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婚約破棄 / 紫水の問題

 






 わたしには婚約者がいる。


 わたしの家はしがない子爵で、それも貧乏になって没落しかかっているような家で、両親も三年前に流行り病で亡くなってしまった。


 父の友人であり、隣接していた他領の伯爵家から援助を受けて何とか暮らしているが、とても貴族とは言い難い生活だ。


 だからなのか。


 目の前の婚約者が言う。




「お前のように気が強くて馬鹿で女らしさが欠片もないような奴と結婚するなんて絶対に嫌だ。それに俺には愛するドロテアがいる。だからお前との婚約は破棄する」




 婚約破棄、と呟く。


 赤髪に緑の瞳の婚約者、ハロルド=イルンストン伯爵令息がハッと鼻で笑った。




「そうだ。まあ、最後の情けにそれなりの慰謝料は払ってやろう。俺に感謝するんだな」


「あら、ハロルド様は本当にお優しいですわね」




 笑うハロルドにドロテアという女性がしなだれかかり、豊満な胸元をハロルドの腕に押し付けた。


 ……なるほど、そういう女性が好みだったんだ。


 ドロテアという女性は女性らしい人だった。


 それなりにお金のある家のご令嬢なのか、ドレスに身を包み、ほっそりとした手には傷一つなく、真っ白な雪のような肌に曲線のある女性らしい体つきで、きっと街を歩けば大抵の男性は振り向くだろう。


 妖艶と称せる顔に目元の泣き黒子が色っぽい。


 輝くような金髪にルビーみたいな紅い瞳がキラキラしていて、自然と目が引き寄せられる。


 わたしみたいにチビで痩せて、出るところなんて全然出ていない子供みたい体形なのは、お気に召さないはずである。


 それにわたしは髪は銀灰色と地味で、濃く暗い紫の瞳もどちらかと言えば地味な部類だろう。


 目の前で、うふふ、あはは、と二人が笑っている。




「分かりました。でも婚約破棄に関しては叔父様の許可を得てください。わたしだけではどうしようもないので」


「ああ、分かっている。今日は前もって伝えに来ただけだ。後日改めて書類は送る」




 清々したという顔でハロルドが言う。


 いつかは彼と結婚するのだと思っていたが。


 わたし達の婚約はわたしのお父様である子爵とハロルドのお父様の伯爵との間の口約束であった。


 婚約届は出されていなかったが、両家共にそのように考えており、友人達にもそのように話していたのだ。


 ハロルドとドロテアという女性は寄り添い合って、離れて行った。


 ……それにしても、何もこんな街中で話すようなことじゃないと思うけどなあ。


 周囲から好奇の視線が突き刺さる。


 これでわたしは数日中には他の女に婚約者を奪われた女だとか、捨てられた令嬢だとか、色々と社交界で噂されるのだろう。




「どうでもいいけどね」




 両親が亡くなった後、喪に服しているうちにわたしのデビュタントの時期は過ぎてしまった。


 いや、両親が生きていたとしても経済的に苦しくなってしまったから、デビュタントのドレスや装飾品を用意する余裕もなかっただろう。


 どちらにしてもわたしはデビュタントが遅れてしまうことになったのだ。


 そしていまだに果たしていない。


 元々、貴族のご令嬢としては少々お転婆なわたしなので、デビュタントも面倒に感じていたのでどうでもいいことだった。




「……やば、就職先探さなきゃ!」




 ハロルドとの婚約が破棄される。


 つまり、伯爵家からの援助も打ち切られる。


 領地のことなら何とかなるけれど、生活面でかなり苦しくなってしまう。


 それを回避するには働くしかない。


 普通の貴族のご令嬢であれば「働くなんて!」と思うだろうが、わたしは労働することが結構好きだ。


 それには理由がある。


 わたしには生まれた時から記憶があった。


 こことは全く違う世界だけれど、一人の女の子として育って、やっぱりそこでも働くことが好きだった。


 だって自分で稼いだお金で買った物は特別なのだ。


 頑張って稼いだお金だから大事に使うし、買った物も大事に出来るし、アルバイトだったけど気のいいおばさん達が多くて働きやすかった。


 これまではハロルドに「恥ずかしいからやめてくれ」と言われていたが、もう気にする必要はない。


 ハロルドに婚約破棄されたのはショックではあるが、恋愛的な意味での好きではなかった。


 それだけが唯一の救いだろう。


 婚約破棄の件に関しては叔父様に任せればいい。


 パチリと両手で頬を叩く。




「よし! 働こう!」




 拳を握り締めて気合いを入れる。


 ミスタリア=リルファーデ、十八歳。


 没落しかけたリルファーデ子爵家の長女であり、どういうわけか別世界に転生するという、人とはちょっと違う経験を持っていた。









* * * * *









 ユースタリア王国の王都ユグランジュ。


 国王陛下の座す王城の一角に、宮廷魔法士団があった。


 魔法士団は三つに分かれているのだが、そのうちの一つ、呪いや状態異常、毒魔法などを専門に研究する『紫水しすい』の職場は別名魔窟と呼ばれている。


 先にも述べた通り、紫水は基本的に呪いや状態異常、毒魔法といった危険な魔法を扱っているため、そこに属する魔法士達の研究部屋などはそれらの魔法の痕跡や実験などで酷い状況になっていた。


 共用スペースはまだいい方だ。


 だが、個人のスペースになると途端に汚い。


 魔法士達は魔法という点においては他よりも優れていたが、同時に、紫水に集まる魔法士達は興味のないことはとことん苦手という性質を持ち、大多数は片付けや掃除が下手なのであった。


 使った物が自然に綺麗になるはずがない。


 その結果、紫水に与えられた区画は汚れ、荒れ放題で、しかも実験がそのまま放置されてよく分からない謎の物体などが落ちていることもあるため、通称魔窟なのである。


 そしてこれに問題を感じたのは、三つある魔法士団のうちの残り二つの士団長達だった。


 攻撃魔法に特化した紅玉こうぎょくの士団長が言う。




「あのままではいつかこちらまで被害が来る」




 防御魔法に特化した琥珀こはくの士団長が言った。




「あれでは仕事にならないでしょう」




 それに紫水の士団長がこう返した。




「仕方ないよ。出来る人間がいないんだもん」




 それならばと紅玉と琥珀の士団長二人は、清掃専門の人間をつければ良いと考えた。


 紫水の士団長もそれには同意した。


 かくして、宮廷魔法士団紫水の清掃員となる人材を数名募ることとなった。


 応募要項は以下の五つであった。


 一つ、身分が明らかであること。


 一つ、口が堅いこと。


 一つ、健康で働き者であること。


 一つ、長く働く意思があり、働ける者。


 一つ、仕事中に区画内で見聞きした内容を他言しないという誓約書を交わせる者であること。


 とても明確で分かりやすい募集内容だった。


 だが難しい募集でもあった。


 募集要項はたったの五つであるけれど、まず第一の身分が明らかであることというのが難しい。


 たとえば平民でも近親者が騎士であるとか魔法士団に所属しているとかであるならばともかく、ただの平民が、自分の身分を明確に証明出来るものはない。


 これは遠回しに貴族出身者に対する募集だという意味であった。


 次の口が堅いこと、というのも難しい。


 貴族にとっては噂やお喋りは大事な社交の一環であり、口の堅い者も多いが、同じくらい貴族には口の軽い者もいた。


 三つ目の健康で働き者であるという点で、貴族の、それも男性を暗に意味していた。


 貴族の女性は高位になればなるほど仕事を持たず、男爵や子爵、伯爵家の次女や三女がせいぜい女家庭教師ガヴァネスになるか、王城で働くかであった。


 しかし王城で働く中には箔付けのための者もいる。


 そして四つ目の長く働く意思があり、働ける者というのも男性に向けてのものだった。


 貴族の女性は結婚することで結婚相手の家に入り、もし仕事をしていても辞めるのが基本で、夫となる男性もそれを望むため、長く働ける者となると未婚を貫くしかない。


 最後の誓約書を交わすというのも問題だ。


 魔法で縛られることになるため、嫌がる者も多い。


 だが、何より大きな問題がある。




「おいおい、半数近くが貴族のご令嬢だぞ?」




 紅玉の士団長が呆れた顔をする。


 横で琥珀の士団長が溜め息を吐いた。




「まあ、こうなるとは思っておりました。何せ我々魔法士団は地位もあり、給金も高く、見目の良い者も多い。言うなれば優良な結婚相手の宝庫ですからね」




 魔法士団は貴族が多い。


 平民出身の者もいるにはいるが、貴族の方が魔力を有する者が多いため、どうしても貴族の割合が高い。


 そうなれば当たり前のようにまだ相手のいないご令嬢達が、我先にと結婚相手を探しに飛び込んでくるというわけだ。




「本当に面接するの〜?」




 その応募人数の多さに紫水の士団長が辟易した顔をしたが、紅玉と琥珀の二人の士団長は頷いた。




「必ず清掃員を見つけるぞ」


「このままあの魔窟を放置するなど出来ません」




 そういうわけで、異例なことではあったが、三つの団の士団長による、宮廷魔法士団紫水の清掃員兼雑用係の選定が始まったのだった。










* * * * *









 ……今日も職場は酷い有様だ。


 自宅である公爵邸から出勤した、アルフリード=リュディガーは内心で溜め息をこぼした。


 公爵家の次男で、二十歳という若さでありながら宮廷魔法士団紫水の二人いる副士団長のうちの一人でもあるアルフリードは毎朝同じことを思っていた。


 せめて、あともう少し綺麗であったなら。


 同じ魔法士団どころか騎士や王城で働く使用人達からも『魔窟』などと呼ばれるこの職場は確かに酷い。


 共用スペースはまだいい。


 来客が多いこともあって、個人の研究部屋よりかはずっと綺麗だし──それでも廊下や部屋の隅に綿埃などが溜まっているが──、邪魔な物も置かれていない。


 これが個人の研究部屋になると惨状と化す。


 床にはメモや実験結果などが記された紙が足の踏み場もないほどに散らかり、そこら中に本が山積みにされ、机の上はほぼ実験の道具によって占領されて、場合によっては長年放置された謎の物体や液体が入ったまま埃を被っていることもある。


 アルフリードはすれ違う同僚達と時折挨拶を交わしつつ、足早に自身の研究部屋へ向かった。


 紫水の区画の中で、共用スペース以外で比較的まともなのはアルフリードの部屋くらいだ。


 周りの研究部屋の惨状を見て、自分だけはそうはなるまいと思い、気を付けてはいるが、それでも整理整頓がなされているかと言われればそうではない。


 机の上は紙の束が多いし、本棚に収まり切らなかった本達はやはり棚の近くに積み上げられているし、散らかしてはいないが掃除する暇もないので隅には埃が溜まっている。


 そういう点ではアルフリードもまた、掃除が出来ない分類の人間であった。




「……いや、それでも僕はまだマシな方だよね」




 それにアルフリードは公爵家の次男だ。


 これまで掃除は使用人が行っていたので、アルフリード自身、掃除ということをしたことがない。


 やろうとしたことはあったが、掃除は魔法の研究や分析よりも難しい。


 かと言って安易に屋敷の使用人を呼ぶことは出来ない。


 この区画にある研究資料などは口外出来ないものも多く、うっかりどこかで広まれば、悪用されるだろうことは考えるまでもない。


 だから基本的に個人の研究部屋は自分達で掃除するしかない。


 平民出身の者の部屋はわりとアルフリードの部屋と似ているが、そちらも、やはり片付いているとは言い難かったりする。


 ……どこを見ても汚ければ確かに魔窟ではある。


 こんな職場を見る度にやる気が削がれてしまう。


 公爵家のように隅々まで綺麗でなくとも良い。


 せめて、あともう少し、埃っぽさや荒れ具合を何とか出来れば職場環境はもっと良くなるだろう。




「……とりあえず仕事しよう」




 そのようなことを考えていた頭を振る。


 考えたところで意味のないことだ。


 それよりも今研究中のものについて、論文と実験を進めなければ。


 それに士団長がやらずに溜まってしまっている書類の山も後で処理をしに行かなければならない。


 ……あそこ、あんまり行きたくないんだよね。


 この紫水の士団長の部屋は、魔窟のトップだけあって、本当に酷い状態なのだ。


 アルフリードは荒れ放題のあの部屋が苦手である。


 埃と薬品の刺激臭、古びてカビた本とインクの臭いがする部屋は、紙だけでなく乾いてパリパリになったインクや謎の薬品が染みて読めなくなった本が床を覆う。


 実験をする度に物が増えていく机はもうサインをする場所もなく、士団長にサインを求めると、あの人は壁に書類を押し当ててする始末だった。


 紙が散らばっていてロクに窓も開けられない。


 数年前の報告書の書き損じやメモが発掘されるのはよくあることで、二つある三人がけのソファーは一つは実験道具や本で埋まり、もう一つは紙が散らばっているが、士団長いわく仮眠場所であるらしい。


 あんな部屋でよく寝られるな、と思ったものだ。


 はあ、とアルフリードは溜め息を吐く。


 今日もどこからともなく何とも知れない薬品のほのかな刺激臭が漂ってくる。


 職場環境は最悪の一言に尽きるのだ。








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[一言] ハロルド擁護派になりそう。 解消場所や浮気相手つれてきてはいただけないが、正直読んでて主人公捨てられてもしゃーないわって気にしかならない。 解消前に本人に話をとおしにきて、ちゃんと手続きも順…
[気になる点] ・きちんと婚約せずただの親同士の口約束で、しかも親が死んでからずっと援助してもらっていたのだったら、法的にも道義的にも慰謝料を受け取る権利はないのでは。むしろ援助のカタに嫌でも結婚しな…
[一言] 「そうだ。まあ、最後の情けにそれなりの慰謝料は払ってやろう。俺に感謝するんだな」 慰謝料払って当然!こんな人と結婚しなくてラッキーだったやん。早く、本性が分かってよかったね。と思ったよ。
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