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片隅

銅壷

作者: 酒月沢 杏

※この作品はフィクションです。実在する人物、作品とはまったく関係ありません。

ちなみにですが時代背景は大正から昭和初期をイメージしてます。

私は先生を迎えるための準備をしていた。


火おこしで赤くした黒炭を火鉢へ入れ、灰をかぶせる。


温まるのを確認して五徳を埋めて赤い黒炭を追加した。


五徳の隣には軽くスペースを開ける。


私はふと着物の裾に灰がついていないか気になり確認をした。


「大丈夫です。ついてませんよ」


後ろからそんな指摘を受けて私は安堵とともに振り返る。


「千咲、入るときは声をかけてくれといつも言っているだろう。びっくりしてしまうじゃないか」


「ふふっ、それは失礼しました。なんせとても楽しそうに準備していらっしゃるものですから、邪魔をしては悪いかと」


話しかけてしまっては元も子もないと思うが、何も言わない。


なんだか少し恥ずかしくなり、私は千咲に背を向けて腰を下ろした。


「先生なら、もうすぐいらっしゃると思いますよ」


「・・・そうか」


千咲のにやけ顔が目に浮かぶ。私は羞恥で彼女と顔を合わせられない。


「楽しみにしてらしたものね・・・そろそろお酒の用意をいたしますか?」


「そうだな、ここまで持ってこなくていいけど出しておいてくれるか?」


「かしこまりました」


そう頭を下げ千咲は襖の奥へ消えるのを気配で感じて私は息をついた。


今の時代、こんなふうに夫婦が仲睦まじく話しているところはそう多くないと思う。


自画自賛ではないし、ましてや外に誇れるものでもないが、私はどうにも亭主関白だとか、そういうものがあまり好きではなく、千咲には一人の人間として友人のように接している。


このことを先生に話したときは「そうか、お前はそういうやつだものなぁ」と笑っていた。


いいとこのお嬢さんであった千咲も最初は困惑したものの、今では笑顔で私の前に立ち、酒を飲み過ぎれば鬼も逃げ出す形相で、私の帰りを待っていてくれるのだ。


これほどの幸せはないと、街の呑み屋にいる娘さんにもよく自慢をした。


私がこんな売れない物書きなんぞしているものだから千咲には苦労をかけている。それだけが私の胸に引っかかり続けていた。


そんなことを悶々と考えながら私は先生との晩酌の準備を進めた。


火鉢はその熱をゆっくりと上げ、部屋には暖かな空気が満ちていく。


私はこの時間が大変好きだった。


外の色が茜から紺色に染まり、私のどてらと同じ色になる頃、障子の向こうから声がした。


「麻助さん。先生がいらっしゃいました」


私は恥ずかしながら体をビクリと震わせた。


なんとか緊張を表に出さぬよう立ち上がり障子を開け、表へ出た。


「お久しぶりです。先生」


「おぉ、麻助。久しいな。またお前痩せたんじゃないか?」


先生は笑いながらその愛用のコートを風になびかせた。


「先生、今夜はご足労いただきありがとうございます」


「なに、いいってことよ。僕は教え子と美味い酒を飲むのが大好きなんだ。何よりお前は良い酒を持ってくる。僕はただ、仕事の合間で教え子に酒をたかりに来ただけよ」


そう言って自慢の黒帽子をとる。


先生と最後に会ったのはもう、二年も前になるだろうか。


あれは忘れぬ桜の季節に、先生は千咲を紹介してくださった。


学生時代に文字ばかりを書き、恋のこの字もなかった私を見かねた先生は私に何度もお見合いをさせた。


どうにも気が乗らぬ私を根気強くお見合いさせた先生は普段の飄々とした姿からは想像できぬほど強引だった。あのときの先生は頻りに「嫁は良い。道具とは別の意味で僕たちには必要不可欠な存在だ」と私に言っていた。


その時はまだその意味がよくわからなかったが今ならよくわかる。彼女がいなければ私は文字を書き続けることはできなかっただろう。


先生には返しても返し切れない恩が沢山ある。


私は、その恩すらも縁と思って先生との関係を絶たぬように手紙を送ったりした。


先生は忙しい中ではあるが私の手紙を返したり、作品の直しなどをしてくださってもいたのだ。


「どうぞこちらへ」


「ありがとう・・・おぉ、暖かいな。火鉢か」


「えぇ。先生が来る前からつけていました」


「それはありがたい、私はこの暖かさが好きなんだ」


手のひらを擦り合わせながら座布団に腰を下ろす。


私も先生と対面になるように座った。


それと同時に家の奥から千咲がお盆に酒を乗せて出てきた。


「先生、お久しぶりです」


「おぉ、千咲か。また一段と可愛くなったな」


「そんな・・・ありがとうございます」


「せ、先生、人の嫁を口説かないでいただけますか?」


照れた姿の千咲を見ると妙にくすぐるような気持ちがして、私は先生に口を開く。


「ハッハッハ!、やはり嫁をやってよかった!」


これを狙っていたとい言わんばかりに愉快そうに先生は笑う。


「・・・お人が悪いですよ先生」


「良いだろう、千咲も喜んでいるわけだし。何より僕が愉快だ!」


先生は昔からこんな方で快楽主義というか、自身の良いと思うものを全て楽しんでいるような人だった。


呆れを隠さず先生を見ながら、横においてあったとっておきの道具をだす。


「これはこれは燗銅壺とは。乙なものを持ってるな麻助」


「昔先生が買ったほうがいいと仰ってくれたではないですか」


「おぉそうだったか!お前は単純なやつだな!」


「否定はしませんが、本人に向かって言うのはやめませんか?」


とりあえず火鉢の比較的新しい火のついた炭を数個、銅壺の中へ入れる。


網のある場所に一緒に持ってきてもらったエイヒレを乗せる。


「慣れてるな」


「一人で飲むときも、愛用しておりますので」


「そうだな、良い使い方をしているようだ」


先生は少し煤のついた銅壷を見て満足そうに微笑む。


私はいつもと同じように酒を注ぎ、銅壷の中へ入れ熱燗を作る。


「火鉢で作るのもよいが、やはり燗銅壷は見ていて気分が高揚する。浪漫があるな」


「えぇ、より酒がおいしくなります」


ゆらゆらと少しずつ浮かんで見える湯気の動きを見ながら私はその高揚を嚙み締める。


先生の言う浪漫というものを、私は大変好いていた。


文字にしろ、言葉にしろ、趣味にしろ・・・自身の気持ちが高揚する方へ進めと教えられた。


そんな高揚する道こそが文学なのだと、言葉なのだと、そう言っていた。


それによって先生は文学史に名を刻むほどの作家となった。


私も、そこまでとは言わないが、誰かの記憶に残るような、そんな言葉が書きたいと今や昔の学生時代に先生の仕事部屋の戸を叩いたのだ。


「・・・お前は、すごいやつだ」


「ど、どうしたんですか。急に」


突然の呟きに驚きを隠せずつい聞き返してしまう。


「僕の手を離れた今だからこそ言えるがね。僕は君のことが羨ましかったんだよ。ずっとね」


「な、何を仰るんですか!、私はまだまだ未熟で若輩者です」


実際、結果にも未熟さ、そしてその才能のなさは表れている。


文芸誌などにも何度か先生の紹介や同期の友人たちの伝手で載せてもらった。


一人で本も作った。他の出版社にも持って行った。


人気も出ず、目にも触れられず、出版社の人間や講評から向けられるのは冷たい目と言葉ばかり。


収入は伸びず、少しの蓄えと外国書の翻訳で何とかやりくりをしている状況だ。


千咲にも本当に苦労をかけている。


着物を作る内職で本来働かなくていいはずの妻が働いて、生活費を入れてくれているのだ。


後ろ指を指され、親の金に頼っている自分が、本当に恥ずかしい。


でも私には、文字しかないのだ。


「お前は・・・我々作家という人間のなかではかなり特殊な人間だ」


先生はあったまってきたお酒を自分で取って注ぐ。


私はあわてて自分が注ぐと手を伸ばすが黙ったまま手で止められた。


「自分より人を書く作家で、書き言葉より話し言葉で、死より生を、憎より愛を書くような。今ではずいぶん珍しい詩人のような作家だ」


私の御猪口に酒を注ぎ、自身の酒を口に運んだ。


この人が自分より経歴の浅い人に酒を注ぐのを初めて見たので私は目を丸くする。


先生が自ら酒を注ぐのは心の底からの尊敬の証だと、そう聞いたことがあった。


それは確か、大手文芸誌の会食があった日だっただろうか。


先生の教え子はみな、先生に認められ、その酒をもらうことを憧れとしていたのだ。


「・・・先生」


私は注がれた酒をそっと置き、先生の方を見る。


「慰めなら、どうかおやめください」


「なに?」


この時の私の目は先生にとってどう映ってたのだろうか。


私は、初めて先生に怒っていたのだ。


「確かに、私は貴方の教え子の中でも指折りで売れず、連載も取れず、そのくせ、他の教え子と違い潔く筆を折らない。言葉に縋りつくことしかできない私を惨めに思い、道端に凍える猫のように見えるのはとてもよくわかります。きっと私が先生の立場ならきっと同じ気持ちを抱いたでしょう」


悔しくて仕方なかった。先生にまでそんな風に思われたら、私の文学をすべて否定されるようで。


「ですが、貴方までそんな風にされては、私はどんどん惨めになっていく・・・つらいのですよ。皆の優しさが私はつらいのです。その優しさや恩に答えられない私がどんどん嫌いになっていく・・・!」


拳を握り締めて、今度はちゃんと先生を睨んだ。


「足りないんですよ。どれだけ書いても・・・書いても書いても書いても!!貴方たちにも、私にも、響く言葉が生まれない!!誰も僕の書いた言葉を必要としてくれないんだ!!!」


最低なのはわかったいた。人のせいにして、自身の才能のなさへの怒りを、恩師にぶつけているような愚か者。


大切な妻が見ているそんな場所で恥をさらす。


最低でありました。


「・・・すまなかったね、麻助。訂正しよう。お前は・・・我々と同じ作家だ」


先生は申し訳なさそうな顔でそう呟いた。


「僕はね。僕が嫌いなんだよ。僕が書く言葉も、作品も、人生ですら」


お酒をもう一度注いでそれを一気に飲み干した。


「僕は優しくない。僕は誰かを傷つけることでしか作品を書けない。その中には私も含まれている。誰かの苦しみしか表現できないんだよ。苦しみは売れるんだ」


小さく首を振り、私の書き机を見る。


「お前は違う。我々が書けないものを持っている。書けなくなってしまったものを持っている。それはたとえ認められないとしても、金にならないとしても、才能だ。我々は、お前の言葉を愛していたんだよ」


優しい目だ。こんな目は見たことない。


「だから、僕や君の友人たちは何とかしてその優しい言葉を届けたかった。より多くの人に」


そう言って息をついた先生を見て私も何も言えなかった。


ある文芸誌の作家評価の記事で、私の作品を三文小説だと罵られた日のことを思い出す。


先生や友人は大変私のことを気にしてくれたし、その通りだなんて言う人もいなかった。


だが何より、自分自身がそうかもしれないと思っていた。


誰よりも自分が、自分の言葉に優しくなかった。


「今回お前と話してわかったよ。お前も僕たちと同じ、立派な作家だった。しっかりと自分のことが嫌いだった。ただ、その言葉の優しさで包んで、見えなかっただけなんだな」


「すまなかった」と頭を下げる先生に私はあわてる


「そんな!先生や彼らは私をこんなにも気にしてくださって・・・頭を下げることなんて何もないのですよ」


「自分で僕のことを責めたのではないか。惨めになると」


「そ、それは・・・」


「わかっているから、僕はこの頭を下げるのだよ。自分も、その優しさは凶器にもなるとわかったからね」


酒を飲み、丸い眼鏡を上げてその目を見る。


「僕らみたいな人間は、文字でしか表せないし、分かり合えない。僕らに人間と器用に付き合うすべをあまり持たない。だから魅力的なんだよ、お前のような物書きは。お前という人間が」


小さな肩掛け鞄から一枚の紙を出す。


それは活版印刷によって刷られた紙には、文芸誌と書かれているのが見えた。


「金など関係なく、僕らはお前の言葉が見たい。一人の物書きとして、そして君を育てた師として、ここでその言葉を見せてほしい」


これは、私の最後の場所。そう思った


「好きに、書いてもいいんですか?」


「お前のページは四ページ。そこの場所で書くことに、この僕が、誰にも文句を言わせない」


あぁ、やはり書いててよかった。


あの日手に入れた言葉を、手放さなくてよかった。


「・・・書きます。どうか書かせて下さい」


「ハハハ!、僕が書いてくれと頼んでいる側なのに、お前は本当に面白いやつだ!もう一度私のもとで言語を勉強し直すか?」


「それも、良いかもしれませんね」


襖の向こうで安心した顔をした千咲が目に入り、なんだかとても申し訳なくなる。


彼女にも、今度何かお礼とお詫びをしなければな。


「それじゃあ、飲もうか。今夜は祝い酒だ。付き合ってくれるな?」


「えぇ。ただどうか、あまりはめを外さぬように」


「生意気な教え子だ!ハハハ!!」


チリチリと銅壷の中で炭が音を立てる。


それから、私はその文芸誌を先生亡き後も引継ぎ、多くの仲間と共にその生涯を人と文学に捧げる。


私が愛した言葉とともに

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