イルンストン伯爵家
* * * * *
パァン、と頬に衝撃を受けてよろける。
ハロルド=イルンストンは叩かれた頬を抑えて、呆然と、自分の頬を打った兄を見た。
やや歳の離れた兄、イルンストン伯爵家の嫡男・ヴァイス=イルンストンから向けられる冷たい視線にハロルドは思わず後退る。
王都にあるイルンストン伯爵家のタウンハウス。
その一室に呼び出されたハロルドは、兄と会うや否や、容赦なく頬を打たれたのだ。
「この大馬鹿者。お前は自分が何をしたのか分かっているのか? ……いや、分かっていたらこんなことはしないか」
視線と同じ冷たい声にビクリと肩が跳ねた。
ハロルドは兄が苦手だった。
嫡男として育ち、教育されてきたからか、兄はいつもハロルドのすることに口出しをしてきた。
父や母はハロルドの好きにさせてくれるのに。
兄はいつだってハロルドに厳しかった。
「何故叩かれたか理解していないみたいだな?」
そして兄はハロルドの思考をいつも見抜く。
頬を押さえたまま固まっているハロルドに、兄が苛立ったように舌打ちをこぼした。
そこまで腹を立てている兄は初めて見る。
兄はハロルドに口うるさく言って来ることは多かったが、このように、怒りや苛立ちを見せることはこれまでなかった。
いつだって物静かで落ち着いた兄だった。
「に、兄さん……」
何故兄がここまで怒っているのは分からず、しかし、何を言えば兄の怒りが落ち着くのかも分からない。
所在なげに兄を呼べば、冷たい目に見返される。
「全く、だからハロルドにも厳しく接するようにと進言していたのに。父上も母上も甘いからこうなるんだ」
ドサリと兄が乱暴な所作でソファーに座った。
ハロルドはどうして良いのか分からず、立ったまま、兄を見た。
さすがのハロルドでも、ここでソファーに座れるほどの勇気はなかった。
兄がはあ、と溜め息を吐く。
「まず、お前とミスリル、いや、リルファーデ嬢との間にあった婚約は当主同士が約束したものだった。これは家同士の契約と同等の約束だ。……それを個人の感情だけで破棄するなど、イルンストン伯爵家は家同士の約束さえ守れない、守らない、信用ならない家だと公言しているようなものだ」
怒りを抑えた兄の言葉にハロルドは返す。
「だけど正式なものじゃないだろ?」
「ああ、確かに書面で交わしたものではない。だが、関わりのある家にはお前の婚約者はリルファーデ嬢だと紹介していた」
「それは、そうだけど……」
確かに繋がりのある貴族達にはミスタリアをハロルドの婚約者として紹介してしまっている。
「でもまだ婚姻してないんだ。ミスタリアとの婚約はやめたと言えば済む話じゃないのか?」
はっ、と兄に鼻で笑われた。
「そうだな、そしてお前は『馬鹿な男だ』と笑われ、我が家は『馬鹿な男を生み出した家』と嘲笑われるだろうよ」
「そんなことない!!」
「何を根拠に否定する? そもそもお前はリルファーデ嬢に懇願して婚姻することは出来ても、浮気をした挙句に一方的に婚約を破棄出来る立場ではなかったんだぞ?」
「何を言ってるんだ、兄さん! 向こうはたかが子爵令嬢だし、あの女らしさの欠片もないミスタリアに伯爵家の俺が懇願するなんてありえないだろ!!」
ミスタリアの家は子爵家だ。
それも、イルンストン伯爵家に借金をして、支援してもらわなければ日々の生活にも困るような貧乏貴族である。
次男とは言えど伯爵家のハロルドが懇願してまで結婚するような相手ではない。
「だからお前は馬鹿なんだ」
兄にそう切り捨てられる。
「いいか、お前にも分かるように説明してやろう。お前は我が領地で最も取引されているものが何か知っているか?」
「武器や防具、装飾品だろ?」
「ああ、そうだ、そしてそれらを作るための貴金属はどこから手に入れていると思う?」
言われて、遅まきながら気付く。
「ミスタリアの家の領地……」
「しかもあそこのミスリル鉱は良質で、人気が高く、非常に高値で売れる。ミスリル鉱で作ったものは我が領地では一番の稼ぎ頭だ」
それは知らなかった。
「お前とリルファーデ嬢が結婚するからこそ、良質なミスリル鉱を他所へ売るより値を下げてもらっていたんだ」
「でもあそこはうちに借金があるじゃないか! それに支援しないと日々の生活だって困るほどだ! うちの方が強いだろ?!」
「借金など、通常のミスリル鉱の値段に比べたら安いものだ。もし我が領地と適正な価格で取引をしていたら、リルファーデ子爵家はとっくに借金を返済して、それなりに暮らしていただろうさ。お前との婚約を解消すれば済む話だが、リルファーデ子爵家は家同士の契約を重んじて、我が家との付き合いを維持するために、お前とリルファーデ嬢の婚約を継続してくれていたんだ」
兄の言葉に衝撃を受けた。
……そんな……。
「お前はリルファーデ子爵家の誠意に泥を塗って返したんだ。それに、お前は三年前に病が流行った時、リルファーデ子爵家から譲ってもらった薬で助かったというのに、恩を仇で返したことになる」
それはハロルドも知っていた。
三年前、ハロルドが流行り病にかかった時にリルファーデ子爵家から治療薬を譲ってもらった。
「お前も知っていただろう? あの薬の元になる薬草を、リルファーデ嬢が家族のために一人で山に分け入って摘んで来たことを」
それも、知っている。
ミスタリアと婚約して三年目の時のことだった。
でも、あの頃から既にハロルドはミスタリアとの婚約が嫌で嫌で仕方なかった。
薬に関しても感謝したことなど一度もなかった。
婚約してやっているのだから、それくらい当然だと思ったし、あのミスタリアならそれくらい別に大変なことではないと分かっていたから。
「あの三年前の不作でリルファーデ子爵家はうちに借金を作った。それをリルファーデ子爵家が申し訳ないからと、お前とリルファーデ嬢の婚約を理由にミスリル鉱を安くしてくれたんだ」
……そういえば、聞いたことがある、気がする。
ハロルドとミスタリアが結婚するから、イルンストン伯爵家は良いミスリル鉱を手に入れられると。
いつだったか、父がそうこぼしていた。
「本当なら、お前の命を助けてくれたことを思えば借金など帳消しになっても良いはずなのに、借りたものは返すべきだとリルファーデ子爵家は毎年少しずつ返済している。それでは釣り合わないと支援を申し出たのは我が家からだ。支援金はお前の命の恩人に対するものだ」
イルンストン伯爵家から支援金を申し出た……?
そんなこと、ハロルドは知らなかった。
「ミスリル鉱だけじゃない。我が領地で扱う貴金属の大部分はリルファーデ子爵家から買っている。それらも借金の利息代わりに安く設定してある。お前とリルファーデ嬢が婚約を破棄すれば本来の適正価格に戻り、我が家の経営は今よりも苦しくなるだろう。お前はリルファーデ子爵家が我が家に寄りかかっていると思っていたようだが、実際は我が伯爵家がリルファーデ子爵家に寄りかからせてもらっていたんだ」
ハロルドは今度は別の意味で呆然とした。
ずっと下だと思っていたミスタリアの家が、本当はそんなことなどないのだと言われても理解出来なかった。したくなかった。
「そんなっ、嘘だ……!!」
「嘘ではない。我が家が数ある伯爵家の中でも裕福で、勢いがあるのは、リルファーデ子爵家のおかげなんだ」
兄の言葉にハロルドは首を振った。
ミスタリアは子爵家の令嬢で、自分よりも下でなければならない。
それこそが正しい在り方なのだと思う。
「それをお前は他のご令嬢と浮気した挙句、当主である父上の了承も得ずに婚約を破棄すると手紙をリルファーデ子爵家に送ったそうだな。街中でリルファーデ嬢に婚約破棄を一方的に告げたことも報告が上がっている」
兄が、頭が痛いと言いたげに額に手を当てた。
「リルファーデ子爵家からの手紙で事の次第を知った父上は酷くお怒りだ。私もお前には失望した。我が家はリルファーデ子爵家に慰謝料を支払い、今後はミスリル鉱を含めた貴金属は相場通りの取引となるだろう。経済的にも、家名にも、傷が付く。……お前のせいでな」
はあ、とまた兄が溜め息を吐いた。
長く、重苦しい溜め息だった。
「……申し訳、ありません……」
ミスタリアとの婚約を破棄したのは間違いだった。
「で、でも、もう一度婚約を結び直せば……!」
ジロリと兄に睨まれてそれ以上は言えなかった。
「既にリルファーデ子爵家は婚約破棄を認めてしまっている。それにリルファーデ嬢も職を見つけて働き始めていて、お前との仲を戻す気は微塵もないだろうよ」
「っ、分からないじゃないか、あのミスタリアなら笑って婚約し直してくれるかも……」
「リルファーデ嬢が就いたのは宮廷魔法士団・紫水だぞ? あそこはお前よりも優良な結婚相手が大勢いる。今更お前など相手にされないだろう。何より、浮気をして一方的に婚約破棄されて、お前ならば許す気になるか?」
兄の問いにハロルドは答えられなかった。
許すなど自分であれば到底無理だと思ったし、自分の言っていることがどれほど身勝手なことなのか分かってしまった。
宮廷魔法士団と言えば、王国の中でも優れた魔法士達が所属する場所である。
その功績は騎士よりも上だ。
それにどうしても魔力の多い貴族が魔法士になりやすいため、宮廷魔法士団と言えば、家柄も良く、魔力も多く、見目の良い者達が多いと有名だった。
ハロルドも騎士として王城に出仕しているが、王城の警備に当たる第三騎士団はさほど珍しい職でもない。
どちらも安定しているが、どちらかを選ぶならば殆どの者は魔法士団で働いている者を結婚相手に選ぶだろう。
兄がふと思い出した様子で口を開く。
「そういえば、お前の浮気相手はドロテアといったか?」
「あ、ああ……」
浮気相手と言われると途端に罪悪感に苛まれる。
「ドロテア=ブランドリー伯爵令嬢だ」
ハロルドが初めて好きになった女性であり、相思相愛になった女性でもある。
もしミスタリアとの婚約がなければ、きっと、ハロルドはドロテアと社交界で出会って、婚約していたことだろう。
だが、兄が呆れた顔をする。
「ブランドリー? もしやあのドロテア=ブランドリーか? 金髪にルビーのような瞳の?」
ハロルドが頷けば、兄が天を仰いだ。
「お前は本当に愚か者だな……」
その声は呆れと感心とが綯い交ぜになったようなものだった。
「ドロテア=ブランドリーと言えば、子息達の間では『一夜の相手に良い女』と囁かれているのを知らないのか? それなりに見目が良くて金があれば誰にでも肌を許すような女だぞ」
「え……」
そんなはずがない、とハロルドは思った。
確かにハロルドはドロテアと既に肌を重ねたこともあったが、恥じらい、痛がり、それでも受け入れてくれた姿は初心に見えた。
「まさか、そんな、だってドロテアは俺が初めてだって言っていた! 俺を愛してるって!!」
兄が三度目の溜め息を吐く。
「彼女は火遊びが過ぎて結婚相手がいなくなってしまったんだ。噂に疎かったお前はあっさり引っかかった。だから社交は大事にしろとあれほど言ったのに……」
その言葉を理解したくなかった。
「ブランドリー伯爵家も皆金遣いが荒くていつも金がないと有名だぞ? 父上は絶対にドロテア=ブランドリー伯爵令嬢との婚姻を許しはしないさ。そんな家と縁続きになったら最後、永遠に金をたかられるのが目に見えている」
……そういえば、ドロテアはいつも装飾品や流行りのドレスを欲しがった。
ハロルドは自分の給金と家から送られてくる金でドロテアに贈り物をしていたが、ドロテアがそれを身に付けて見せてくれるのはいつも最初の一回切りだ。
あとは「愛するハロルドがくれたものだから大事に仕舞っているの」と言って、二度と見ることはなかった。
ハロルドは全く気にしていなかったが、もし、贈った物を換金していたとしたら?
デートに行っても、いつも金はハロルドが払っていた。
「……リルファーデ嬢の何がそんなに嫌だったんだ? お前達は昔から仲が良かったじゃないか」
兄の言葉にハロルドは驚いた。
「仲が良かったことなんて一度もない!」
ミスタリアを初めて見た時、自分の婚約者が地味でがっかりした。
それでも仲良くなろうとした時期もあった。
だが、ミスタリアのことを知る度にハロルドのプライドは傷付き、ご令嬢らしくないミスタリアに呆れ、心は離れていった。
ミスタリアは活発な女の子だった。
子爵邸のある街の子供達と日がな一日駆け回ったり、騎士達と手合わせをしたり、邸の掃除を手伝ったり、とにかくよく動く女の子で、貴族のご令嬢としての淑やかさなど欠片もない。
婚約後はそれらを控えるようになったが、ハロルドが騎士達から剣を学んでいた時には一緒になって木剣を振り回したりするような性格で。
それがハロルドは嫌だった。
「だってあいつは俺より強いじゃないか!! 騎士を目指してた俺より剣の腕が強い女と結婚するなんて冗談じゃない!!」
ミスタリアは強くて、頑丈で。
比べられるのがとても苦痛だった。
その愛称『ミスリル』に相応しく、あまりにも強かったのだ。
精神面でも、肉体面でも、ハロルドはミスタリアに敵わない。
だからハロルドはミスタリアが嫌いで、その愛称を呼ぶことすら嫌っていた。
「そんな理由で?」
兄の驚いた声に歯を食いしばる。
ハロルドにとっては『そんな』ではない。
婚約者の、自分よりも歳下で小柄な女の子に一度も勝てず、酷く悔しい思いをしても、当の本人のミスタリアは全く気にもしていない。
それがハロルドにはどうしようもないほど、嫌だったのだ。
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