それぞれの怒り
男の声がした。
そう思った瞬間、バチンと体が何かに弾き出される感覚がして、そのまま冷たい水に落とされた。
水は浅く、ハロルドはややあって、自分が噴水の中に座り込んでいることに気付く。
わけが分からず呆然としている目の前で、ミスタリアが後ろから男に抱き締められていた。
暗闇でも分かる輝くような金髪の男だ。
ミスタリアが笑っている。
「来てくれて嬉しいです、アルフリード様」
そう言った声は甘えるような響きが少しあった。
これまで一度も見たことがないような、ミスタリアの嬉しそうな満面の笑みに、ハロルドは自分の状況を忘れてしばし見惚れてしまった。
ずっと地味で、子供っぽくて、令嬢にしては元気すぎるミスタリアが嫌だったはずなのに、その明るく、好意を隠さない笑顔が可愛らしくて驚いた。
……俺には一度だってそんな顔をしなかったのに。
「大丈夫でしたか?」
「はい、何もありませんでした」
「それは良かったです。さあ、中へ戻りましょう」
「そうですね!」
男は体を離すとミスタリアの手を取った。
びしょ濡れのハロルドなどまるで見えていないかのような様子に怒りが湧いてくる。
「待てよ!」
慌てて噴水の中から立ち上がる。
しかし、ミスタリアの方に向かおうとすると見えない壁があるのか、ガツリと何かにぶつかった。
男が冷たい眼差しでこちらを見る。
「何でしょう?」
酷く淡々とした声だった。
一瞬それに気圧されるも、ハロルドは言う。
「誰だか知らないがミスタリアは今、俺と話をしている最中なんだ。それにこれは魔法か? 人をずぶ濡れにしておいて謝罪の一つもないのか!」
怒るハロルドに男は小さく息を吐いた。
「彼に名前を呼び捨てにする許可を?」
男がミスタリアに問う。
ミスタリアが首を振った。
「やめてくださいと言ったんですが聞いてくれません。彼はイルンストン伯爵子息で、わたしの元婚約者です。アリエラが呼んでるって言われて来たんですけど……」
「なるほど、騙されたのですね」
「……お恥ずかしい限りです」
ミスタリアと男がまたハロルド抜きに話している。
それが無性に腹立たしい。
だがそれだけじゃない。
自分と婚約していた時は着飾ることなど全くしなかったミスタリアが今は着飾り、可愛らしいご令嬢になっている。
あの地味で冴えないミスタリアではなかった。
「ミスタリア、早くその男から離れろ!」
男がこちらを見やる。
「ミスタリア嬢を名前で呼ぶのはやめてください。彼女が嫌がっているでしょう。あなた方は婚約を破棄して、既に他人なのですから、それくらい常識ですよ」
淡々と言われ、ミスタリアが頷いている。
それが更にハロルドの怒りを煽ったが、ここでこれ以上怒鳴ってもミスタリアは戻って来ないと思い、怒りを抑える。
「……どなたかは知りませんが、リルファーデ子爵令嬢との婚約破棄は撤回します」
「撤回も何も、もう破棄はされておりますよね?」
「っ、彼女は俺と婚約し直すんです!」
ハロルドの言葉に男が首を傾げた。
「おかしいですね?」
何故か体がブルリと震える。
男はそこにいるだけなのに、ハロルドは思わず剣を取ろうとして、自分が今、帯剣していないことを遅れて思い出す。
何も掴めなかった手が震える。
「ミスタリア嬢の婚約者は私のはずですが」
目の前にいるのは人間のはずなのに。
得体の知れない何かがそこにいた。
* * * * *
テラスから外に出て、遠目に見えた彼女の姿にアルフリードは心底安堵して、そして彼女の声と、その近くに背の高い人影があることに気付いて魔法を使ったのはほぼ無意識だった。
普段は決してしない無詠唱で発動させてしまった。
アルフリードが無詠唱で魔法を使えるのは王家と公爵家だけの秘密である。
幸い、周囲に人気も魔力も感じない。
アルフリードはそのまま婚約者を抱き締めた。
婚約者は嫌がることもなく受け入れてくれた。
何もされてないと聞いてホッとする。
すぐ側の噴水には、先ほどの魔法で作った障壁に弾かれている男がいる。
アルフリードは夜目が利くので、その男を見て、即座に相手が彼女の元婚約者だと気付いた。
気付いた上で彼女を引き離すために無視した。
だが男は、イルンストン伯爵子息はこちらを呼び止め、わけの分からないことを口走っている。
……ミスタリア嬢と婚約をし直す?
彼女とイルンストン伯爵子息との件については知っている。
イルンストン伯爵子息が浮気をして、彼女に公衆の面前で婚約破棄を言い渡し、結果的に家をも傾かせることになった愚か者。
今更彼女を取り戻そうとしても、もう遅い。
「こ、婚約者とはどういうことですかっ?」
イルンストン伯爵子息の言葉に返す。
「そのままの意味ですよ。私がミスタリア嬢に婚約を申し入れ、彼女が受け入れてくれました。そして家同士で正式に婚約届も出して、受理されています」
だから、婚約を結び直すなどありえない。
それに口約束だけのままだった伯爵家とは違い、公爵家はきちんと届出をして、正式な婚約を整えた。
イルンストン伯爵子息が何を言っても無駄である。
……ああ、暗い場所で良かった。
自分でも瞳孔が変化してしまっているのは分かる。
もし明るい場所であれば、アルフリードの青い瞳の瞳孔が縦に裂けているのが見えてしまっただろう。
それくらいアルフリードは怒っていた。
このような暗がりに女性を呼び出すという手法も、それが人目につけばどのような結果を生むかも、それを平然と行う目の前のイルンストン伯爵子息にも、先ほど突然抱き着いてきたブランドリー伯爵令嬢にも。
大切な彼女を害そうとする意思が感じられて、これで怒らない者がいるだろうかと思う。
イルンストン伯爵子息が驚いた顔をする。
「そんな、いや、だがミス……、リルファーデ子爵令嬢は婚約破棄されて結婚相手が見つからずに困っていると……」
「いえ、そもそも最初は結婚相手を探してはいませんでしたけど?」
「紫水に就職したじゃないか!」
彼女が呆れた顔をする。
「あなたとの婚約を破棄したら生活に困るから、給金の良い場所を選んだだけです。子爵家がイルンストン伯爵家の援助で暮らしていたのはご存知ですよね?」
イルンストン伯爵子息がハッと何かに気付いた顔をする。
「そ、そうだ、婚約をし直せばまた我が家が援助するっ。そうすれば全部元通りだろうっ?」
「いやいや、だからわたしはもうアルフリード様と婚約しているのでイルンストン伯爵子息とは婚約出来ませんし、そうでなくてもあなたと婚約し直すくらいなら一生独身で働いた方がマシですよ!」
心底嫌だという風に彼女が言う。
イルンストン伯爵子息が固まり、それに少しばかり溜飲が下がる。
彼女の素直すぎるところは少々問題だけれど、今は非常にその正直さが喜ばしい。
怒りの感情はまだあるが、先ほどよりもその感情が落ち着いたおかげで瞳孔が元に戻る。
「俺は伯爵家だぞ?!」
その陳腐な言葉にアルフリードは呆れた。
「私は公爵家ですが」
「え、」
そういえば名乗っていなかった。
アルフリードは婚約者を抱き寄せて挨拶する。
「初めまして、リュディガー公爵家の次男・アルフリード=リュディガーと申します。ミスタリア=リルファーデ子爵令嬢の新しい婚約者です。彼女も彼女の家も今後は私や公爵家が支えていきますので、お気遣いなく」
イルンストン伯爵子息が絶句した様子で黙る。
恐らくあまり社交界には出ていなかったのだろう。
もしもきちんと社交界に出ていれば、アルフリードと会ったことがなかったとしても、外見的特徴や氷の貴公子などという嬉しくない呼び方を耳にしていたはずだ。
そしてこの男は招待客ではない。
どうやって紛れ込んだのか。
ブランドリー伯爵令嬢と言い、イルンストン伯爵子息と言い、招待されてもいないのに公爵家の夜会に忍び込むとはある意味では度胸はあるが、バレた時のことを全く考えていないようだ。
「ああ、それから拘束させていただきます」
詠唱を口にして、イルンストン伯爵子息が何かを言う前に魔法で拘束する。
今日はアルフリード達の婚約発表の場でもある。
だから彼女の元婚約者や、その婚約者を奪った令嬢を招待することなどありえない。
つまり招待客ではないので不法侵入者だ。
騒ぎを聞きつけてやってきた公爵家の騎士達にイルンストン伯爵子息を任せる。
イルンストン伯爵子息が色々と騒いでいるが、魔法で拘束してあるため動くことは出来ない。
「どうやって潜り込んだかは知らないけど、彼は招待客じゃない。連れて行って監視しておいて」
騎士達に声をかけ、彼女に振り向く。
「イルンストン伯爵子息に望む罰を与えることも出来ますが、どうしますか?」
「いえ、わたしは特にありません。ただ、必要以上に関わりたくないと言うか、わたしにはアルフリード様がいるのでもうどうでもいいです」
ギュッと腕に添えられた手に力がこもる。
困った表情の彼女に頷いた。
「分かりました」
彼女は呆れたような、疲れたような顔だった。
まさか婚約発表の夜会に元婚約者がこっそり紛れ込んでいるだなどと、全くもって嬉しくないだろう。
アルフリードは騎士へ顔を戻す。
「彼については父と母の判断に委ねます」
そうして騎士達が動けずにいるイルンストン伯爵子息を運んでいく。
いつの間にかテラスに人々が出て来ており、何事かと様子を見に出ているようだった。
アルフリードは婚約者を見る。
「それでは戻りましょうか」
「はい!」
彼女の笑顔を見るとホッとする。
元婚約者に会って嫌な思いをしたはずなのに、こうして笑顔を見せてくれて安心した。
小さく細い手をエスコートして舞踏の間へ戻る。
すると、すぐに父と母、兄夫婦が近付いてきた。
「何があった?」
父の問いにアルフリードは答えた。
「ミスタリア嬢の元婚約者が夜会に紛れ、我が家に不法侵入していたので拘束しました」
彼女が元婚約者と会ったのは事実だが、僅かな時間と言えども二人きりになったことまでは言わずとも良いだろう。
人目のある場所で口にすることでもない。
父が小さく息を吐いた。
「そうか。……先ほどのご令嬢と言い、今夜は良き日だと言うのに。礼儀を弁えていない者達には困ったものだな」
父の言葉にアルフリードだけでなく、母や兄夫婦がそれに頷いて、彼女は苦笑していた。
ふと視線を感じて首を動かせば、先ほど彼女に紹介された子爵令嬢が心配そうな様子でこちらに近付くべきかどうするか迷っている風だった。
「ミスタリア嬢」
声をかけ、視線で示せば、子爵令嬢に気付いた彼女がアルフリードを見た。
頷き返してそっと背中を押してやる。
「すぐに戻ってきます!」と言って、彼女は親友だという子爵令嬢のところへ歩いていった。
それを見送ってから、こっそり父に耳打ちする。
「どうやら協力者が何名かいるようです。ミスタリア嬢を外へ呼び出した人物も、もしよろしければ捕らえていただけたら嬉しいです」
「ああ、そうしよう」
頷く父に「お願いします」と言い、離れる。
彼女は元婚約者に関わりたくないと言った。
だが、公爵家の夜会に忍び込むというのはかなり問題のある行為だ。敷地内への無断侵入も、招待客に紛れて入ってきたことも、許されない。
それに関しては公爵家が動くことだろう。
「彼女が戻ってきたら、我々は早めに退出しようかと思います。先ほどの件もありますので」
母が頷いた。
「ええ、その方がいいわ。ミスタリア嬢には少し休んでもらってから、きちんとリルファーデ子爵家に送り届けるのよ?」
「はい、心得ています」
しばし時間を置き、ミスタリア嬢が戻ってきたところでアルフリード達は早めに夜会から退出することにした。
あのままいても、騒ぎについてあれこれと訊かれただろうし、婚約者の元婚約者が新しい婚約者の家に忍び込んだなどという話を彼女の口から話させたくもない。
舞踏の間を出て、元の客間へ戻る。
その道すがら彼女が溜め息をこぼす。
「全く、困った人ですね。まさか夜会に来るとは思いませんでした。……招待はしてないんですよね?」
アルフリードは頷いた。
「はい、招待しておりません。それとイルンストン伯爵子息の浮気相手、ドロテア=ブランドリー伯爵令嬢も勝手に忍び込んでいたようです」
「え、あの人も?」
彼女が驚いた様子で目を丸くする。
アルフリードも、正直に言えば驚いた。
見知らぬ女性にべったりと寄りつかれた時には嫌悪感も強かったが、それ以上に、相手に驚いた。
イルンストン伯爵子息の浮気相手だったから。
彼女から婚約者を奪っておきながら、アルフリードにも粉をかけようとする、その思考や言動が非常に気持ち悪かった。
思わず振り払ってしまうほどだった。
「何をしに来たんでしょうね……?」
彼女が不可解そうに首を傾げた。
アルフリードも「さあ?」と首を傾げる。
……まあ、ハロルド=イルンストンは恐らく、ミスタリア嬢との関係を修復して自分の立場を取り戻そうとしたんだろうね。
イルンストン伯爵家はリルファーデ子爵家との取り引きが減ったようだし、イルンストン伯爵子息とミスタリア嬢の婚約が破棄されてから、イルンストン伯爵家の経営状況は段々と落ちていっているらしい。
代わりにリルファーデ子爵家の経営は持ち直しつつある。
イルンストン伯爵子息の様子からして、両家の婚約には政略的なものもあったのだろう。
それを元に戻すために「婚約破棄を撤回して、婚約をし直す」などという馬鹿げたことを言ったと思われるが、そもそも、既に婚約の破棄は両家の間で話し合いがついてしまっているし、彼女にはアルフリードという新たな婚約者が出来たため、婚約をし直すということは不可能なのだ。
もしもアルフリードと婚約していなかったとしても、彼女は言葉通り、イルンストン伯爵子息と婚約をし直すことはなく、結局彼の思惑は外れることになったが。
「まあ、どうでもいいですけどね」
彼女が明るく笑う。
「そんなことよりも、婚約発表したことの方が大事です! 皆さんの前でアルフリード様の婚約者ですって紹介してもらえて、凄く嬉しいです!」
アルフリードは頷き返した。
「ええ、私もミスタリア嬢の婚約者になれて、とても嬉しいです。これから、よろしくお願いいたします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします!」
イルンストン伯爵子息に対して腹立たしい気持ちはあるが、きっと父達が厳しく対応してくれるだろう。
公爵家を敵に回すとどうなるか。
あの二人は思い知ることになる。
* * * * *




