後悔
休憩時間、ふと窓の外を見れば、宮廷魔法士団・紫水の副士団長の片割れであるアルフリード=リュディガー公爵子息と、つい最近その婚約者となったミスタリア=リルファーデ子爵令嬢が歩いていた。
それを見下ろしながら思う。
……どうしてこうなってしまったのだろうか。
彼女、ミスタリア=リルファーデ子爵令嬢も自分達と同じ立場だったはずなのに。
同じ清掃員として紫水に雇われたはずだが、リルファーデ子爵令嬢は自分とは全く違う。
リルファーデ子爵令嬢は紫水の魔法士達と上手くやっている。
誰も彼もが彼女には笑顔を向ける。
それなのに自分達に対してはどうだ?
紫水の魔法士達は自分達にはよそよそしい。
……だが、それも仕方がない。
全ては自分達の行いのせいだから。
今はただ、自分達の行いを反省し、彼らからの信頼を取り戻せるまで、真面目に働くしかないのだ。
* * * * *
初めてリルファーデ子爵令嬢をきちんと見たのは、紫水の使用人として配属された初日のことだった。
最初の面接の時にも残っていたが、あの時は、まさか紫水の使用人になるとは思ってもいなかったので、そちらの方に気を取られてしまったのだ。
勤務初日、自分は私服で向かった。
最初は挨拶だけでいいだろうと考えていた。
「失礼します」
だから挨拶をしに紫水に訪れた。
宮廷魔法士団・紫水の士団長室。
扉を叩き、中から「どうぞ〜」と声がする。
そして中へ入って唖然とした。
その部屋は酷く汚れていた。
床には足の踏み場もないほどに書類などが散らばり、来客用のソファーやテーブルはよく分からない薬品で汚れており、それをリルファーデ子爵令嬢は濡れ雑巾で拭いていた。
その姿を見た時、自分は「こんな小柄な女が何故受かったのか?」と疑問に思った。
清掃という仕事だが力仕事もそれなりにあると聞いていたし、男ばかりを雇っていたから、てっきり女は嫌がられているのだと思っていた。
だが、そこにはリルファーデ子爵令嬢がいた。
初日だというのに制服姿で、髪を纏めていて、袖を捲って掃除をしていた。
……初日からもう仕事をしてるなんて。
貴族が仕事をするならば、初日は挨拶で、仕事は二日目からというのが大体の常識である。
そこまで取り入りたいのかと少し呆れてしまった。
確かに自分も紫水の魔法士達とお近付きになりたいという気持ちがあって入ったわけだが、それでも、それほどガツガツしてはいない。
自分が挨拶をしている間も、リルファーデ子爵令嬢は掃除をしていた。
その時はまだ、彼女の名前すら知らなかった。
ただ少しの不快感を覚えた。
彼女も自分と同じく縁を結ぼうとしていると思っていたので、先んじて仕事をする姿に追い抜かされたような気分になったのだ。
「うわっ?!」
そんな声がして、思わず見れば、足元を黒光りする虫が駆け抜けていく。
見たこともない虫にギョッとした。
だが硬直する自分とは違い、リルファーデ子爵令嬢は驚いた声を上げたものの、すぐに纏めてあった紙の束を掴むとそれを丸めて、勢いよく虫へ振り下ろした。
バシッと大きな音がする。
そうして躊躇いなく潰した虫を片付けた。
男ですら躊躇しそうなそれを、彼女は平然とこなし、次々に出てくる虫を駆除していった。
……なんて女だ。いや、本当に女なのか?
あの時はそう思った。
試験に受かったということは貴族の令嬢なのだろうが、普通、貴族の令嬢は虫が苦手なものだ。
中には虫を見ただけで悲鳴を上げたり、気絶するご令嬢もいるくらいである。
それなのにリルファーデ子爵令嬢は虫を全く怖がらなかった。
自分はあまりの部屋の汚さと、足元を這う虫が気持ち悪くて逃げ出すように部屋を出て行ってしまった。
その翌日、仕事が始まった。
想像以上の部屋の汚さに唖然とした。
士団長室もかなり汚かったが、魔法士達の部屋も似たり寄ったりで、書類が散らばっていたり実験器具に謎の液体などが乾いてこびりついていたり、いつ着たのか分からない服や黒くなった何かの食べかすが落ちていることもあった。
何より、どの部屋もツンと鼻につく臭いがする。
どれも汚れていて触りたくない。
部屋の主の魔法士も一緒になって掃除をするが、そもそも、こんな有様にするような人間なので、掃除が出来るはずもなく。
仕事は殆ど進まなかった。
「……俺の部屋も彼女が担当だったら……」
そんな魔法士の呟きが聞こえて苛立った。
腹立たしくて、でも仕事はなかなか捗らなくて、更に苛立ちが募っていく。
貴族が掃除を得意な方がおかしいのだ。
掃除というのは基本的に使用人の仕事であり、掃除などの家事が出来るのは爵位の低い令嬢や夫人なんかであって、伯爵家の子息である自分が出来ないのは普通だ。
仕事は他の者が最初に教えに来るものだろう。
教えてもらっていないことなど出来るはずがない。
だがリルファーデ子爵令嬢は、どうやらあの士団長室を綺麗にしたらしい。
……何で比べられなきゃいけないんだ。
「いいよな、あのご令嬢は」
休憩時間、人目につき難く、結構綺麗だった倉庫に同僚達と集まり、その一人が嫌味っぽく言う。
たった数日でリルファーデ子爵令嬢は自分の担当の部屋を全て掃除して、共用スペースや廊下まで掃除をし始めていた。
彼女の方が明らかに仕事が早かった。
「なんでも家で使用人の真似事をしてたらしいぞ」
「他の奴に訊いてみたけど、貧乏な家で、使用人がそんなにいないんだとか。家のことは全部彼女がやっていたんじゃないか?」
「なんだよ、それなら俺達より出来て当然だな」
そんなことを皆でぼやく。
今思えば自分達は仕事に対して不真面目だった。
自ら志願したのに、予想以上に汚れた部屋に躊躇い、仕事をせずに集まって愚痴を言い合っているだけだ。
たとえば家の使用人に掃除のやり方を教えてもらうとか、リルファーデ子爵令嬢に尋ねるとか、そういった道もあっただろう。
自分達は「誰も教えてくれないから」「分からないから」「汚いから」と理由をつけて逃げていただけである。
わざわざ受かった時に配属先を告げられていたのに、自分の予想以上だったからと言って仕事を放棄して良いはずもないのに。
当たり前だがそんな勤務態度が見過ごされるわけもなく。
魔法士達は自分達の様子を見ており、それは士団長に報告された。
何度か、口頭で注意も受けた。
「君達、何しに来てるか分かってる〜? 遊びじゃなくて、これは仕事なんだよ〜? ミスリルちゃん以外、誰も部屋一つ掃除出来てないってどういうこと〜?」
士団長にそう言われても、自分達は不機嫌になるばかりで、仕事を真面目に行わなかった。
それどころか、同僚がリルファーデ子爵令嬢に嫌がらせをするのを黙認し、内心で嘲笑っていた。
自分達は上手く出来ないのに。
自分達は魔法士達と親しくなれないのに。
何であの令嬢だけは違うんだ。
当時はずっとそんなことばかり考えて、リルファーデ子爵令嬢は何も悪くないのに、全ては彼女のせいだと責任を押し付けようとして。
リルファーデ子爵令嬢が襲われたと聞いた時もいい気味だと思っていた。
しかし、彼女は自分の力でそれを押し退けた。
……何でだよ。
何でいつも、平然としていられるのだ。
同僚からの嫌がらせを受けても。
騎士達に襲われかけても。
何もなかったような顔で仕事を続けた。
意味が分からなかった。
けれどリルファーデ子爵令嬢が襲われかけたことで、事態は変わっていった。
その日のうちに士団長に呼び出されると、こう言われた。
「君達の今後についてだけど、あんまりにも仕事をしないから、ちょっと試験をさせてもらうね〜?」
そしてリュディガー副士団長に告げられた。
「あなた方にはこれより一月以内に担当の部屋を全て清掃してもらいます。家から使用人を連れてくる、他の使用人に仕事をさせるといった行為はこれまで同様に禁止し、一月以内に担当の部屋全ての清掃が完了しなければここを辞めていただきます。これは決定事項であり最終勧告です」
そんな無茶なと反論したが聞き入れられなかった。
「ミスリルちゃんは二週間もかからず出来たけど〜? 君達にはその倍の時間をあげただけ、かなり温情がかけられてるんだよ〜? ……いい加減、仕事してもらうからね?」
士団長は笑っていたが、その目は全く笑っていなかったのが恐ろしかった。
それから一日過ぎる毎に「後三十日」「後二十九日」と声をかけられるようになり、冗談ではないのだと思い知った。
それからは必死だった。
子供の頃は騎士を目指したが剣の才能がなかった。
次に文官を目指そうとしたが、勉学は思うように進まず、文官の試験に何度も落ちた。
ここは清掃なので、剣の腕も学も関係ない。
しかも貴族の多い宮廷魔法士達と縁を繋げれば、もしかしたら、良縁を結べるかもしれない。
家族からも、家のために縁を広げて来いと言われ、自分もそれを望んでここに来た。
もっと楽な仕事だと思っていた。
貴族仕事だから、そこまで難しいものではないだろうし、貴族の令嬢達だって王城のメイドとして働いているくらいなのだから、自分も清掃くらい出来るだろうと考えていた。
全部間違ったのだと気付くには遅すぎた。
それからの一月はあっという間だった。
形振り構っていられない。
散らばった書類は部屋の主である魔法士に任せ、汚れた実験器具を洗ったり、もう服としては機能しないだろうボロ布を纏めて捨てたり、飛び出してきたあの黒光りする虫とも何度も戦った。
片付けが終わっても埃まみれの部屋を隅々まで雑巾で綺麗に拭かなければならないし、適当に積み上げられた本も埃を払って本棚へ並べ直す。
ただ本を並べるだけなのに思いの外、重労働だった。
担当の部屋を二つ片付けた時には、手はボロボロで、赤くなって皮膚はカサカサになり、皹も所々出来てしまった。
それでも期限内に部屋を掃除して回らなければ、今度こそ、自分は辞めさせられる。
王城での仕事でクビになれば、他の仕事に就こうとしても「王城をクビになるような者は無理だ」と受け入れてもらえなくなる。
リルファーデ子爵令嬢に嫌がらせをしていた同僚は士団長の言葉を真面目に聞かず、相変わらず人目につかない倉庫でダラダラと時間を潰しているようだった。
自分を含めた他の三名は必死で担当の部屋を掃除していたのだが、それが気に食わないらしく、最近は話しかけられることもなくなった。
でもそれを気にする暇もなかった。
休憩時間や昼休憩中も出来る限り仕事をした。
それで何とか一月以内に担当の部屋全てを清掃することが出来た。
しかし部屋の主の魔法士達はいい顔をしなかった。
……それもそうだ。
出来るなら最初からきちんとすれば良かったのだ。
しかも自分達は魔法士達にかなり手伝ってもらい、そのせいで、彼らの仕事が一時中断されてしまった。
リルファーデ子爵令嬢なら一日か二日で片付く場所を、自分達は三日も四日もかけて、それも魔法士達にかなり手伝わせてやっとだった。
どちらが優秀かなど考えるまでもない。
「君達三名は仕事をこなせたようだね〜。でも、君はしなかった。だから今日付けで辞めてもらうことにしたよ〜。明日までに荷物を纏めて寮から出て行ってね〜」
一月後、士団長は本当に仕事をしなかった同僚をクビにした。
同僚は最後まで文句を言っていたけれど、その頃には自分が悪かったことを理解していたので、同僚の姿を見て、少し前まで自分もこうだったのかと恥ずかしくなった。
それからは真面目に仕事を続けている。
一度しっかり清掃を行い、毎日掃除をして回っていれば、意外と魔法士達の部屋は汚れなかった。
きちんと仕事をすれば汚れることはない。
担当部屋も魔法士達との間に出来た溝はなかなか埋められないが、自分のそれまでの行動の報いである。
「……いいよな」
思わず呟いてしまい、口を押さえる。
視線の先には庭園のベンチに座り、何やら談笑しているリュディガー副士団長とリルファーデ子爵令嬢がいる。
あの二人が婚約したのはつい最近のことだ。
羨ましくないと言えば嘘になる。
その嫉妬が、あの二人のどちらに向いているのかは自分でも分からなかった。
あの二人はどちらも才能があり、良縁を結んで婚約者が出来て、仕事も順調そうで。
何の才能もなく、婚約者もおらず、仕事もやっと何とか出来るようになってきた自分とは正反対だ。
……それに俺は意気地なしだ。
いまだにリルファーデ子爵令嬢と話したことがない。
嫌がらせを黙って見ていたことや無視し続けたことの謝罪をしなければいけないのに、それが出来ずにいる。
……リュディガー副士団長、怖いんだよな。
リルファーデ子爵令嬢に何度か話しかけようとしたのだが、そばにいるリュディガー副士団長のあの冷たい目を向けられると近付けない。
「……はあ……」
掃除用具を持ち直して歩き出す。
リュディガー副士団長は怖いが、今度こそ、きちんと謝罪をしよう。
たとえ許されなくても謝罪し続けよう。
それが彼らの信頼を取り戻す、唯一の道だから。
 




