休日
今日は一日お休みだ。
仕事がないので、朝に急いで身支度をする必要もなく、持ち込んだ普段着のドレスを着て、食堂でしっかり朝食を食べてから王城を出る。
身分証兼通行証のペンダントも忘れない。
これがないと王城を出入り出来ないのだ。
王城を出て、今日は歩いて家へ向かう。
これと言って荷物もないし、久しぶりのお休みなので街を見ながらゆっくり家へ帰るのも悪くない。
数日前に家には一度顔を見せに戻ると手紙も送っている。
街並みを見ながら家へと到着し、扉をノッカーで叩く。
すると、すぐに扉が開かれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
二週間半ぶりのアニーが笑顔で出迎えてくれた。
「ただいま、アニー!」
広げられた両手に思わず抱き着いてしまう。
アニーとこんなに離れたのは久しぶりのことだったから、余計にその温もりが懐かしく感じられた。
横からひょいとヴァンスも現れる。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま! ヴァンスもアニーも元気そうで良かった! イシルは今日はいる?」
「ええ、お嬢様がお帰りになるのを今か今かとお待ちになっております」
「ああ、そうでした。中へどうぞ」とアニーが退いて、タウンハウスの中へ入る。
貴族のタウンハウスにしては小さくて、部屋の数もそんなに多くなくて、アニーとヴァンスも一緒に暮らしている、わたしの大好きな家だ。
中を見回せば、綺麗に保たれていて、それにホッとする。
アニーはもうすぐ五十歳になる。
一人で家事を一手に引き受けるのは大変だろうに、こうしてきちんと整えてくれていることが嬉しい反面、申し訳なく思う。
「アニー、ごめんなさい。わたしが家にいればあなたの仕事を増やさずに済んだのに」
しかしアニーはにっこりと笑った。
「何をおっしゃいますか。このアニー、まだまだ元気ですからね。このお屋敷くらいの広さならどうということはありませんよ。それに困ったらヴァンスさんに手伝っていただきますからね」
「アニーは年寄り使いの荒い人なんですよ、全く」
「あら、わたしと二つしか歳が違わないのに年寄りだなんてやめてくださいな!」
アニーの言葉にヴァンスが肩を竦めて見せて、それを横からアニーがバシリと叩く。
いつもと変わらない二人にクスッと笑ってしまう。
「二人が頑張っているなら、わたしももっと頑張らないとね」
それに二人が振り返った。
「お嬢様はもう十分頑張っておりますよ」
「そうですとも! お嬢様がこれ以上ご無理をされたら、坊っちゃまが悲しみますよ!」
ヴァンスとアニーの言葉に苦笑する。
この二人はわたし達姉弟に昔から甘いのだ。
二人について行き、居間へ向かう。
ヴァンスが扉を叩くとすぐに中から「どうぞ」と声がして、扉が開けられる。
ソファーに座っていたイシルディンが立ち上がって出迎えてくれた。
「お帰りなさい、姉上」
「ただいま、イシル」
軽く抱擁して喜びを分かち合う。
「わたしがいない間、問題が起きたりしなかった?」
わたしの問いにイシルディンが頷く。
「大丈夫、何事もなかったよ」
たった二週間半ほどしか離れていないはずなのに、なんだか、すっかり弟が成長してしまったような気分になった。
王城に引っ越したあの日は寂しそうな顔をしていたイシルディンだったが、この二週間半で姉のいない生活に慣れたのかもしれない。
かく言うわたしも、最初の数日は寂しかったけれど、職場も仕事も楽しくて寂しさはどこかへ飛んでいってしまったので、そういうところはお互いに似ているのだろう。
促されてソファーへ腰掛ける。
「姉上の方はどう? 仕事、大変でしょ? 無理してない? 姉上が一人で生活してるのが心配だよ」
アニーが紅茶を淹れてくれる。
それにお礼を言って一口飲んだ。
……うん、美味しい。
わたし好みの濃い目に淹れられた紅茶に心が和む。
「無理はしてないよ。紫水の皆さんは優しいし、気さくで話しやすいし、仕事も思ったほど大変じゃなくて毎日楽しいし。一人暮らしって言っても使用人棟には他にも暮らしてる人が沢山いて、服の洗濯もしてもらえるし、食事も三食きちんと食べられるから大丈夫よ」
「そっか、良かった」
ホッとした顔のイシルディンが可愛い。
家族に心配してもらえるのは嬉しい。
「そうだ、叔父さんとイルンストン伯爵から姉上宛てに手紙が届いてるよ」
イシルディンの言葉に一度部屋を出て、戻ってきていたヴァンスが手紙とペーパーナイフを渡してくれる。
それを受け取り、まずは叔父様からの手紙の封を切る。
中身の便箋を取り出して目を通す。
内容は、ハロルド=イルンストン伯爵令息との婚約の破棄を承認したこと、イルンストン伯爵家と婚約破棄についてこれから話し合うこと、当然向こうの有責になること、それによりいくつかイルンストン伯爵家との取り決めを見直すことなどが書かれていた。
この婚約の破棄に伴い、伯爵家とのいくつかの取引が見直され、結果的に今後の領地での経営にいくらか余裕が出来るそうだ。
こちらにも今後は領地の経営に困らない程度に送金出来るという。
わたしのお給金も合わせて慎ましやかに暮らしていけば何とかなりそうだ。
イシルディンの成人までに多少は貯金したい。
わたしの場合はどうでも良かったが、嫡男であるイシルディンが成人した時はきちんとした装いで社交界デビューさせてあげたいし、次期当主として人付き合いの中で何かと要り用になるだろうから。
「叔父さん、何だって?」
イシルディンに手紙を渡す。
「ハロルドとの婚約は無事破棄されたみたい」
「婚約破棄に無事って言うのも変だけど、結婚する前で本当に良かったね。婚約者のいる身で平然と浮気するようなのが義兄になっていたかと思うとゾッとするよ」
わたしの婚約破棄の件でイシルディンはハロルド=イルンストン伯爵子息を嫌いになってしまったようだ。
イシルディンが手紙を読んでいる間にもう一通の手紙の封を開ける。
そうして便箋を取り出して中を見た。
内容はほぼ謝罪に尽きていた。
自分の次男の非礼を詫びて、婚約破棄を行うがイルンストン伯爵家の有責であることを明確にした上で、リルファーデ子爵家との取引についてもこちらの言う通りにするというものだった。
「……もうおじ様とは呼べないのは残念ね」
イルンストン伯爵はわたし達姉弟に優しかった。
三年前、両親が亡くなった時もすぐに駆けつけてくれて、金銭的な援助も快くしてくれて、幼い頃から非常に可愛がってくれた。
お義父様と呼ばれる日が楽しみだとよく言ってくれたし、わたしも同じように思っていた。
でも、もうそんな日は二度と訪れない。
「そうだね、あいつのことは腹が立つけど、イルンストン伯爵は昔から僕達に良くしてくれたから、正直に言うと僕もそれは悲しい」
イシルディンも少し肩を落としていた。
その肩を抱き寄せる。
「仕方ないわ。でもイルンストン伯爵がわたし達に良くしてくれたことを忘れちゃダメ。それに隣の領地なんだから、あの人のことはわたしもちょっとどうかと思うけど、これからもいざという時には助け合わないとね」
イシルディンが苦い顔をする。
「姉上はお人好し過ぎるよ」
「そうかな? まあ、今回の件はなるべくしてなったって感じだし。イルンストン伯爵子息はわたしのこと嫌いだったのは知ってたから」
……わたしは嫌いではなかったけれど。
だけど彼のことが好きというほどでもなかった。
イルンストン伯爵は好きだったし、彼のお兄さんも優しくて良い人だったが、彼自身はわたしと一緒にいるのを嫌がっていた。
互いに頻繁に行き来していたのだけれど、彼はいつも、騎士に剣を教えてもらっていて、わたしが一緒になって木剣を振るうと眉を顰めていた。
何度か剣を交えたこともあったが、身体強化をしたわたしに彼は勝てなくて、途中で「ミスタリアとはもう練習したくない」と言われてしまった。
子供の頃のわたしは身体強化を上手く扱えなくて、剣の練習はその一環でもあった。
今思えば、彼の男性としてのプライドをズタズタにしていたんだと分かる。
昨日の騎士達とのやり取りでそれに気付いた。
歳下の自分よりも小さなご令嬢に剣で負ける。
きっと、子供心にとても傷付いただろう。
わたしはそれに全く気付かないで、何度も彼に剣で戦おうとせがんで、彼を打ち負かしたのだ。
……そのおかげで身体強化をきちんと使えるようになったんだっけ。
身体強化を扱えるようになった代わりに婚約者の心を傷付け、婚約破棄になるなんて皮肉なものである。
「後で部屋を使ってもいい? 叔父様とイルンストン伯爵に返事を書かないと」
わたしの言葉にアニーが頷いた。
「お嬢様の部屋はそのままにしておりますから、いつでもお使いいただけますよ」
「ありがとう、アニー」
イルンストン伯爵からの手紙もイシルディンへ渡し、紅茶を飲む。
ついでにお茶菓子のクッキーを一枚食べる。
……アニーの作るお菓子はやっぱり美味しい!
紅茶を飲みながら二枚三枚と手が進んでしまう。
「姉上は結婚しないつもり?」
イシルディンに訊かれて考える。
「うーん、今は考えてないかなあ」
仕事楽しいし、王城の食事も美味しいし、これと言って結婚する必要性を感じない。
結婚して家に入れと言われるよりも働いていた方がわたしの性に合う。
「魔法士団って結婚相手に良さそうな人が沢山いるんでしょ? いいなって思う人とかいないの?」
問われて、一瞬頭の片隅に青い瞳が浮かぶ。
……いやいや、ないない。
「んー、いないかなあ」
そもそもアルフリード様は公爵家の方だし。
こんなしがない子爵家と結婚してもメリットはなく、むしろデメリットの方が大きいだろう。
それにアルフリード様は凄く見た目がいいから、わたしみたいな地味なのが横にいても釣り合わない。
紫水の中では士団長様の次によく話す人だ。
大体無表情だけど、目で語るタイプなのだ。
目は口ほどに物を言うというやつである。
それに、目を細めて僅かに目尻を下げた、あの笑みというには色々足りてないアルフリード様の笑みはわりと嫌いではない。
普段の淡々としている姿は仕事が出来る男性という感じがするし、わたしが騒がしいので、ああいう人だとバランスが取れそうな気もする。
……って、何でアルフリード様について考えてるんだろう。
思わず首を振って考えを追い払う。
「姉上?」
イシルディンの不思議そうな声に笑う。
「何でもない。そのうち、いい人がいて、いい感じになって、結婚出来そうなら結婚するよ」
「適当だなあ」
呆れた顔でイシルディンが言うけれど、実際、そういう人がいて、親しくなって、お互いに結婚しても良いと思えなければ出来ないものだ。
イルンストン伯爵子息とのこともある。
……まあ、結婚は難しいかも。
貴族の令嬢にとって婚約破棄は醜聞だ。
たとえ相手が有責であっても、婚約破棄されるような女だと嗤われてしまう。
でもそれでもいいと思う。
そうやってわたしを陰で馬鹿にするような人とは結婚したくない。
それにイシルディンがいるから、わたしが無理に結婚する必要もない。
叔父様みたいに独身貴族を謳歌するのも、それはそれで面白そうだし、自由で楽しそうである。
「まあ、姉上がそれでいいなら僕も構わないけど。結婚しないのも悪くないと思うよ」
そう言って笑うイシルディンにアニーとヴァンスが頷いた。
「そうです、そうです。無理にご結婚なさらずとも、お嬢様が幸せならそれが一番ですよ!」
「ええ、お嬢様が幸せでなければ結婚する意味はありませんからね」
三人の言葉にわたしも笑う。
「今が一番幸せかも!」
彼と婚約していた時は貴族の令嬢として色々と我慢したり、気を遣ったりしていたが、今は自分のやりたい仕事を見つけて、良い職場と住む場所を見つけて、毎日充実している。
イシルディン達と離れたのは寂しいけれど。
同じくらい今の職場も好きになっている。
「それなら今のままでもいいんじゃない?」
イシルディンの軽い言葉が心強い。
自分の選択に後悔はないが、時々、振り返って不安になることもある。
だけど、こうしてわたしの幸せを願ってくれる人達がいるからこそ、自分らしく幸せになりたいと思うし、この人達の幸せを願いたいとも思う。
……婚約を破棄して良かった。
面接の時に口にした言葉は嘘ではなかった。
わたしは自分の力で自分の居場所を見つけられた。
紫水もわたしを必要としてくれる。
だからこれからも仕事を頑張りたい。
「そうだ、姉上の仕事について教えてよ」
イシルディンの言葉に「あー……」と頬を掻く。
「ごめんね、仕事内容についてはあんまり話せないの。ただ、お掃除をして回ってるってことくらいしか……。ほら、お仕事中に見たり聞いたりしたことをペラペラ話したらまずいでしょ? だから誓約書を取り交わしてるの」
「そうなんだ……」
弟の残念そうな顔にちょっと心が痛む。
「ねえ、わたしがいない間、イシル達はどうだった? 寂しくなかった?」
わたしが問えば、イシルディンが顔を上げた。
「寂しかったよ! 特にアニーなんて姉上の部屋に入ると寂しくなっちゃうからってなかなか掃除に入れなくて──……」
イシルディンの話を聞きながら思う。
やっぱり実家が一番である。
……休みの日は出来るだけ帰ってこよう。
わたしも大好きな家族の顔が見たいし、心配をかけたくない。
その日はイシルディンとアニーとヴァンス、わたしの四人で昼食を摂り、午後はイシルディンと目一杯お喋りをして過ごした。
王城への戻り際にアニーが手作りの焼きたてクッキーを包んで持たせてくれて、その温もりを感じながら戻る道は思ったよりもつらくなかった。
そうしてもらったクッキーは夜にこっそり食べた。
ナッツがたっぷり入ったわたしの好きな味だった。




