ミスタリア=リルファーデ
わたし、ミスタリア=リルファーデは十八年前、リルファーデ子爵家に生まれた。
堅実で真面目な父と、穏やかで優しい母。
家族のように温かく慈しんでくれる使用人や領民達。
元より領民を第一に考えている父の方針で、基本的に裕福とは少し言えない暮らしだったけれど、物凄く貧乏でもなく、穏やかに静かに暮らす分には不自由しない程度の家だった。
わたしは赤ん坊の頃から強かったらしく、興奮するとよく身体強化でオモチャを壊してしまうような子だったという。
それでも父も母も使用人達もわたしを愛してくれたのだろう。
弟が生まれても愛情は変わらなかったと思う。
とにかく、わたしは静かにしていられない子で、使用人達も母も大分大変だったはずだ。
思えば、幼少期から少しずつ前世の記憶が戻っていって、弟に比べたらずっと成長が早かった気がする。
弟のことも「前は一人っ子だったから嬉しい」と感じていたし、それを口に出しても、家族も使用人も弟が生まれる前のことだと勘違いしてくれていたのでわたしが変に思われることもなかった。
子供のわたしは毎日駆け回っていた。
まだ上手く魔力が扱えなくて、わたしは屋敷に閉じこもっているとイライラして物を壊してしまったり、暴れることもあって、両親はそれならばと外で遊ぶことを許してくれた。
外へ出るようになるとわたしが物を壊すことは少しずつ減っていった。
すぐにはなくならなかったけれど、他の子供達と一緒に遊ぶことで恐らくストレスが発散出来て、人と接する中で力加減というものを覚えていったのだ。
たまに街の子供達に小さな怪我を負わせてしまうこともあったけれど、子供達が遊ぶ中でのちょっとした怪我は全く気にしなかったことも幸いした。
そうして力加減を覚えて、前世の記憶が少しずつ戻ってきたわたしは、屋敷の使用人達や街の人々の仕事に興味を持って、手伝うようになる。
最初は両親は少し渋い顔をしたが最終的には許してくれた。
前世の記憶と言っても日常のふとした時に違和感を覚えたり、他愛もないことを思い出したり、その程度だった。
わたしはたまに変わったことを言っていたかもしれないが、みんなは子供のことだからと気にしなかったのかもしれない。
イルンストン伯爵子息とは五歳からの付き合いだ。
領地が隣同士で、結構頻繁に子供同士で行き来していたのだけれど、わたしはどちらの領地でもかなり活発に遊んでいたし、身体強化を使って騎士達相手に木剣を振り回していた。
イルンストン伯爵子息はそんなわたしを見ていたので、きっと女の子として見ること自体が出来なかったのだと思う。
十二歳で彼と婚約するまでのわたしは男の子顔負けのやんちゃな子供だった。
山にも分け入るし、領民達と農作業もして、子供達と朝から晩まで駆け回る日もあれば、使用人達にくっついて家中を掃除して過ごし、時間があると騎士達に混じって木剣を振ったり体を動かした。
十歳から貴族としての教育も受けていたが、わたしは覚えることは出来たものの、実践するのは苦手であった。
刺繍も人並みだし、詩を作るのはお世辞にも上手くないし、礼儀作法は何度も繰り返して癖にさせた。
同じく十歳で勉強を始めたイシルディンの方が物覚えも良くて、何事も大抵弟の方が上手く出来た。
わたしはそれを悔しいとは感じなかった。
むしろ、わたしの弟は天才なのではと思ったくらいで、そこで弟を嫌いにならなかった自分を褒めてやりたいほどだ。
婚約後はそれまで駆け回っていたのをやめて、毎日貴族の礼儀作法や淑女教育を受けて、たまにイルンストン伯爵子息と一緒に騎士達に混じって木剣を振るっていた。
全く体を動かさないとわたしのストレスが溜まるから、騎士達との手合わせだけは許してもらった。
婚約後もイルンストン伯爵子息との仲が特に進展もなく、きっと、あの頃には嫌われていたのだろう。
婚約から二年の間にわたしは前世を全て思い出したが、だからと言って何かが変わったわけでもなく、毎日穏やかに過ぎていった。
しかしわたしが十四歳の時に領地が大不作に見舞われた。
当時は国全体で不作の領地が多かったらしい。
しかも最悪なことに流行病まで広がって、領民の救済に奔走していた父と母、そしてまだ幼い弟もその病にかかってしまったのだ。
病に効く薬を作るには、山の奥深くの谷に自生する薬草が必要で、わたしは使用人達の反対を振り切って飛び出した。
今思えば無謀なことだった。
十四歳の子供がたった一人で獣や魔獣がいるかもしれない森の奥に行くだなんて。
それでもわたしは騎士達の練習用の剣を持って、身体強化を使って一人で山に分け入った。
多分、無我夢中だったのだろう。
山に分け入ってから屋敷に戻るまでのことはよく覚えていない。
使用人の話では、わたしは飛び出して行ってから二日後の夕方に、ボロボロで戻って来たのだそうだ。
持っていった袋に目一杯、薬草を詰めて。
それは父や母、弟の分の薬を作っても余るほどで、丁度イルンストン伯爵家から婚約者が病にかかったのだが薬はないだろうかと手紙が届いており、それで婚約者の彼の分の薬も送ることが出来た。
余った薬はさほど多くなかったらしいが、それでも、その残った薬で何人かの領民が助かったらしい。
だが残念なことに父と母は重症で、薬を飲んでも回復せず、助からなかった。
魔法がある世界だけれど、治癒魔法は怪我にのみ効くもので、病気や生まれつきの障害には効かない。
イシルディンと婚約者は幸い助かったものの、わたし達は両親と多くの領民を失った。
すぐに駆けつけて両親の代わりに領地の経営を手助けしてくれていた叔父と弟が、両親の棺に縋って泣いていた姿をよく覚えている。
わたしは葬式では泣かなかった。
両親を失った実感が湧かなかったのもあった。
叔父へ子爵代行を頼んだり、婚約者の見舞いに行ったり、屋敷にいては塞ぎ込んだままの弟を無理やり連れ出して王都のタウンハウスへ居を移したり。
王都の暮らしに何とか慣れようとしつつ、悲しみから抜け出せない弟に苦戦し、やっと弟が両親を喪った悲しみと向き合って受け入れられた頃には気付けば三年が経ってしまっていた。
両親を喪ってわたしも酷く悲しいはずなのに、涙は出ない。
悲しむタイミングを逃してしまったのかもしれない。
そして、婚約者から婚約を破棄された。
わたしと彼との婚約には色々と条件があったのだと知ったのはつい最近のことだ。
それも、もう、わたしには関係のない話になってしまったが。
アルフリード様に贈ってもらったドレスから、乗馬服に着替える。アルフリード様が子供の頃に着ていたものだそうで、袖や裾が少し余ったので折り返したが、きっと成長が早かったのだなと想像がつく。
……ある意味ではこれで良かったのかも。
元婚約者と結婚してもお互い幸せにはなれなかっただろうし、結婚後もギスギスした関係で、長続きはしなかっただろう。
彼にも心から愛する人が出来たのだし、わたしにも今はアルフリード様がいて、結果的にお互い想い合う相手と結婚出来る。
イルンストン伯爵家に痛手があるのは少し申し訳ないけれど、選んだのは元婚約者だ。
「まあ、よくお似合いです」
髪も後頭部の高い位置で一つに括る。
身支度を手伝ってくれた公爵家のメイドさんが褒めてくれて嬉しかった。
「ありがとうございます」
その場で試しに膝を曲げたり伸ばしたり、腕を振ってみたりしたが、特にどこかがきついとか、動き難いということもない。
……これなら問題ないね!
部屋の外に出ると待っていたアルフリード様が、壁から背を離してわたしを見た。
「……懐かしい服ですね」
それに頷き返す。
「アルフリード様の子供の時の乗馬服だそうです」
「なるほど。……そういう服装のあなたも素敵ですね。思っていた以上に凛々しくて、格好良い」
「ありがとうございます! 見かけ倒しにならないように、頑張りますね!」
メイドさんに案内されて、アルフリード様と一緒に訓練場へ向かうことになった。
* * * * *
弟の婚約者が懐かしい服を着て訓練場へ来た。
あれは弟の昔の乗馬服だったはずだ。
それでも少し大きいようで袖や裾が折り返されていたが、髪を一つに束ね、動きやすい格好をした弟の婚約者は意外とそれが似合っている。
今回は話題の人である彼女の腕を確認するのと同時に、彼女がどれほど強いのかを知りたかった。
それに身体強化をどの程度扱えるのかも。
もしも本当に、とても強いとしたら、それは公爵家にとっても王家にとっても、そしてアルフリードにとっても良いことである。
弟がその身に宿す呪いは、時にアルフリードの望まない結果を生んでしまうこともある。
特に気が高ぶったり、あまりに感情が強くなったりした際に、アルフリードはドラゴンの呪いのせいで、人並み外れた力が現れる。
今は本人が己の感情を抑えているが、婚約者が出来てからは以前よりも感情の揺れが大きくなった。
いずれ、呪いについて説明することになる。
しかし、もしかしたら予期せぬことでそれが現れてしまうかもしれない。
そうなった時、たとえば彼女が身体強化である程度自分の身を守れる人であれば、アルフリードも彼女も傷付かずに済むだろう。
……それに興味もある。
騎士をあっという間に三人も叩き伏せた実力も見てみたい。
弟の婚約者は何やら軽く体を動かしている。
「本当にやるのですか?」
アルフリードが婚約者に問う。
彼女は明るい笑顔で頷いた。
「やりますよ! 大丈夫です、わたしに怪我させられる人にはこれまで会ったことがありませんから!」
……先ほどの言葉は事実なのだろうか。
馬車に轢かれても怪我を負わなかったという話。
あれが本当であれば彼女はとてつもなく頑丈で、そして国でも有数の身体強化使いと言えるだろう。
こちらが木剣を握ると弟の婚約者が振り返る。
「よろしくお願いします!」
貴族のご令嬢にしては元気が良くて、騎士であれば好感の持てるハキハキとした明るさだ。
彼女も手には木剣を持っている。
「こちらこそ」
それぞれ訓練場の中央に出て、そこで互いに向かい合い、構える。
弟の婚約者から感じる魔力が小さくなる。
恐らく身体強化を使用し始めたのだ。
構え方は基本の型の一つだった。
父が進み出て、両者の準備が整ったことを確認すると静かに手を上げた。
「──……始めっ!!」
その手が振り下ろされた瞬間、彼女が走り出す。
──……早い!!
走るというより、もはや跳躍に近い。
そこそこ距離があったはずなのに、小柄な彼女が僅かに三度、足をつけただけでもう目の前に迫る。
下から振り上げられた木剣を防ぐ。
カァーンと気持ち良いほどの音がした。
その細い腕が振り上げたそれは思ったよりも勢いがある。
その場で一拍、せめぎ合う。
こちらが勢いをつけて弾けば、あっさり引いた。
「今のが本気ですか?」
そう問えば、彼女が首を振る。
しかし目はこちらを見据えたままだ。
「いいえ、これから段階的に上げていきます!」
答えた彼女は嬉しそうだ。
「一気に上げてくれても構わないですよ」
彼女の実力が見たいのだ。
それに彼女がキョトンとし、そして笑った。
「分かりました! 巻いていきます!」
そして、今度は駆け出した。
真っ直ぐ向かってくるところに性格が透けて見える。
真っ向から振られる剣に構え、受け止める。
ガツンと先ほどよりもずっと強い衝撃が腕に伝わり、僅かに腕が押された。
それが二度、三度と襲いかかってくる。
これは受け止め続けるべきではない。
左右へ受け流すが、驚くべきことには、鍛練を積んだ騎士並みの威力を小柄な彼女が片手で繰り出している。
彼女の型はどれも基本的なものばかりだ。
だが、まるで線の上をなぞるように正確なのだ。
この動きは一朝一夕で身につくものではない。
きっと、子供の頃から木剣を握っていたのだろう。
剣を振るいながらもその目が真っ直ぐにこちらを射抜き、片時も視線が逸らされない。
……なるほど、これはなかなかだ。
試しに深く踏み込み、突きを繰り出せば、彼女は後ろへ倒れ込むようにそれをギリギリで躱した。
しかもそれで後ろへ体勢を崩して倒れることがなく、流れるようにそのまま地面へ手をついて、くるりと回って距離を取る。かなり身軽だ。
「もう一段上げてもいいですか?!」
おまけにまだ本気ではないと言う。
……面白い。
「好きなだけ上げて来なさい」
木剣を上段に構えればニコリと彼女が笑う。
そして跳躍した。
……速さも上がった!
考えるよりも先に体が反応する。
振り下ろされた木剣と、構えた木剣がぶつかり、高く大きな音を立てる。
ビリビリと腕が痺れるような感覚があった。
自分よりも大柄な人物を相手にしているようだ。
何度もそれを受け流し、たまにこちらも反撃するが、剣の実力はそれほど高くはない。
とにかく威力があり、剣を振るう持久力もある。
何より驚いたのは身体強化の使い方だ。
普通は体力の底上げや能力の向上に使われることが多い身体強化だが、彼女の場合、それだけでなく、文字通り頑丈さも備わっているのだ。
木剣を当てても金属を打ったように硬い。
そして全く痛がる様子がない。
攻撃をしても一切通じていない様子だった。
あの騎士達が一瞬で叩きのめされた理由が分かる。
貴族の坊ちゃん騎士達では歯が立たないだろう。
それどころか並みの騎士でも、相手をするのは難しいかもしれない。
……まさしくミスリルという愛称が相応しい。
硬く、強靭で、魔法がよく馴染むミスリル鉱そのものだ。
そんなことを考えていると、彼女が唐突に飛び退き、片手から両手に木剣を持ち直す。
「全力で行きます!」
その構えに、こちらも木剣を握り直す。
「来なさい」
そして、風が吹いた。
とっさに体が動く。無意識だった。
本能が受けるなと警告を上げた。
同時にドゴォッ、バキィッと二つの音が響き渡る。
左に避けたため、彼女の木剣は目標を失って、アーノルドを通り過ぎて地面に叩きつけられた。
「……うそ……」
母の呟きが酷く大きく聞こえた。
彼女の振り下ろした木剣は折れ、そして、地面がまるで重たい物が落ちてきたかのようにヘコんでいた。
……受けていたら木剣が折れる程度では済まなかったかもしれない。
それだけの強さで振り下ろした腕は微塵も動かない。
シンと静まり返った中で、弟の婚約者がパッと体を起こす。
「すみません、木剣を折ってしまいました!」
「ごめんなさい!」と頭を下げられて空気が一気に緩む。
それに何とか「いえ、それは大丈夫ですよ」と返したが、自分の目を疑ってしまう。
木剣でこれほど地面を抉るなんて普通は無理だ。
「久しぶりに全力を出したんですけど、勢いがつきすぎてしまって上手く振れませんでした……」
恥ずかしそうに首の後ろに手を当てている。
「……君は全力を出さない方がいいでしょう。出来れば、最初に打ち合ったくらいに抑えた方が良いと思います」
「そうですね、わたしもそう思います! 全力を出したら何でもかんでも壊してしまいそうですし」
物を壊す以前に、人を殺しかねない。
「それにしても、さすがです! わたし、こんなに長く打ち合えたのは初めてで、凄く嬉しいです! 感動しました!! 今日はありがとうございます!!」
これほどの力ならば、確かに、長く打ち合える者はいないだろう。
ほとんどは最初の一撃で終わる。
木剣が折れたために勝敗はつかなかったが、アーノルドは自分の負けだと感じたのだった。
* * * * *