ドロテア=ブランドリー
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ドロテア=ブランドリーは苛立っていた。
婚約出来ると思っていたハロルド=イルンストンの家から、婚姻も婚約も許さないという返事が届き、ハロルド自身からも別れを切り出された。
ハロルドはドロテアを愛してると言った。
しかも彼から聞かされた話では、リルファーデ子爵家と縁を切ったことでイルンストン伯爵家の財政は今よりも厳しくなり、このままでは以前のような勢いを保てなくなるらしい。
「その、君が『一夜の相手に丁度良い女』だと貴族の間で噂になっているが、本当か?」
それを聞いてドロテアは否定した。
「違うわ、それは嘘なの! 前に他の、わたくしの家よりも爵位の高い貴族のご子息に告白されたのだけれど、好きになれなくてお断りしたら、そんな噂が立ってしまって……」
「そうか、やっぱり兄さんの方が噂に惑わされてたのか。きっとそのご子息も君に振られた腹いせにそんな噂を立てたんだろう」
……馬鹿な男ね。それにもう要らないわ。
お金がありそうだったから近付いたのに、家が落ちぶれるのでは意味がない。
それにドロテアの噂は正しかった。
男に貢いでもらう代わりに肌を許していたのだ。
そうしなければドロテアは贅沢を出来ないから。
貴族の子息達は相手をすれば、ドロテアに装飾品やドレス、金を気前よく与えてくれる。
家にいても贅沢は出来ないので、そうしてホテルに泊まったり男性の家に泊まったりして、ドロテアはあちこちを転々として生活してきた。
貴族の、それも伯爵家の令嬢なのに貧しい暮らしや装いなんて恥ずかしい。
「だが、どうして教えてくれなかったんだ?」
……面倒臭い男ね。
「話さなくてごめんなさい。もしそんな噂があると知ったら、ハロルドの気持ちが離れてしまうと思ったのよ」
ドロテアが涙をこぼせば、ハロルドは簡単に信じてドロテアを慰めるために抱き締めた。
「すまない、結婚するならドロテアとしたかった。でも兄上は君の噂を信じていて、ミスタリアとの婚約を破棄してからは父上も厳しくて、このままじゃあ俺は領地に連れ戻されてしまう」
だから元婚約者ともう一度、婚約を結び直すしかないんだとハロルドは言う。
そうすれば全て元通りになる。
元婚約者と結婚するが、自分の心はドロテアのものだと言われて、ドロテアは内心で嗤った。
それはつまり、ドロテアにずっと浮気相手でいろということだった。
ブランドリー伯爵家の娘に、爵位が下の子爵家の娘よりも下の妾でいろと?
正妻にすらなれない上に金もないなら、この男と付き合う意味などない。
「わたくしはハロルドが幸せならそれでいいの」
だからハロルドを元婚約者に返すことにした。
貴族のご令嬢達の話によるとハロルドの元婚約者のミスタリア=リルファーデ子爵令嬢は王城で働いているらしい。
しかも宮廷魔法士団・紫水の下で。
貴族が多いため見目の良い者が多く、才能もあり、地位もあり、金もある。優良な結婚相手ばかりの場所だ。
……わたくしにこの男を押し付けておいて。
それだけでも面白くないのに、リルファーデ子爵令嬢は紫水の魔法士達に非常に気に入られているというのだから腹立たしい。
婚約者に捨てられて泣き暮らしているだろうと思ったのに、まさか、ハロルドよりも良い結婚相手を見つけられる場所にいるなんて。
以前遊び相手を何人か紹介してやったご令嬢達を焚きつけたが、リルファーデ子爵令嬢を力や権力でどうこうすることは出来なかった。
……仕方ないわね。
「長く婚約してたのですから、きっとリルファーデ子爵令嬢に復縁したいと言えばすぐに頷いてくれるはずですわ。だってハロルド様は素敵な方ですもの。婚約者に捨てられた女と言われて、リルファーデ子爵令嬢は結婚相手に困っているはずですわ」
ハロルドにそう囁いて、彼女に会うように仕向けたが、どうにも機会がない。
そもそもハロルドは王城勤務と言っても外壁などの監視といったものが多く、リルファーデ子爵令嬢の行動範囲と仕事場所がまず重ならない。
しかもハロルドが紫水の区画に近付くと、紫水の魔法士に「部外者は入れられない」と追い払われるらしい。
多分、紫水の魔法士達はハロルドとリルファーデ子爵令嬢の婚約破棄を知っているのだろう。
ハロルドは元婚約者に全く近付けなかった。
そうして時間だけが過ぎ、いつの間にかリルファーデ子爵令嬢はリュディガー公爵家の次男アルフリード=リュディガーと近しい関係になっていた。
……なんであんな不細工が氷の貴公子様と?
妬ましい、とドロテアは思った。
あんな地味で痩せていて女性らしさの欠片もない女よりも、自分の方がずっと美しくて、女性としても魅力的だし、横に並んでも釣り合うだろう。
リュディガー公爵子息とリルファーデ子爵令嬢がかなり親しげにしていること、一緒に買い物に出かけたりしていることなどを聞いて、苛立ちが募る。
リュディガー公爵家で夜会が行われると聞き、遊び相手の一人に頼んで招待状を手に入れてもらった。
……そうよ、ハロルドがリルファーデ子爵令嬢と復縁したらリュディガー様の隣は空くわ。
リュディガー公爵子息は一度婚約を解消している。
リルファーデ子爵令嬢と婚約しようと考えているらしいが、また相手に捨てられれば、リュディガー様はかなり落ち込むに違いない。
……そこで優しく慰めれば、もしかしたら……。
リルファーデ子爵令嬢のいる場所に自分がとって代われるかもしれない。
リュディガー公爵子息は次男で公爵夫人にはなれないが、それでも、公爵家の者の妻というのはなかなかに魅力的である。
それにリュディガー公爵子息は見目も良く、宮廷魔法士団・紫水の副士団長という地位だ。
女性に見向きもしないという話も聞くけれど、美しいドロテアが優しく慰め、相手をすれば落ちない男はいない。
そうしてあまり目立ち過ぎない装いをして、ハロルドと共に、他人名義で手に入れた招待状を持って夜会に出席し、ハロルドはすぐに庭園へ隠れた。
ハロルドはリルファーデ子爵令嬢が自分の提案を受け入れると思っている。
……本当に馬鹿な男だわ。
公爵子息と伯爵子息、どちらを選ぶかなんて考えるまでもない。
しかも一度自分と婚約を破棄した男とまた婚約しようなんて、まず、思わない。
しかし、たとえば新しい相手と婚約出来ない理由があったら?
暗がりで男と二人きりでいるような女だと公爵家に思われれば、人々に噂されれば、婚約など続けられないだろう。
何ならドロテアがリュディガー公爵子息と一夜を過ごしてしまえば、それを理由に責任を取るよう、ブランドリー伯爵家が申し出ればいい。
たとえドロテアの噂を知っていたとしても、貴族の子息令嬢が婚姻前に関係を持ったと公になれば公爵家も体面を気にしてドロテアを受け入れるかもしれない。
ドロテアが純潔を失っていても、それはリュディガー公爵子息との行為で失われたのだと主張することが出来る。
噂と、実際に人々が見たことなら、後者の方が信憑性がある。
たとえ婚約発表をした後だろうと構わなかった。
どうせすぐ、破棄か解消になるのだから。
リュディガー公爵子息に取り入ることが出来なくても、リルファーデ子爵令嬢が不幸せになってくれればいい。
自分よりも地味で魅力のない女が、自分が奪った男より更に良い男と婚約するのがドロテアは気に入らなかった。
それに面倒な男を返すことも出来る。
リルファーデ子爵令嬢が外に出て行くのを見て、扇子越しに笑みがこぼれる。
少し経ったら頃合いを見て、人々をテラスに誘導すれば、夜会の招待客やリュディガー公爵家の人々は暗がりに二人きりでいるハロルドとリルファーデ子爵令嬢を目にするだろう。
その後、リュディガー公爵子息が会場を歩いて誰かを探しているのを見つけ、ドロテアは近付いた。
「ご機嫌よう、リュディガー様」
声をかけ、振り向いたリュディガー公爵子息の顔を見てドロテアはほうっと感嘆の息を漏らした。
……近くで見るともっと素敵。
「……何でしょうか」
淡々としているが、落ち着いた艶のある声だ。
「申し訳ございません。もしやリルファーデ子爵令嬢をお探しなのかと思い、お声をかけさせていただきました」
「彼女がどこにいるかご存知なのですか」
「ええ、その……」
チラ、とテラスへ続く扉を見る。
頬に手を当てて、困ったように言葉を濁す。
少し小首を傾げて最も美しく見える角度でリュディガー公爵子息を見上げた。
「先ほど、男性と一緒に腕を組んで、楽しそうにテラスへ出て行かれました。でも、リルファーデ子爵令嬢はリュディガー様と今日、婚約発表したばかりですのに……」
そっとリュディガー公爵子息の腕に触れる。
「大丈夫ですか?」と心底心配した声を作る。
そうして緩く胸を押しつける。
……これで落ちなかった男はいないわ。
だから、次に起こったことが理解出来なかった。
「触るな」
バシリと衝撃が走り、気付けば床に座り込んでいた。
「……え?」
わけが分からず見上げた先で、リュディガー公爵子息の青い瞳が冷たくドロテアを見下ろしている。
すぐに踵を返してリュディガー公爵子息が離れて行く。
しかもドロテアが触れた場所を、まるで汚れてしまったとでも言いたげにもう片手で払いながら。
それをドロテアは床に座り込んだまま、呆然と見送っていたが、周囲がそんなドロテアを見てヒソヒソと話す声に我へ返る。
慌てて立ち上がろうとしたが、それよりも先に声がした。
「あら、大丈夫かしら?」
その声にギクリとする。
振り返れば、そこにはリュディガー公爵夫妻が立っており、長男夫妻も横にいる。
ドロテアは慌てて立ち上がり、礼を執った。
「申し訳ございません、お見苦しいところをお見せいたしました……!」
公爵夫人がドロテアをまじまじと見る。
ドロテアは出来る限り夜会に不慣れで、失態を犯して恥ずかしそうにしている令嬢を演じた。
「床に倒れるなんて、どうされたの?」
公爵夫人の心配する声に内心でほくそ笑む。
「それが……、リュディガー様、いえ、アルフリード様にご婚約の祝福をさせていただこうとお声をかけたのですが、突然突き飛ばされてしまって……」
涙を見せまいと顔を俯かせる。
少しだけ体を震わせれば憐れに見えるだろう。
「まあっ」と公爵夫人が驚きの声を上げる。
……そうよ、貴族の子息が令嬢を突き飛ばしたのよ。許されないことだわ。
きっと、公爵夫人が代わりに謝罪の言葉をかけてくださるはず──……
「婚約を祝福する時に相手の男性に胸を押しつけて祝うなんて私知らなかったわ」
え、と声が漏れる。
公爵夫人が公爵様に「あなた知っていて?」と問う。
公爵様が首を振って、冷たい目でこちらを見る。
「まさか。婚約者でもない女性が突然胸を押しつけてきたら、気持ち悪くて私でも振り払ってしまうだろうな」
……嘘、見られてた?
会場の隅に、人目につき難い場所にいたのに。
……そういえば何故公爵夫妻はすぐにわたくしの様子に気付いたの?
背筋をヒヤリとしたものが走る。
「そういえば……」
公爵様が訝しげに眉を寄せた。
「あなたはどちらの家のご令嬢だ? 我が家が招待状を送った家に、あなたのようなご令嬢がいるとは知らなかった」
「確かに見覚えのない方だわ。やだ、私としたことが招待した方の顔を忘れてしまったのかしら? ごめんなさいね。あなたのお名前は何とおっしゃるの?」
視線が集中する。
ドロテアは名乗ることが出来なかった。
ここで偽名を使えば招待状を不正に手に入れて潜り込んだことは即座にばれてしまうだろう。
招かれてもいないのに出席するのはマナー違反だ。
それに名前を借りた相手からも、それがばれたとなれば責められる。
しかし本名を名乗れば招待されていないのに来たことが即座に知れ渡ってしまう。
「も、申し訳ございません……。わたくし、その、騒ぎを起こすつもりはなかったのです……」
ぽろぽろと泣いて見せる。
ドロテアは自分の容姿をよく理解していた。
泣きながら震えるドロテアは美しく、それでいて憐れで、か弱そうに見える。
……泣いてごまかせれば……。
だが公爵様が溜め息を吐いた。
「どうやら招かれざる客が紛れ込んだらしい」
公爵様が手を振ると、どこからともなく給仕のメイド達がやって来て、ドロテアを両側から掴んだ。
「え、は、離して……!」
しかし振り払おうとしても払えない。
メイド達にがっちり両腕を掴まれて、引きずられて出口へ向かわされる。
ドロテアがいくら暴れてもメイド達は離してくれず、そのまま、廊下を通り、屋敷の玄関から外へ放り出された。
執事か家令らしき人物がやって来る。
「旦那様と奥様より言伝でございます。『ドロテア=ブランドリー伯爵令嬢は二度と我が家の催しに来なくて良い』とのことです。それでは、お気をつけてお帰りください」
容赦なくメイドに突き飛ばされてドロテアが地面に座り込んだが、その背後で玄関が大きな音を立てて閉められる。
「……そんな……」
呆然と座り込んだまま、呟く。
名乗っていないのに誰か気付かれていた。
今日は化粧もドレスも普段と違うから、親しい者でなければそうすぐには分からないと思っていたのに。
公爵家の催しに出られなくなる。
それは貴族の令嬢にとっては醜聞と同じだ。
リュディガー公爵家から反感を買いたくない家は、ドロテアと関わりたくないと距離を置くだろう。
最悪、家の問題になるかもしれない。
問題のある貴族の令嬢は修道院へ追いやられる。
これまでブランドリー伯爵家はドロテアの行動に口出ししてくることはなかったが、公爵家と問題を起こしたとなれば動かざるを得ない。
修道院に送られなくても、今後、ドロテアの相手をしてくれる者はいなくなる。
そうなったら、どうやって生きていけばいいのだろうか。
足元が崩れていくような気がする。
手を出してはいけなかったのだと気付くには、何もかもがもう、遅かった。




