として、彼女を救おうと表立って動いてはいないね。それでは、そのままでは駄目だと思う。

 もう分かっていると思うけど、隠れてなんかじゃなくて、君自身の立場として、君は彼女を助けようとしなくてはいけない。そうじゃないと、人間関係に生じた空気は変わらないんだ。そして、状況は整っている。後は、勇気を呑み込んで、行動するだけだよ」

 ぼくはそれを聞くと、大きく頷いた。


 教室。

 あの男の人が言った通り、友香ちゃんに対するいじめは相変わらずに存在しているようだった。あれだけじゃ消えなかったんだ。少なくとも、“集団”のレベルでは。

 でも、とぼくは思う。でも、個人個人では違っているはずだ。助けてもらっておいて、友香ちゃんに感謝をしないはずがないのだから。

 みんな、いじめなんかしたくないと思っているはずだ。内心では。それなのに、集団ではそれはなくなっていない。

 なら、何をすればいい?

 この空気を変える為には。

 うん。分かるよ。

 集団の空気に、あえて抗うのが必要な時だってあるんだ。


 ぼくは。

 ぼくは、勇気を呑み込んでみた。そして、席を立つ。隠したりなんかしないで、確りと、自分の立場で行動をする為に。

 スーパーヒーローなんかには頼らず、確りと自分の立場で。

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[良い点] 話の構造がしっかりとまとまっていて、わかりやすく読むことができました。また、文章の面でも、へんにこったり難解すぎることなく、すらすらと読むことができました。 とてもおもしろかったです。 […
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