引っ越しとご挨拶
翌日、わたしは王城へ引っ越すことにした。
王城内にある、使用人用の建物があり、そこの一角に住むからだ。
お仕着せは王城で働くメイドとほぼ一緒だけれど、差し色に紫が使われていて、恐らくこの差し色はわたしがどこで働いているかを示すものなのだろう。
宮廷魔法士団・紫水。
……どんなところか楽しみだなあ。
「姉上、つらかったらいつでも戻って来てね」
イシルディンが心配そうに言う。
その頭をわたしは撫でた。
「ありがとう、イシル。でも大丈夫、わたし、ずっと体を動かす仕事がしたかったから、今、凄く楽しみなの」
「姉上らしいね」
思わず揃って笑ってしまう。
「王城で暮らすけど、月に何度かお休みをいただけるから、その時は帰ってくるね」
イシルディンが頷く。
「うん、いってらっしゃい、姉上」
同じく見送りに出てくれたアニーとヴァンスも「いってらっしゃいませ、お嬢様」と微笑んだ。
だからわたしも笑顔で頷いた。
「行ってきます!」
新しい生活がとても楽しみだ。
荷物をパンパンに詰め込んだカバン二つを抱え、今回は辻馬車に乗って王城へ向かった。
御者にお金を払って辻馬車から降りる。
何度見ても王城は大きくて綺麗だ。
……今日からここがわたしの職場で家になる。
そう思うと不思議な気持ちだった。
門の詰所に声をかけ、一昨日の面接後に受け取った身分証代わりのペンダントを見せ、通してもらう。
騎士の一人がわたしを使用人の棟まで案内してくれた。
「あの紫水で働くそうですが、大丈夫ですか? あそこは魔窟と呼ばれるくらい、荒れているんですよ」
わたしの見た目のせいか、案内してくれた騎士にそう言われたが、わたしは拳を握ってガッツポーズをする。
「むしろどれだけ荒れているのか気になっていたので、楽しみです」
「ははは、それは剛毅なお嬢さんですね。でも、宮廷魔法士団の皆様には我々騎士もお世話になることが多く、区画に行くこともありますので、紫水の区画を綺麗にしていただけたら我々も嬉しいです」
「はい、頑張って綺麗にします!」
そんな話をしながら使用人棟に到着した。
騎士の案内はそこまでのようで、お礼を言ってから、今度は別の人が部屋まで案内してくれる。
やや年嵩の、きっちりした感じの女性だった。
お仕着せの差し色は紅なので、恐らく、紅玉で働いているのかもしれない。
「オルレアン侯爵家のイリーナ=オルレアンと申します。宮廷魔法士団の女性使用人を統括させていただいております。イリーナと呼んでください」
ひっつめ髪に眼鏡をかけた、いかにも仕事の出来る大人の女性といった感じで格好良い。
礼を執ってくれたので、わたしも返す。
「リルファーデ子爵家のミスタリア=リルファーデと申します。本日より、宮廷魔法士団・紫水にて働かせていただきます。よろしくお願いいたします」
「よろしい、では部屋へ案内しましょう」
「はい」
カバンを持ち直してついて行く。
使用人棟はいくつかあって、その中に、宮廷魔法士団の使用人用の建物があり、わたしはその二階の角部屋に案内された。
「本来は二人部屋ですが、紫水の女性使用人はあなただけなのでこの部屋は一人で使うように。それから一階は男性使用人、二階は女性使用人と区分されています。一階には絶対に立ち入らないように」
「分かりました」
二人部屋を一人で使えるのは嬉しい。
室内には小さな暖炉とベッドが二つ、机と椅子が二つずつ、そして小さな棚とクローゼットがあるだけの簡素なものだった。
でも一人で暮らすならこれで十分だ。
「荷解きを手伝いましょうか?」
イリーナ様に問われて首を振る。
「いえ、すぐに片付けられるので後で出来ます」
室内に入り、ベッドの脇にカバンを置く。
それから廊下へ戻ればイリーナ様が少し驚いたような顔をしていたが、わたしが小首を傾げると「そうですか」と言った。
「こちらがこの部屋の鍵となります。もし紛失した場合はすぐに私へ声をかけるように」
「はい!」
受け取った鍵を身分証の紐に通す。
これなら失くすことはないだろう。
イリーナ様が一通りわたしの姿を確認する。
「よろしい」
よく分からないが何かに合格したようだ。
「少々早いですが紫水へ行きます。あそこは荒れているので、早く仕事に入って困るということもないでしょう。……覚悟は出来ておりますね?」
キラリとイリーナ様の眼鏡が光った気がした。
「はい、出来ております!」
……さあ、魔窟へいざ行かん!
* * * * *
魔窟というからどんな場所なのか。
それこそ足の踏み場もないくらいの汚さかと思っていたら、そうでもないようだった。
「こちらより紫水の区画となります」
そうイリーナ様に言われたものの、廊下は多少埃などが目立つが、物凄く汚いというほどではない。
ただ、やはり掃除する人がいなかったせいか廊下の端や角に綿埃などが溜まっているし、窓枠にも少々埃があり、窓もくすんで見える。
あと、心なしか変な臭いがする。
それは奥へ入るほどに段々と強くなっていく。
……なるほど、これは薬品の臭いだ。
確かに多少刺激臭ではあるけれど、多分、これくらいなら仕事に支障はない。
そうしてイリーナ様が一つの扉の前に立った。
扉を叩けば、中から「どうぞ〜」と声がする。
「失礼いたします」
イリーナ様が扉を開けた。
同時に、開けた扉から何とも言えない臭いがした。
……ちょっとカビ臭い?
そして開いた扉の向こうの景色に目を瞬かせた。
足の踏み場もないほど散らばった書類、そこら辺に適当に積み上げられた古ぼけた本の山、来客用のテーブルには何かの実験をした後だろう器具が所狭しと並び、三人がけの二つのソファーも片方は実験器具だらけで、もう片方は書類とくすんだ毛布がぐちゃぐちゃになっている。
真正面の大きな机にも書類と本と実験器具と、汚れた服がごっちゃになっていて、机の向こうに座る人の頭が何とか見えている。
左右に置かれた別の机も似たり寄ったりだけれど、向かって右手の机はこの中で一番マシだった。
書類や本がいくらか積んであるだけだ。
埃っぽさと本のカビ臭さと古いインクの臭いと、そしてやっぱり何かの刺激臭が漂ってくる。
……汚いと言えば汚いけど。
想像していたよりはずっといい。
「本日よりこちらで働くリルファーデ子爵令嬢をお連れいたしました」
「ああ、ありがとう〜。彼女の仕事についてはこっちでやるからいいよ」
「はい、それでは私は失礼させていただきます」
イリーナ様は礼を執り、わたしに小さく頷き、元来た道を戻って行った。
……これは部屋に入ってもいいものか。
思わず足元を見下ろしてしまう。
「あ〜、足元の紙は要らないものばっかりだから気にせず入って構わないよ〜」
というので、お言葉に甘えて紙を踏んづけて入る。
「本日より働かせていただきます、リルファーデ子爵家が長女ミスタリア=リルファーデと申します」
真正面の机と、左右の机にいた人達が顔を上げた。
真正面の人は紫の髪に丸眼鏡をかけている。
線の細い男性で、穏和そうで、少し目が細い。多分、三十代半ばくらいだろうか。ニコニコしている。
右手の男性は金髪に青い瞳の、無表情だけど端正な顔立ちだ。三人の中では一番若いようだ。
左手の男性は茶髪に暗い緑の瞳の、人懐っこそうな人が一番年嵩らしい。
わたしは礼を執り、ニッコリと笑った。
「皆からはミスリルと呼ばれていますので、そのようにお呼びいただけたら嬉しいです。身体強化魔法で重たい物も運べます」
スッと大きく息を吸う。
「折れない欠けないへこまない、打たれ強さは世界一! このミスリルに何でもお任せください!」
全員が目を丸くした。
そして正面の男性がぷっと吹き出した。
「いいねえ、ミスリルちゃん! ようこそ我が紫水へ! 来てくれて嬉しいよ〜」
今日からわたしは宮廷魔法士団・紫水のお掃除係である。
* * * * *
……随分と小さな子が来た。
それが第一印象だった。
そして次に変な子だと思った。
「折れない欠けないへこまない、打たれ強さは世界一! このミスリルに何でもお任せください!」
凄くいい笑顔でそんな挨拶をされた。
……いや、折れない欠けないへこまないって、剣の押し売りじゃないんだから。
打たれ強さって何なのだ。
それはあれか、婚約破棄されたことにかけた冗談なのだろうか。
そうだとしたら随分と自虐的なのだが、当の本人は気持ち良いほどいい笑顔を浮かべている。
それにミスリルという愛称もどうなのだろう。
貴族のご令嬢が鉱物の名前でいいのか。
確かに彼女の髪は銀灰色で、ミスリル鉱に似ていると言えば似ている。
リルファーデ子爵領と言えば少ないながらも良質なミスリル鉱が採れる鉱山があったはずだ。
この紫水でもリルファーデ子爵領から出たミスリル鉱を使って作られたものを何度か購入している。
「アルフリード君、ミスリルちゃんに仕事の説明と案内をしてあげて〜」
「……分かりました」
声をかけられて立ち上がる。
リルファーデ子爵令嬢は近くで見れば見るほど小柄で、派手さはなく、どちらかと言えば地味なご令嬢だった。
ただ感じる魔力量はかなり多い。
「ではリルファーデ嬢、仕事道具が置いてある倉庫まで案内します。道中で仕事についてもお話しします」
「はい!」
小さな体いっぱいで返事をされた。
ご令嬢にしては随分と元気な子だ。
歳下なのは分かるが、働けるということは十六歳以上の成人なのだろう。
見上げられて暗い紫の瞳がキラキラと輝く。
地味だが、外見通りではなさそうだ。
部屋を出て、近くの倉庫まで歩いていく。
後ろからパタパタと足音がして、ふと、自分が早く歩き過ぎたことに気付く。
「……すみません、早く歩き過ぎてしまいました」
立ち止まればすぐにリルファーデ嬢が追いつく。
「いえ、大丈夫です。背が高いと歩幅もあって早く歩けていいですね。わたしももっと大きくなりたかったです」
普通のご令嬢ならば「気遣いがなってない」と怒るところなのだが、リルファーデ嬢は笑っていた。
……やっぱり、変わってる。
「私はアルフリード=リュディガー、リュディガー公爵家の次男でこの紫水の副士団長を務めています。先ほどの部屋にいた紫の髪の方がナサニエル=メルディエル士団長で、もう一人は私と同じく副士団長のジョエル=ウェルツです」
今度はゆっくりと歩き出す。
リルファーデ嬢はうんうんと頷いた。
小柄なせいかそういう仕草が幼く見える。
「リルファーデ嬢にはこの紫水の区画の掃除をしてもらうことになります。他の四人も後から来ると思いますが、紫水には現在四十名余りの者達が所属しており、担当は一人十部屋です。……どの部屋も荒れているので最初は一部屋ずつ掃除してください」
正直、今回選ばれた者達もどれだけ保つか。
過去には部屋を見た瞬間「無理だ」と拒絶した者もいた。
「あの、一つ質問してもいいでしょうか?」
リルファーデ嬢に訊かれる。
「何でしょう?」
「先ほどの部屋の荒れ具合は、紫水ではどの程度ですか? あれ以上に荒れている部屋はありますか?」
「いいえ、あそこが一番酷いと思います」
後ろから明るい声がした。
「それなら、思ったよりも簡単に掃除出来そうです」
その言葉に思わず振り返った。
「あれを見て、そう思ったのですか?」
リルファーデ嬢は頷いた。
「はい、もっと酷いのを想像していたので、考えていたよりもずっと綺麗だったのでちょっと驚きました。魔窟というのは言い過ぎですね」
全く気負った様子もなく言われ、立ち止まってまじまじとリルファーデ嬢を見てしまう。
あれで想像より綺麗というのが理解出来ない。
士団長の部屋はかなり汚いと思うのだが。
「……あそこも結構汚いと思いますが」
つい、そうこぼしてしまった。
「そうですね、汚いは汚いです」
リルファーデ嬢が同意して頷く。
「でも、たとえば天井近くまでゴミが積まれているとか、部屋に入れないほど物であふれているとか、そういう感じもあるかもしれないと覚悟していたので」
「あれは単に片付けられないだけですね」と言う。
……そこまで汚かったら魔窟どころの話ではない。
しかし、想像以上と言われることはあっても、想像以下と言われたのは初めてだった。
倉庫に到着する。
「では、まずは士団長の部屋を掃除していただいても構いませんか?」
それが本心なのか強がりなのか。
リルファーデ嬢は、騎士達がたまにするように、腕を上げて力瘤を作るような仕草をして見せた。
「はい! 腕の見せどころです!」
そして倉庫を開けて、思わず扉を閉めた。
……そういえば倉庫を最後に開けたのっていつだったっけ?
閉めたばかりの扉をリルファーデ嬢が少し開けた。
それから中を見て「おぉ……」と呟いた。
「まずは倉庫からですね!」
何が楽しいのか、やっぱりいい笑顔だった。
* * * * *