魔法士団長
* * * * *
「ん?」
紫水の区画に入った紅玉の士団長・ガルフェウス=アルドレッドは違和感を覚えた。
それが何なのか考えて、すぐに気付く。
「おや、廊下が綺麗ですね」
ガルフェウスの心を代弁するように琥珀の士団長・シェドア=オルドレアが微笑んだ。
紫水の区画と言えば魔窟と呼ばれ、廊下や応接室などの共有スペースはまだマシで、各魔法士の研究部屋になるとどこも酷い有様であった。
そして共有スペースもマシと言うだけで、綺麗とは言い難い。
何せ掃除をする者がいないのだ。
どの使用人も研究部屋の酷さに恐れ慄き、すぐに異動してしまうため、掃除がされていなかった。
汚さのせいで掃除をする者が逃げてしまい、そのせいで更に汚くなり、と悪循環に陥っていた。
先日、ようやく五人の掃除人を見つけ出した。
今日はその初日である。
「誰かが掃除したようですね」
「みたいだな。紫水の区画に埃が落ちてないのは何年ぶりだ?」
「さあ、ここ数年は覚えがありません」
ガルフェウスはシェドアと顔を見合わせた。
どうやら掃除人がさっそく活躍しているらしい。
しかし、よく見ると窓は曇ったままだし、窓の枠には埃が積もったままだ。
ガルフェウスは窓を覗き込む。
「……窓拭きはしてないみたいだな」
指で窓に触れれば、跡が残る。
「初日で全てというのは無理があるでしょう」
「それもそうか」
紫水だけでも四十名余りが所属している。
その部屋を全て片付けて、共有スペースまでというのは欲を出し過ぎだろう。
それでも床の埃を掃いてあるだけでも随分と印象が違う。
紫水の士団長の部屋まで向かったが、廊下はどこも綺麗に埃が掃いてあり、比較的綺麗になったように思えた。
士団長室の前に来て、また驚いた。
廊下に本や紙の束がぎっちり並んでいる。
壁際なので通行には問題ないが、紙の束などはしっかりと紐で纏められていた。
驚きながらガルフェウスは扉を叩く。
中から「どうぞ〜」と緩い返事があった。
そしてガルフェウスは扉を開けて、更に驚いた。
思わず足元を見てしまう。
……床が見えてる?!
斜め後ろにいたシェドアも目を丸くしていた。
「いつまで立ってるの〜? ほら、中入って座ってよ。せっかく綺麗になったんだし〜」
紫水の士団長・ナサニエルの言葉にガルフェウスは「ああ……」と気の抜けた返事をしてしまう。
中に入り、ソファーへ座る。
目の前の光景が信じられなかった。
向かいのソファーに腰かけたシェドアも酷く驚いた様子で、しげしげと室内を見回している。
つい先日までこの部屋はまさに魔窟だった。
テーブルと片側のソファーには実験道具が所狭しと並び、もう片方のソファーは書類と毛布でぐちゃぐちゃで、座ることなんて不可能で。
おまけに床には書類が下も見えないほどに散らばって、そこら中に本が積み重ねてあり、何かの服などが落ちていることもあった。
……そのはず、だったのだが。
今の紫水の士団長室は違う。
まだ奥半分の床は紙が残っているが、扉側は床がしっかりと見えていた。
しかもテーブルもソファーも片付いている。
よくよく見ればどちらにも薬品の染みたような跡が少々あることから、この部屋に置かれていた家具なのは確かだろう。
「随分片付いたな……」
ガルフェウスはこの部屋のテーブルやソファーが本来の用途として使えるようになっているのを初めて見た。
「先日募集した者達は、確か今日からでしたよね? 彼らだけでたった半日でここまで片付けてしまうとは……」
向かいに座るシェドアが感心した声で言う。
しかし、それにナサニエルが首を振った。
「違うよ〜。ここを片付けてくれたのは一人だよ。変わった女の子がいたでしょ? あの子がたった半日でここまで綺麗にしてくれたんだ〜」
それにガルフェウスもシェドアも目を剥いた。
「一人でか?!」
「一人でそこまで?」
ナサニエルが「うん」と頷く。
「うちのアルフリード君も手伝っていたけれど、殆どあの子がやってくれたよ〜」
ガルフェウスは先日の面接を思い出した。
たった一人だけ受かった少女。
見た目は地味で、小柄で、でも見た目に反して明るく前向きで、婚約破棄されたという子爵令嬢。
あれは忘れる方が難しい。
「あのご令嬢か」
顔立ちは貴族の中では平凡だが、色々な意味で印象的なご令嬢だった。
「何というお名前でしたかな?」
シェドアの問いにナサニエルが答える。
「ミスタリア=リルファーデ子爵令嬢で、愛称はミスリルちゃんだって〜」
「ミスリルというと、あの鉱石の?」
貴族のご令嬢の愛称が硬い鉱石の名前とは……。
「そうらしいよ〜。本人が挨拶の時に『折れない欠けないへこまない、打たれ強さは世界一! このミスリルに何でもお任せください!』って言ってたんだ」
「……それは、なんっつーか……」
「変わったご令嬢ですねえ」
言われてみれば、あの銀灰色の髪はミスリル鉱に色味が似ている。
リルファーデ子爵領は確かに少量ながらも良質なミスリル鉱を産出している。
……打たれ強さってのは婚約破棄にかけてるのか?
何というか、普通の貴族のご令嬢とは確実に何かが違うということはヒシヒシと伝わってくる。
「凄い子だよ。僕に対してもハッキリ意見を言うし、容赦なく要らない物だからって色々捨てられちゃうし、でもおかげでここまで綺麗になったんだ〜」
「それは凄いですね」
ナサニエルは一見優しそうで、緩い口調に騙されやすいが、三名の士団長の中では最も気難しい。
研究者気質で、好き嫌いがハッキリしており、誰に対しても言葉を偽らない。
場合によっては自分の意見を通すために実力行使することだってある。
ある意味では最も恐ろしい人物だ。
ナサニエルに笑顔で睨まれて、尻尾を巻いて逃げ出した者も少なくない。
「ミスリルちゃんは僕が怖くないみたい。魔力が内向らしいから、魔力感知は出来ないのかも」
それに、なるほど、と思う。
魔力感知が出来れば、ナサニエルの魔力量に気付いて恐れたかもしれないが、内向者ならばそもそも魔力感知を使えないだろう。
本来、魔法士は己の魔力をある程度抑えることが出来るのだが、ナサニエルはあえて抑えていない。
魔法士団の士団長として、力量を示すためだ。
その魔力量に圧倒されてしまうこともある。
「それは良い意味で使える人材ですね」
辞めた者達の中にはナサニエルの魔力量に威圧され、それに怯えて辞めた者もいるだろう。
紫水の魔法士達は慣れているが、初めてナサニエルと会った時はガルフェウスも無意識に警戒してしまった経験があるため、それを考えれば魔力を感知出来ない者の方が良いのかもしれない。
「それに身体強化も結構使えるみたいだよ〜。アルフリード君からの報告によると、実験器具の入った木箱を軽々と運んでたんだって〜。本当は今日は挨拶だけのつもりだったんだけど、朝早くから制服で来てくれてね、やる気満々って感じだったから掃除を頼んだんだけど、正解だったね〜」
実は身体強化魔法は扱える者が少ない。
外向者は自身の体内で魔力を循環させるのが下手で、内向者はそもそも数が少ない。
そして魔力量や体質によっては、内向者でもさほど身体強化させることが出来ないこともある。
身体強化を使えるというのは実は凄いことなのだ。
……まあ、さすがに宮廷魔法士団の大半はそれを扱えるが。
「他の者は今日は挨拶だけだったと?」
シェドアが問う。
「そうだよ〜」
「では廊下を掃除したのも、リルファーデ嬢ということですか。なるほど、なるほど」
シェドアの言葉にナサニエルが目を瞬かせた。
「え? 廊下? 何のこと?」
不思議そうなナサニエルにガルフェウスが扉を親指で示した。
「ああ、廊下の埃が掃いてあったんだ。まあ、窓は曇ったままだし、他はやってないようだったが」
「……廊下って、どこから、どこまで?」
ナサニエルが眉を寄せた。
「紫水の区画の始まりから、ここまでは綺麗になっておりましたよ。それ以外は分かりませんが、見えた範囲の床には埃がありませんでした」
シェドアの言葉にナサニエルが首を傾げる。
「おかしいな、午前中は倉庫の掃除をしてもらって、その後、すぐにここに来て終業までいたから廊下の掃除なんてやってる暇はなかったと思うんだけど……」
立ち上がったナサニエルがソファーの後ろを抜けて、廊下へと続く扉を開けて、外を見た。
「もしかして、終業後にやったのかな」
そうだとしたら随分と働き者だ。
「他の者がやった、ということはありませんか?」
ナサニエルが首を振る。
「ないと思うよ〜。他はみんな午後に来たし、挨拶だからか知らないけど、制服じゃなかったから。制服を着て来たのはミスリルちゃんだけだね〜」
扉を閉めたナサニエルが苦笑する。
「初日から頑張ってくれて嬉しいけど、大丈夫かな」
ナサニエルの生み出した魔窟をたった半日でここまで片付けただけでも驚きなのに、更に他の掃除もしている。
「あまり頑張り過ぎて、疲れて辞められちゃったら困るんだけどな〜。僕、ミスリルちゃん気に入ったし」
う〜ん、と腕を組んで考えるナサニエルにガルフェウスは驚いた。
この偏屈がそこまで誰かを気にいるとは珍しい。
「そんなに良い子なのか?」
つい、そう問いかけていた。
ナサニエルが笑って頷いた。
「うん、良い子だよ〜。今日見た感じ、明るくて、素直で、多分あんまり頭は良くないかな〜。企み事とかは出来なさそう。内向者だから魔法に関してはちょっと疎いみたい。あと、掃除を凄く楽しそうにしてたね〜」
……頭が良くないというのは褒め言葉ではない。
だが、ナサニエルがそう評するということは、それがナサニエルから見て、良い意味だということなのだろう。
「気難しいアルフリード君とも仲良くなれてるし」
ああ、とナサニエルの二人いる副士団長を思い出す。
片方は平民からの叩き上げで、年齢はナサニエルよりも上だがなかなかに食えない男である。
そしてもう片方がナサニエルの言う『気難しいアルフリード君』だ。
記憶違いでなければ、リュディガー公爵家の次男で、非常に整った外見だが、あまり人を寄せ付けない雰囲気を持ち、大体いつも無表情で、淡々と意見を言う。
ナサニエルももう片方の副士団長も笑顔でいることが多いため、アルフリード=リュディガーの無表情さは、冷淡にも見える。
実際、アルフリード=リュディガーは貴族のご令嬢達から人気ではあるが、どのようなご令嬢も冷たくあしらわれている。
そういった場面をガルフェウスも何度か目にしたこともあった。
「あのリュディガーの次男坊が仲良く……?」
ご令嬢の愛の告白を「興味ないので」「私はあなたが好きではありません」「想いを寄せられても困ります」と容赦なく切り捨てていたあの男がご令嬢と仲良くしているところなど想像がつかない。
訝しむガルフェウスに、シェドアが「まあまあ」と微笑んだ。
「アルフリード殿は頭も良く、察しの良い方ですから、きっとそのリルファーデ嬢はアルフリード殿に下心が一切ないのでしょう」
それにナサニエルが頷いた。
「そうかもね〜。一緒に掃除してたけど、ミスリルちゃんは全然アルフリード君のこと意識してなかったね〜。だからかな、アルフリード君も今日はちょっと優しかったよ」
「それは良いことですね」
「うん、あんなアルフリード君、久しぶりに見た〜」
そう言ったナサニエルはどこか嬉しそうだった。
敵には容赦のない人間ではあるが、ナサニエルは身内や懐に入れた者には甘い。
そしてナサニエルはアルフリードをかなり気に入っている。
……まあ、ナサニエルだけじゃないが。
自分の意見を臆さずに口に出すアルフリードのことは、ガルフェウスも嫌いではない。
たまに生意気に感じることもあるけれど、宮廷魔法士団長にもなると、真っ向から意見を言ってくる者は減る。
だからガルフェウスもアルフリードを見かければ話しかける。
人嫌いなのか、たまに嫌そうな顔をされるが。
「もう一回、あの令嬢に会ってみたいな」
ガルフェウスは言いながら思い出す。
面接で言葉を交わしたが、改めてじっくり話してみたいと好奇心が湧いてくる。
「これから紫水で働くんだし、会おうと思えば会えると思うよ〜」
ナサニエルの言葉にふむ、と考える。
「これこれ、リルファーデ嬢にも仕事があるのですから邪魔をしてはいけませんよ」
シェドアに穏やかに窘められる。
「我々はどうしても目立ってしまいます。特に理由もなく近付けば、リルファーデ嬢に迷惑をかけてしまうでしょう。……ただでさえ彼女は婚約を破棄されたばかりなのです。余計な波風は立たせるべきではありません」
「まあ、確かにな」
「こちらで働いている以上はそのうち話す機会も巡ってくるでしょう。縁が出来れば人となりを知ることも出来ますよ」
ガルフェウスはそれに頷き返す。
「それにしても、本当に綺麗になりましたね。リルファーデ嬢には、いつまでも紫水で働いていただきたいものです」
シェドアのしみじみとした言葉に、ガルフェウスだけでなく、ナサニエルも深く頷いたのだった。
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