ルート、エル 5
その日の長距離ドライブの目的地は本州にかかる巨大な橋を見に行くことだった。
ただ見に行くだけ、それだけの目的だったが、公平はエリーと別れたくなかった。ただ眺めるだけと、思いながらも、ハンドルを握る手には力が入る。
はじめは信じていなかったタイムリミットはすぐそこまで迫っていた。
「なあ」
時間を自由に操れたらいいのに、と公平は荒唐無稽な願いを抱いた。
「ん?」
「僕と逃げへん?」
ぼんやりといつもの調子で、悲壮感を出さぬように訊ねる。
「ああ、それもええかもな」
エリーも目を細めて、静かに同意してくれた。
この二年で、公平はエリーの能力が本物だと確信していた。
緑地公園での出会いから、一年ちょっとすぎたくらいのことである。
真夜中、エリーが突然泣きながら公衆電話からかけてきたことがある。
理由を訪ねても教えてくれなかったが、大慌てで彼女の家に行き、一時間ほど過ごしたところで理由を知った。
赤ら顔のデップりと太った中年男が無理やりエリーの部屋に入ろうとしたのだ。男は公平の存在に気がついて、「すんまへん。部屋、間違えましたわ」と酒臭い息で嘯いて、去っていったが、もし、公平がエリーの家に居なかったらと思ったら、ゾッとした。
「アタシ、いややわ!」
鼻をすすりながら、エリーは顔をグシャグシャにして公平に抱きついた。
「なんで、アンタ、肝心なときに、おらんのよ! ばか!」
「駆けつけたんやから、ええやろ」
「そういうことやない! もし、今日、アタシが未来見てなかったらどうなってたと思うんや!」
「……」
エリーは望んだタイミングで望んだ未来を予知できるというわけではなかった。
自分の過ごすであろう先のことを断片的に知り得るだけなので、見落とすことが多々あった。
「不安にさせて、すまんなぁ」
「ほんまよ。このアホ、ドアホウ! ボケ!」
エリーは公平に抱きついて、泣きながら、小学生の考え付くような罵詈雑言を吐き出し、ひとしきり泣き終えたあとで、小さく「アタシはあんたがええ」と呟いた。
エリーとの思い出を噛み締めながら、アクセルを踏み、車はやがて、橋の麓の観光スポットについた。軽トラを空きスペースに駐車して、社外に出る。少し冷たい海風が彼らの髪を撫でた。
恋人の聖地と称されるだけあって、カップルが多い。ハート型のモニュメントを横目で見ながら、二人は海を眺めた。
向こうには本州がある。いくつも島を経由して、巨大な橋は陸に繋がっている。
そこに行けば、シャコウ様から逃れられると彼女は言った。その代わり、沢山の人間が死ぬとも。
もし、二人で逃げたら、幸せにはなれるかもしれない。色々なことに目をつむれば。
海鳥が鳴いている。それを優しい瞳で眺めながら、エリーは微笑んだ。
「アレ、乗ろ」
観覧車を指差す。
遊園地ではないが、雄大な景色を楽しんでもらうために作られた遊具だ。
料金を支払って、二人でシートに腰を下ろす。プラスチックの座席は固くて痛かった。
ゆっくりと、静かに、二人が乗った観覧車は上昇していく。
「あの橋を渡って、あんたと逃げられたら、それができたら、どんなに幸せか。望んだように生きられないなら、人生にはなんの意味がないってずっと考えとった。だけどな、すれ違った親子連れとか恋人同士を見てたらな、自分のエゴを押し通すのはほんまに悪いことなんやなぁ、と思ったんや。おかしな話やろ。アタシ、幸せそうな顔してる奴等がほんまに憎くて仕方なかったのに」
観覧車はゆっくりと頂上に上っていく。
海原の波は穏やかで潮騒が遠く聞こえた。
「それはたぶん、たくさん知りすぎたからやと思う。いろんな感情を知ったから、……あんたが、教えてくれたから。他人のそれを奪うことができんくなってしもうた」
そう言って彼女は薄く微笑んだ。
ワガママを押し通せるのは子供だけだ、と公平は思った。未熟な精神をもって、心の望む方向に行けたら、どんなに幸せか。
固く握った拳には血が滲んでいた。
「だから、ごめんな。あんたと逃げることはできへん。ほんと、……ほんとは逃げたいんやけど、……っ」
彼女は体をくの字にして嗚咽した。
潮風に錆び付いた観覧車が軋んで揺れる。
「ごめんなさい、ありがとう……」
観覧車がてっぺんまで来たとき、眼下に雄大な景色が広がった。海は太陽光を浴びてキラキラと輝いている。
公平の頬を伝う涙をなめて、エリーは悪戯っ子のように「しょっぱ」と笑った。
少女は明日、大人になる。
だから、せめて今だけは。
観覧車が地上に降りるまでは、
僕らを二人きりにさせてくれ。
観覧車は軋みながら、ゆっくりと地上に向かっていった。